真新しい靴がステップ

@i_no

 

















 靴をひと揃ひ誂へた。


 私は私の猫に与へた。


 いつとう新しい猫に。























 瞼を上げるよりさきに此れはゆめだと知れてゐた。


 階段の踊り場毎に華篭かごがあり、ひとつ〳〵を呼ばはりつゝにぎるなら、さもとり〴〵の姿態のまゝに応へのあつた。


 どれをもたがへるに匂はれる影として。

























鳶尾いちはつ、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、色好いろごのめるのいつのあふぎ、いろの方にひ遣はすににしよりのいましめいろいと解けば、いろくづいくひら零れたる……















鹿苑草ろくをん、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、ろくのはたてのろうと照らはるろうかくに、ろくぢん厭ひてろうきよせらるゝろうさうのをみな、だいに出でし刻……















白木蓮はくもくれん、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、はるかたけるはらから果無はかなく栖まひせるばうしやはなだのそらに月見えて、じとみひとつはなとぼそだにあらざるを……















忍冬葛にんだう、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、 にごりなるは西にしおもてげ無き紅錦にしきつらひて、波に浮寝のにほも入る日の影ににほふにや……















牡丹ぼうたん、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、ほうぜられたる反古ほうご翳せばほどくに、かげ仄々ほの〴〵と、星宿ほしかと見ゆ間にほんの跡はに出でて……















へびいちご、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、へいしよく渡るかぜへうはくせらるゝ片雲へんうんの、薄く入りたるへきへい、さをへんしうに献ぐかひなはへんじやうの……















けんくわ、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、とほくになるみやに傅かれたる、軒端連らひのとう燈籠とうろめて至れるも、とがめありしかとぎとぶらえして……















ちやう、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、ちかごと交はしてしほぢんかう染むが如、ちぎりおきたる知音ちいんなるとも、世にちくてんぢうくわなりせばずちもなく……















竜胆りうだう、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、えうに拠ればりうくわりうていりうによりうぐわんと名にし負ふ、口伝のけんを尋ね惑へるりうの果ての、斯くもりよぐわいうんにて……















射干玉ぬばたま、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、ぬれぎぬなれどぬすびとと逐はるゝ身にて、ぬえ瓊音ぬなとの導きに押入りたれるぬりごめは、いかでぬかづきゐたるあり……















縷紅草るこう、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、るいじゆるいだいの重宝なれば、忝くも推し頂くに、貫きとめぬるいしゆと散り添ひて……















女郎花をみなへし、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、踊狐をどりこひとつ、ごとざえを惜しまれて、をんの果てに辿り着きたる彼方をちかたざさはら……















わすれぐさ、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、戯奴わけ若子わことてわうらいに、わかれ来てより邂逅わくらばに、ざまをば見るだにもわうにふたゝびまみゆものとはわづかにも……















燕子花かきつばた、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、かうきしめてき添ふかひなかぐはしく、格子かうしへだてのかゞりにだに皓々かう〳〵と、きんひとつと映らぬを……















ひら、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、殿どのの裡にして、淀面よどもよこぐもの色にあえかによそほへる、目覚む気色にみ掛けて……















玉梓たまづさ、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、たはぶれとても手枕たまくらたまきはせばゆめたがへたかたのめて辿たどり至れるだう黄昏たそかれとうたてはなたてまつれるもしやうの縁と……















連翹れんげう、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、漣鈴れいを献ぜるれいじんたるがれいやうの、指つま先の、れん差し入る影に匂ひてれいろうの氷翠の如く晶かりゐて……















冬青そよご、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、すいに掛れば艫舳にて立つるは背向そがひそよそろひのそで其々それ〴〵を払つて弥更に、そゝぐは隈なき月の影……















椿つばき、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、つまる様につくろひつ、承くつくりばなへと比へられたるつゝみぶみかと知る許、其の身の程もつひじゆうぶりいたいて……















合歓ねむ、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、寝待ねまちのねや練絹ねりぎぬ臥睡ねむりの裡に沈む比、思ひの丈のはせとてもねぢくまで、ねび勝れるにねんごろに……















なゝかまど、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、などばかりの生業なりはひとても夏衣なつごろも、薄きなさけは掻いづ指を半空なかぞらに、立ちなづむ身の扨も余波なごり慰見なぐさみと……















臘梅らふばい、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、がいの裾に差し出ださるゝでんばこらんじやは匂ふ、らうかんの聲申すやう、此れなるはらいらうおんらいに……















木槿むくげ、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、むかし宿やどむぐらして、手をむすばうも飽かぬ垂滴も絶え果てゝ、みやうぢやうむらくもを払ふ風だになきむくひ……















卯花うつぎ、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、うちしきの針うち措いて、うすにび纏へば身なるじやううづみ鎮み、瞑れば転寝うたゝねまなうらにはやうしなへる泡沫うたかたうた……















ぐさ、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、もりいちびきまちの月に参ずとて、いぬゐねうらむとも、くらゐゐんに深くあゐくれなゐしほさゐ唱へて御座候……















凌霄花のうぜんかづら、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、のこンの月ののぎ冴えて、のきの玉水滴ればのえふのぼりうちしめり、潜むぶかのうじよきをのがれなむ……















沢瀉おもだか、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、おくみやおどろひ立ちて、おんぎよく復習ふおよびも斯くておもてを向ふ迄被くおすひを払ひなば、おぼろづくへるおにがた……















梔子くちなし、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、ぐわんを立つるに傀儡くゞつくだたまくしろとあらざれば、くわてううつしくろかみくゝり断てどもくしげだになし、くもくゆせばくすくわはう……















ぐるまぎく、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、やみやりみづ光るかと、かた仰げば立姿、やんごとなくもやうでうの音をさしげに舎族やからぎやうやつせるか……















まいくわい、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、鞠突唄まりつき濡らすまくらなけれど、まどまがきの花褪せて、真赭まそほまつはるまなじり妄執まうしうの映すもまぼろしなればかゞみ……















罌粟けし、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、けんぞくの戀はさうぶみ、手習ふ隙にだうなりせばけちえんげんかうあらじと云へども香花けんずてふ、しやうおもてに梳り……















ふぢ、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、臥処ふしどふせふたあゐふすまに夜をふかし、ふでを措きてゝふるものがたりしてるればふちふかふところかしては復たり明くる迄……















てうまめ、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、もと格子の表はこがらしはたごくらくことかいな、名残はこんじやうこわづかひしきつゞみ九重こゝのへそでこのかみごころこのしたやみこもりか……















金雀枝えにしだ、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、えだを交はせるえんとてもえんの果つれば散り〴〵に、絡む蔓もぞめえいと失せれば、手なるものたる……















てんぢくあふひ、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、てんこつあらざるをなるが身をてらふ間に、そになるてき殿でん逐はれ、てりが袖を愧づる儘立木紛れにあるとかや……















菖蒲あやめ、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、あいしうあうなしあけくれあざれもかなくに、あかときつゆあけ蜻蛉あきつはあさみどりあかしつるに浅葱あさぎの聲はすばかり……















沙羅さら、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、さいもんさうさいは揺れて、さんさうぞくさ丹つらふ、さうでんじきび果てたるにさうくわう正身さうじみ翳もなし……















桔梗きちかう、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、ちやう隔てにきんじきの袖戴きつ、きんじふまいてきんじふなれば、いかにとくきうしゆとてくわしやきぬ〴〵取らすはきずなるも……















ゆきやなぎ、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、ゆめの通ひ路途絶えして、へる下緒も解かぬ間に、ゆゑなくきて別るゝがやみぎやうのことわりか……















めい、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、なうめいを呼ばはれば忽ち応への降り來るに、されたるめいしゆらいとゞめいげんす、きゝめうめぐみか仇か……














禊萩みそはぎ、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、みじかしひとみどりぐしみそごころとがやまとなければ、ほど知らぬれんの儘に澪標みをつくし水沫みなわと為して逢はむもの……















秋海棠しうかいだう、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、そくしやも月下に燃ゆとはられじな、しつぽうしうしゆぎよくしやうみやう捧げどしたこひ限りなし、時雨しぐれしげくもしよしんしゞましのばれて……















ゑんじゆ、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、の汀にゑんあうと廻り遇はせどしやじやうゑんに盈つたび月は缺け、映る面輪にこゑだにもふもゑんずもゑんなりき……















一人ひとりしづか、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、いろひらめく夜、ひとり臥しゐる単衣ひとへの裡にいろけり、ひとづてならでひたに交はせばたまに香もびやくだんと沁むものを……















木蓮もくれん、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、もゝ通へどに心の裏見えず、よすがの紅絹もみもの云はず、虎落もがりの笛に影冴えてもとすゑもはやもうろうもだもぬけに他ならじ……















石竹せきちく、」















——御意はい。其れは、遙かいつかのいづれかの、前栽せざいませを踏み越えて、せんなく雪駄せつた鳴らしながらにせうこんの唱へせうせるせうそこ握り、兄鷹せうせんだちに駆けゆけば……































 最後の段を踏み切れば、眩く水を湛えゐた。

 仰げどそらにえだはなく、はなのかたちのひかりばかりがたゞしら〴〵と降りしきり、目に追ふならば、水面みなもに触れて忽ちに水輪みなわひとつと残さずけて失せゆくものゝやうだつた。

 滴るでなく、溢れるでなく、ひかりを容れて揺れるばかりの此れもまた、水ではなしにひかりであるやも知れないと、思ふともなく思ひつゝ、まなざす先を転ずれば、中洲のやうな、はくくがが仄視えた。

 くるぶしのあたりにちら〳〵涼しいやうに薄碧く波さゞるを散らしながらに渡らへば、端つ方、ほつらとひとつ、玻璃細工めいて雲母きらめく華篭かごがある。

 透かしのひまからさし覗くなら、僅か身じろぐ気色のあつた。








 ひと足引いて、華篭かごされた錠を外した。

 片膝ついて、手を差し入れて、撓やかな脛の下から脚首あのくび支へ、此処まで提げてきたを履かせた。

 かほを見遣れば、私の記憶のあなたの色を限りなく引き写された双眸りやうのめに、はなひとひら、かすみひとひら、かげひとひらと、映されてあるものはなく、きつく結ばれた口許はどこまで薄いまゝだつた。








 其の手を取つて促せば、抗ふでなく、すろりと其の身を華篭かごの外へと持ちだした。








 そ、とやはらかな音に置かれて、もういちど。

 まつさらの靴底揃へ、其の脚はたゞ水面みのもに佇むまゝにある。








 ふと、連々と、漣々と、越し方からは波のよに、あまたの色糸ひと条に綯はれたやうに、聴き分きがたくもとり〴〵のゆめを唄ふに立ち昇り来る聲がある。

 律は千種に縺れては逸れて絡まつて、委ねやうにも詮のない。















すみれ、」















 捉へたゆびを半空なかぞらに置き去りながら、其れでもひとつ呼ばはれば、ねつのあらはることのない、其の色硝子のを伏せて、其のつま先は音も無くなめらに半弧をなぞりゆく。








 高く、




    低く、




 速く、




    遅く、




 遠く、




    近く、








 継ぎ目なく、絶え間なく、花の蔓条つるえだ、或ひはてふの羽搏く軌跡になずらふやうに、型復習さらふかに重ねられゆく足取りは、猶も彼方で継がれゐるよぢれて溶けあふ唄よりも、遙か旋律めいてゐた。

 ひと足ごとに、はなとはたがひ、水輪みなわの幾重と描かれて、其の脚許あのもとにひかりつどはるやうだつた。

 星雪ほしゆきに、螢火ほたるびに、其のつま先より仄々ほの〴〵照らはるやうな身の、水面の影を追ひゐれば、いつしか其のは閉ざされてゐた。

 私の記憶の色をどれより定かに写した双眸りやうのめは。















 わらふあなたの聲を最後に耳にしたのはいつの季節であつたのか。















 眺むるおのれに眺められゐる此れさへもまたおのれが欠片。

 おのれがこゝろ

 あなたに向かひゐた筈の執着さへも、此処に斯うして思ふがまゝのなれの果て。










 あなたは此のあなたでなしに、

 私とて彼の私ではなく、

 さればこそ私たちなど既にどこにもゐないのだつた。










 此処に斯うして踊るさへ、未練の名残のゆめはまもなく褪せるのだらう。







 ぢきに私は目覚めるだらう。







 春のさなかに、あなたのゆめのたゞあたゝかに満ちるばかりを望む私に為れるのだらう。













 色は匂へど散りぬるを。


 散りぬるを。


 花を散らせる風なれば。


 










 錯櫻さくら吹雪ふゞきのたゞなかの、浅葱のゆめの浅瀬に脚を浸しゐる、私のゆびに浅ましく猶も纏はるまひゑひも攫はれて、此の枯裸からの身の殻空からあやに望む限りは。










 ただ遠くから、遠くから、あなたの夜を願へるだらう。










 あなたのゆめを願へるだらう。


  


















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