第八章 暗雲
朝の光を浴びてきらめく水面を船は滑るように、なめらかに進んでいく。
蒼天を渡る鳥の群れは濃いピンク色で、空との対比が際立っている。川の周辺は数キロ先まで草原が続き、水を求めてやってきた野生動物たちの姿を船上から観察することができる。サイに似た大型の有蹄類は水を浴びたり飲んだりしている間も子供たちを群れの中心に置いて、外敵を警戒しているようだ。もしかすると近くに肉食獣が潜んでいるのかもしれない。その証拠にシカに似た小型の草食動物たちが一足先に水場から離れ、森の方へと駆けていく。
草原の奥に広がっている緑は深くて、濃い。きっと迷い込んだら出られないだろう。でも遊歩道には真紅や黄色、オレンジなどの色鮮やかな植物たちが咲き乱れている。大輪の花にはたくさんの鳥や虫が集まってくるに違いない。また、水路には大陸を南北に縫う大河から流れ込んできた大小さまざまな魚たちが泳いでいる。船上からそれを狙う水鳥たちの鋭い動きも目にすることができる。自然の中で暮らす彼らの行動のすべては命と繋がっていて、実にシンプルだ。生きるため。ただ、それだけだからこそ力強く、逞しく、美しいと感じるのかもしれない。
(街と違って地平線が遠いな)
船上で朝の爽やかな風に吹かれながらそうした景色を眺めていると、見ているこちらまで活力が湧いてくるような気がした。
神殿と古代の町の遺跡をぐるりと囲む巨大な水路を観光船で周航するコースは、ラスタバン国立公園観光ツアーの目玉の一つだ。クリスは約束通り今朝早くリュカを連れてルルトアたちと合流し、その船に乗り込んでいた。
昨日の堅苦しい格好と違って、今日は二人とも早朝の散策に似合うラフな服装に袖を通している。クリスはあっさりしたストライプのシャツとストレッチパンツ、リュカはボーダー柄のパーカーに八分丈のクロップドパンツ。どちらも学生のようにしか見えないだろう。巻き添えを食った形のリュカはまだずいぶんと眠そうで、さっきからベンチの上であくびばかりくり返している。だが甲板にいるほとんどの乗客たちは、見事な景観を堪能してあちこちで感嘆の声を上げていた。
「いやぁ、すごい迫力ですね!」
先程から興奮して映像を撮り続けているジャンカルロもその一人だ。彼も今日はスーツではなく開襟シャツにハーフパンツという出で立ちで、レジャーを楽しむ気満々らしい。
「見てください、あの巨大な石柱! 外壁はかつてすべて金で覆われていたという説もあるんですよ」
もっとも彼は水路の外側に広がる自然よりも、内側に残された古代の町並みや神殿の方に惹かれているようだ。一方で、その隣に立つメディーレは彼の熱弁にさほど感銘を受けたようすもなく、淡々と遺跡を見上げている。
「黄金の石柱ねぇ……」
彼女が身につけているのはシンプルな濃紺の半袖シャツに黒っぽいストレートのロングスカートだった。上下とも無地のあっさりとした衣服に身を包み、長い髪を髪留めで無造作に纏めただけの格好は、会食のときのドレス姿の貴婦人とはかなり印象が異なる。自然体な感じだから、おそらくこちらが普段の彼女なのだろう。
「発見当初はほとんど崩れてしまっていた外壁や装飾も、現在ではかなり元の形に近いところまで修復が進んでいるそうです。これがさらに金箔で覆われたら、眩く光り輝いてさぞかし神々しい様になると思いませんか」
「そうか? 黄金で覆うなんて露骨に権威主義の現れだろ」
古代ロマンにうっとりと浸るジャンカルロに、メディーレは遠慮会釈なしに冷や水を浴びせた。
「またあなたはそういう冷めたことを……確かに富と権力の象徴でもあったとは思いますが、古代王朝ではよくあることじゃないですか。それよりこんな内陸部に巨大な神殿と町を築いて、富を誇れるほどに発展させた当時の人々のことを考えるとロマンを感じませんか?」
「いや、まったく」
「あー、もうこれだから! 遺跡の発掘には興味津々だったじゃないですか」
「そりゃまぁお宝には興味あるだろ普通」
「下世話! ほんっと現実主義なんだから」
「ロマンじゃ飯は食えないからな」
「作家とは思えないセリフですよ、先生!」
コントのような会話を繰り広げている二人は互いに好き放題言い合っていても、口調にも態度にも険がない。きっとこうしたやり取りは日常茶飯事なのだろう。
「とにかく、こんなにも壮大な歴史を直に感じられるチャンスは滅多にないんですから、参考資料と思ってしっかり観察してください!」
「あー、はいはい。分かってますよ」
そんな保護者たちとは対照的に、ルルトアはずっと無口なまま佇んでいる。動きやすそうなキュロットも、可愛らしい若草色の丸襟のトップスもよく似合っているのに、ちっとも晴れやかな表情にならないのだ。ジャンカルロと同じように視線はずっと遺跡の方に向けられているが、その面に笑みはなく、まるで何かを探るような眼差しで古代の建造物を見つめている。
そもそも彼女は今朝、列車内で顔を合わせたときから少し緊張しているようすで笑顔がなかった。
「どうです、ルルトアも来てよかったでしょ?」
「……うん」
ジャンカルロに問われて頷き返しはしたものの、どことなく上の空といった感じだ。景色よりも気になることがあるのだろう。
昨日外出先で事故に遭ってショックを受けたという話を聞いたが、それだけではないとクリスは感じていた。ナイトツアーに対する拒絶があまりにも強かったからだ。そして今も、彼女はごく普通に振る舞いながらも、どこか身構えている。
(やっぱり何か見たのかな)
そもそも起こった事故自体、普通に考えればあり得ないものだった。重力装置の管理はどこの星でも厳重だ。なのに政府や管理組織からは未だに何の発表もない。どうにも不自然な感じがした。テオやユリアンもそう感じたから、クリスの発言に乗ってリュカまで強制的に同行させたのだろう。もし列車の乗客をターゲットにして故意に大きな事故でも起こそうと企てている者がいるとしたら、早急に見つけ出さなければならない。
もっとも彼女が抱えている不安の種と、自分たちアカデミーの魔法師が懸念している銀河鉄道へのテロの可能性、その二つが関連しているかどうかはまだ分からないのだが。
それでも。
(不安の芽はなるべく早く摘んでおかないと)
クリスはにっこりと破顔して会話に加わった。
「僕も来てよかったです。いくら映像が鮮明でも、この気持ちよさは部屋に閉じこもったままでは味わえませんから」
ルルトアの伯母メディーレも賛同してくれたようで、まったくだと頷く。
「たまには早起きもいいもんだな」
有名作家である彼女は普段夜型生活を送っていてほとんど自宅に引きこもっているという話だが、意外とこのツアーを楽しんでいるのかもしれない。
「たまにじゃなくて、伯母さんは毎朝もう少し早起きしてもいいと思うけど」
思わずといった感じで保護者に苦言を呈するルルトアのようすを窺いながら、クリスもさりげなく周囲に目を配る。
(できればこのまま何事もなく無事に終わって欲しいけど)
ラスタバン国立公園の早朝ツアー参加者百八十名を乗せた観光船は、今ちょうど神殿の裏側に差し掛かったところだった。水路に面してそそり立つ巨大な石の壁には規則的に彫られた紋様があり、白と青の彩色が施されている。壁の向こうの神殿上部には羽根の生えた山羊や獅子に似た獣の白い石像が飾られているのが見えた。
「美しいなぁ。上の方に刻まれているレリーフは、確かこの国の神話に出てくる鳥がモチーフなんですよね」
ジャンカルロの問いに応えたのは、近くにいたガイドロボットだ。
『はい。神殿の入り口上部に彫られているのは神話に出てくる炎の霊鳥です。儀式のたびにどこからともなく現れ、王に神の御言葉を伝えたと言われています』
「なるほど。だから神殿内のあちこちに鳥のデザインが残ってるんですね」
彼はうんうんと満足げに頷く。
「国立公園の入り口から遊歩道を通ってまっすぐ神殿へと向かうコースもあるんですが、やっぱりこの観光船に乗るコースに申し込んで正解でしたね! 予約が取れて本当によかった」
『当船をご利用いただき誠にありがとうございます。周遊コースでは敷地内を一周する間に船上から周囲の景観をたっぷりとお楽しみいただけます。その後、宝物殿にてこれまでに発掘された秘宝や貴重な資料などをご見学いただき、最後に神殿内部をご覧いただく予定となっております』
「神殿内部は今でも美しい装飾が多数残されていて、それだけでも充分に見る価値があるとされているんですよね」
『はい、その通りです。祈りの間、集いの間、禊の間などそれぞれに素晴らしい内装が施されておりますが、かつてこの星を治めていた王が治世のための神託を受けたとされる玉座の間が一番の見どころとなっております。ぜひお楽しみください』
「だそうですよ」
なぜかジャンカルロが胸を張った。
もはや彼はガイドロボットとコンビを組んだ施設の広報担当のようだ。
「ふぅん」
「…………」
せっかく披露された蘊蓄を生返事で聞き流しているのはメディーレもルルトアも、ついでに言えばリュカも同じだが、理由はおそらく三者三様で異なる。リュカはもともと遺跡になど興味がないし、メディーレは彼の蘊蓄を聞き飽きているのだろう。また始まったと顔に書いてある。本来ならルルトアも伯母と同じような反応になりそうだが、彼女はガイドロボットのセリフも聞き流してキョロキョロと辺りを見回している。近づく外壁をじっと観察しているかと思えば、突然後ろを振り返ってほっと胸を撫で下ろし、また前を向くといった感じだ。
そのせいで、とうとうメディーレに突っ込まれてしまった。
「さっきから落ち着きがないな。いったいどうした?」
「あ、ううん! 何でもないよ! すごい景色だから、いろいろ気になっちゃって」
「ですよね! 分かりますよルル」
「そんなふうには見えないけどなぁ」
ジャンカルロは嬉しそうだが、保護者である伯母は疑っているようだ。クリスの目から見ても、到底景色を楽しんでいるようには見えない。
(せめて何を探しているのか教えてくれたら手伝えるんだけどな)
家族との距離が近すぎて今は切り出せない。
(仕方がない、船が岸に着くまで待つか)
船を降りるときに近寄って話しかけてみよう。そう心に決めて、ひとまずクリスも魔力探知の精度を上げるべく意識を集中し始めた。ルルトアが不審そうな声を上げたのは、ちょうどその矢先だった。
「ねぇ……あれ、何だと思う?」
「え?」
前方を見据える彼女が指さしていたのは進行方向からやや右斜め、百数十メートル先の水面あたりだ。水路の端に茂っている水草の近くに黒っぽい生物が数匹固まっているのが見える。
「大型の両生類か、爬虫類かな」
ガイドロボットに答えを求めると、機械は即座にセンサーで対象物を確認し、回答を寄越した。
『あの生物は半水生の捕食性爬虫類の一種で、ガラ目ガビアール科の成体です。エリスレア星のアベリア大陸に生息するワニと大変よく似た生物ですが、ガビアールは魚食生物で、人や大型の哺乳類は捕食しないため危険性が低く、排除対象となっておりません。そのため小型の魚類と同様に、水路にも複数存在しております』
「うん。でも、そのワニみたいなやつの近くに浮かんでるのって……」
ルルトアがひどく青ざめた顔で一旦言葉を区切る。
その先を口にしたくはなさそうに。
「あれ…………人間、じゃない?」
その単語を耳にした瞬間、ぞわりと毛が逆立った。足元のすぐ近くに、底の見えない深い穴がぽっかり開いていることに気づいたときのように。
「どこ?」
ベンチにいたリュカがすぐさま身を起こし、駆け寄ってきた。
メディーレとジャンカルロも船縁に近づいていく。
「あれか?」
「何かの見間違いじゃないんですか」
たまたま近くにいた他のツアー参加者たちも彼らの会話を聞きつけたらしく、数人が一斉に右端へと寄って行って身を乗り出すようにして前方を眺め、目を凝らし、やがて息を呑んだ。
「……ああ、確かに」
「人に見えるな」
「嘘でしょ」
ガビアールと呼ばれた爬虫類の陰に隠れて見えづらいが、うつ伏せ状態で人の背中らしきものが浮かんでいる。
それをじっと見つめていたルルトアが呆然とつぶやいた。
不審そうに、わずかに眉を寄せて。
「……なんで?」
ほとんど消え入りそうな声で。
「じゃあやっぱりあれは…………無差別?」
「ルル? それはどういう……」
問いただそうとしたとき、唐突にガイドロボットがピピピッと甲高い電子音を発した。非常時の緊急通信だ。
『セキュリティセンターへ緊急報告! くり返す、セキュリティセンターへ緊急報告! こちら定期船ガイドロボット11号。神殿裏手側の水路に、ヒトである可能性のある物体が浮いているのを確認しました。警備隊の出動を要請します』
『セキュリティセンター了解。船はその場で一旦停船し、警備隊から指示があるまで待機してください。乗客の安全確保をお願いします』
『定期船ガイドロボット11号、了解しました』
そんなやり取りの直後、観光船は動きを止め、待機状態となったことを報せるアナウンスが流れ始めた。人々がざわつく中、クリスは咄嗟にルルトアを甲板の反対側へと引っ張っていき、小声で尋ねた。
「ねぇ、今、無差別って言ってなかった? 何か心当たりがあるの?」
「えっ……別にそういうわけじゃ……」
戸惑う彼女の視線が揺れる。
「頼む。何か知っていることがあるなら教えて欲しい。どんな些細なことでも構わないから。もしかすると僕らにとって、とても大事なことかもしれないんだ」
「…………」
「きみが周りに伏せておきたいと思っているなら他の誰にも言わないから」
真剣さが伝わったのか、ルルトアはメディーレたちの位置を確認してから、おずおずと口を開いた。
「昨日、事故があったって言ったでしょ。でも、あれ……本当はただの事故じゃなかったの。たぶん、誰かがわざと重力制御装置を停止させたんだと思う」
「どうしてそう思ったの?」
「重力装置が停止した途端、足下で遠隔魔法が発動したせいで外に弾き飛ばされそうになったから。あの場にいた誰かがわたしたちを危険エリアに出そうとしたのは確かだと思う」
「……それは間違いない?」
「ええ。魔法陣を見たもの。だから…………伯母さんを狙った犯行かと思ったの。アルメトリア人を憎んでいる人か、もしそうでないとしたら……例えば、その…………」
「自分たちへの協力を拒んだことを逆恨みしているテロリストがやったのかもしれない、って思った?」
言いにくそうにしているセリフをクリスが代弁すると、ルルトアはこくんと小さく頷いた。
(なるほど。だから彼女は密かに警戒していたのか)
「伯母さんに知られたくなかったんだね」
「…………」
再び頷く。
細く、小さな肩で背負うには重すぎる荷物を抱えている人のように、身を縮ませて。
(無差別に乗客を狙っているという線はないと思うけど……)
本国で起こったテロは久しぶりに大きな事件としてニュースで取り上げられてはいたが、報じられているのはテロリストの存在だけで闇烏には触れていない。そのため、あの連中が銀河鉄道を標的にしている可能性を考え、警戒しているのは今のところクリスたちだけのはずだ。
何も知らないルルトアが有名人である伯母が狙われたと心配するのは分かるし、実際にその可能性がないとも言えない。彼女が魔法を見たというなら、それは事実なのだろう。だが、少なくともテロリストが列車の乗客を個別に狙って攻撃する意味はない。事故に見せかける必要もない。
(何がどう繋がるのか、まだ分からないな)
いずれにせよ、もっと情報が必要だ。
「ありがとうルル、話してくれて」
クリスはその細い肩にそっと両手を乗せた。
「きみが遭遇した件と、あそこで浮かんでいる人物が関係あるかどうかはまだ分からないけど、確認は僕らがするから心配しないで」
それだけ伝えて、皆のところに駆け戻って行く。
「リュカ、行こう!」
促すと同い年の同僚は「あー、ハイハイ」と肩を竦めた。
「言うと思った。嫌だけどまぁ仕方ないよね。セキュリティセンターには対象物の引き揚げ作業に協力するって連絡しといたよ」
「ありがとう」
どうやらリュカは、クリスがルルトアと話をしている隙に、先回りして必要な手続きを済ませてくれたようだ。ついでにジャンたちの気も引いてくれていたのかもしれない。
「じきに警備隊が到着するから現地でそれを待てって」
「了解」
「いやでも、船は停まってるのにどうするつもりなんですか?」
不思議そうなジャンカルロにリュカが答える。
「問題ないよ」
彼が左耳に付けたイヤーカフに触れると、それはたちまち金色の杖へと変化した。先端には王冠を模した飾りが取り付けられ、宝石が散りばめられている美しい杖だ。
「僕らには魔法があるから」
続いてクリスも指輪に触れ、自分の杖を出した。地味で何の飾りもない銀の杖だが、表面には手彫りの古代文字が細かくびっしりと刻まれている。養父であり師でもあるオースティンから譲り受けた杖だ。
「じゃあ、ちょっと行ってきます」
「クリス!」
歩み寄ってきたルルトアが不安げな面持ちでこちらを見つめている。
「……気をつけてね」
クリスは大きく頷いた。
「任せておいて」
そうして銀の杖に魔力を込める。リュカもそれに続いた。
他の乗客たちの視線が集まる中、ふわりと宙に舞い上がった二人は、そのまま漂流物のあるポイントまで一気に飛行魔法で移動していった。
その途中、リュカがルルトアとの会話を尋ねてきたのは至極当然のことだろう。
「あの子、何て言ってたの?」
「やっぱり昨日のはただの事故じゃなかったらしい。しかも魔法が絡んでる。今回のことと関係があるかどうかは、まだ不明だけど」
「へぇ……別なら別で結構ヤバい展開だと思うけど。なにせこっちはすでに死体が上がってるわけだし。普通の事件や事故だとしたら、セキュリティセンターがとっくに把握してるでしょ」
「ああ。少なくとも今朝の段階で、うちのメンバーに何かあったって連絡は受けてないけど」
「知ってる奴じゃないといいなぁ」
川面に浮かんでいるのがアカデミーのメンバーではなかったとしても、銀河鉄道の運行関係者という可能性もある。嫌な予想だが、本国での派手なテロ行為を考えれば否定しきれない。そのため確認しないわけにはいかなかったのだ。
「周りから攻撃の気配はなし。魔力探知に引っかかるものは特にないね」
「時限的な仕掛けとかもなさそうだ」
上空で周辺のようすを窺い、丹念に探知を行う。
やがて二人は目標地点でゆっくりと高度を落とし、水上へと降り立った。川面に浮いている物体を間近に見下ろす。
「間違いなく死んでるね」
「……ああ」
遺体は男性だった。顔は見えなくても体格や頭髪などから比較的若そうな人物だと分かる。身長はどちらかというと高めで、適度に筋肉が付いている。そして、体の裏側で目に付く傷は胴体の真ん中に一ヶ所だけだった。
「背中に大きな傷。刺し傷かな、これ。ナイフよりでかそう」
「剣だろうね。この水路のどこかに沈んでるかも」
溺死であれば浮いているのは時間が経って腐敗の進んだ遺体だが、この亡骸はおそらく刺殺されてから水路に投げ込まれたのだろう。見つからないようにしたいのなら、公園の敷地外に運び出して森の奥にでも捨てた方が確実だ。あるいは、少しばかり南下したところで川に流せば海まで運んでもらえる。
にもかかわらず、ここに浮かんでいるということは――――遺体が見つかっても構わないと思ったか。もしくは。
「わざと見つけさせたかったのかな」
クリスのつぶやきにリュカも頷く。
「だとしたら嫌な相手だな」
そうして二人で観察しているうちに警備隊の面々が押っ取り刀で駆け付けてきたので、リュカが魔法で近くの動物を追い払い、その隙にクリスが遺体を水から浮き上がらせて水路脇の陸地へと下した。仰向けになった死体はやはり若い男で、その面には苦悶の表情が刻まれていた。刺されたときの苦痛を思わせる顔だ。
しかしクリスたちが見知った仲間の顔ではなかったので、ひとまずほっと安堵の息をついた。
「刺殺体か」
隊長らしき人物に問われて、遺体を検分していた兵士が頷く。
「はい。死後硬直から見て、おそらく死後三、四時間といったところでしょうか」
「夜中というより、夜明け前だな。そんな時刻にこんな場所で、こいつはいったい何をやっていたんだか。……ったく、観光立国だからと規制を緩めすぎるからこういう事態が起こるんだ」
隊長は辟易としたようすで不満を述べると、凶器の存在を確認した。
「まだ見つかっていません」
「川底に沈んでいるとしたら厄介だな」
「そうですね。広範囲の捜索となると、入場を規制する必要がありますから……」
「ああ、警察本部は確実に要求してくるだろう。で、観光庁からお𠮟りを受けるのは俺たちってわけだ」
警備兵たちの会話にクリスが「あの」と割って入る。
「……何かね?」
「一つ提案なのですが」
「センターがきみたちに許可を出したのは聞いている。おかげで水からの引き揚げ作業は早く済んだ。その点は感謝しよう。だが、これ以上魔法師殿に力を借りる必要はないので、早々にお引き取り願いたいのだがね」
「ですが、凶器がもしこの近くに落ちているのであれば、魔法ですぐに見つけることができるかもしれません」
「ほう……どうやって?」
「被害者の血が付着した物が近くにないか探してみます」
これは口から出まかせで、実際には被害者の傷口にわずかだが魔力の痕跡が残っていた。魔力を備えた刃物で刺された可能性が高い。ならばその波動を辿ればいいのだ。だがそれを伝えると面倒になる可能性があるので、クリスは黙っていた。なぜなら魔法師が犯人と断定されてしまうからだ。
「そりゃまた便利なものですなぁ。魔法師殿は優秀な警察犬並み、いや、それ以上かな」
「確約はできませんが、試してみてもよろしいでしょうか」
「おお、ぜひともお願いしたい! お手並み拝見といきましょう」
隊長の表情や口調には魔法に対する疑念と嫌悪、妬心などが露骨に滲んでいたが、魔法師が少ない地域ではよくあることで決してめずらしくはない。気にせず魔法を発動すると、案の定わずか数メートル先の川底から一振りの剣が浮かび上がってきた。
「こりゃ驚いた。本当にあっさり見つけてしまうとは。まるで初めからそこにあるのを知っていたかのようじゃないか」
「わざわざ別の場所には捨てないだろうと思っただけですよ」
クリスがにこりと微笑んで答えると舌打ちが返ってきたが、警備隊長はすぐに職務へと意識を切り替えた。
「おい、この凶器をすぐ鑑定に回せ! 被害者の身元が特性されれば犯人を絞り込むことが可能だろう。リストバンドで身分証を確認しろ」
「はっ」
隊長に指示された警備兵の一人が遺体からバンドを取り外し、操作する。
「エリスレア星ユートリア大陸首都レーヴェ在住、ヴィルヘルム・ステンマルク。年齢は二十九歳。職業は神父とのことです」
「神父……」
表示された身分証の画面を読み上げていく警備兵の言葉に、クリスとリュカは思わず視線を合わせた。
そんな二人を隊長がジロリと見遣る。
「何だ? 神父がどうかしたのか」
「あ、いえ……」
「何か心当たりがあるならハッキリ教えていただきたいものですな」
警備を担う男の眼が一段と剣呑な光を帯びた。
「いえ、僕らがこの人物を直接知っているわけではありません。ただ……」
犯人は魔法を使用している。しかも警備の網に掛からずに犯行を行っていることを考えると、おそらくある程度実力を備えた闇烏だろう。
その闇魔法師に討たれた聖職者となると、答えは一つ。ルーシェント派だ。
「このご遺体の主は、僕らと同じ銀河鉄道ガルディアでここを訪れた乗客の一人かもしれません」
「その根拠は?」
「列車内でも一人、司祭をお見かけしました。おそらくこの人物と同じ宗派の方だと思いますので、もしかすると何人かのお仲間と一緒に乗車されているのではないでしょうか」
被害者はクリスが展望スペースで遭遇したルーシェント派の仲間と考えて間違いないだろう。彼らはきっと何らかの目的を持って列車に乗り込んでいる。アカデミーの魔法師たちが会長の命を受けて乗車しているのと同じように。
ただ、神聖魔法の司祭たちはテロを卑劣な行為と非難しても、それを阻止するために自ら戦いに出ることはないし、ましてやそのためにわざわざ他の銀河を目指して旅に出たりはしない。彼らが許さないのは闇烏という存在そのものだ。
つまりこれは魔法師対闇魔法師の戦いの結果であり、どうやら地上だけでなく、宇宙の旅先でも彼らの知らないところですでに戦端は開かれていたらしい。このまま放置すれば銀河鉄道と乗客たちにも被害が出るかもしれない。会長の懸念が現実となってしまったようだ。
「なるほど。おい、その腕輪に列車のチケットは入っているか」
隊長に尋ねられた兵士が再びリストバンドを操作すると、空間に乗車チケットが表示された。
「はい、現在当惑星に停車中の機体ガルディアの乗客で間違いありませんね。しかも一等車輌です。観光で来ているから司祭の服装ではないのでしょうか」
「ふむ……」
警備隊を束ねる男は渋い表情であご鬚を撫でつつ部下に命じた。
「地元警察と観光庁、ついでに運行管理センターにも連絡しておけ」
「はっ」
「では最後に、魔法師のお二人にお伺いしてもよろしいですかな」
「はい」
「本日未明、午前四時頃から六時頃までどちらにいらっしゃいましたか?」
「えっ、まさか僕たちを疑ってるの?」
リュカは鼻白んだが、クリスは予想していたので平然と答えた。
「二人とも列車内の個室でぐっすり寝ていました。改札を通った時刻や回数は記録されていますので、セキュリティセンターの乗降履歴でご確認ください」
「ですが、あなた方なら魔法でこっそり抜け出すこともできるのでは?」
おそらくこの男は魔法そのものを胡散臭いものと考えているのだろう。人間は得体の知れないものを怖れ、嫌う。だからこそ魔法協会は魔法師たちに多くの縛りを課しているのだ。厳密なルールの中で行使されるものに不安はないと認識してもらうために。
「いいえ。それはできない仕様になっています。魔法科学アカデミーと共同開発を行ったエリスレア星政府の科学者たちの名誉にかけて明言しておきますが、あの列車のセキュリティはどんな魔法でも突破できません。お疑いでしたら公式に質問状を提出していただいて構いませんよ」
「ふん……どうだかな」
隊長はいかにも不服そうだったが、それ以上は何も言ってこなかった。
今度はこちらのターンだ。
「我々からも一つ質問よろしいでしょうか」
「何だ?」
「こちらの夜間警備はどういったシステムになっていますか」
「そんなこと貴様らには関係なかろう!」
無礼者めと怒鳴られたが、クリスは引き下がらなかった。
「はい。その通りです。ですが、こちらは観光地として万全の警備がなされているはずなのに、夜中とはいえ誰も事件に気づかなかったのは不思議だなと思いまして」
「それはまぁ……俺も同意見だ。夜間でも警備専門のロボットが多数配備されているからな。少しでも異常があれば必ず当直に連絡が行く。記録も残る。だが昨夜は一度もアラートは鳴らなかった。今朝の開錠前の点検でも異常は何一つ報告されていない。我々に落ち度はないはずなんだ」
「……そうですか」
(痕跡をすべて消したんだな)
それなのに遺体だけをわざと見つかるように残した。ならばこれはルーシェント派、あるいは魔法協会とその魔法師たち全員に対する宣戦布告と考えた方がいいかもしれない。
「だいぶ雲行きが怪しくなってきたね」
小声で囁いたリュカがいつになくしかめっ面で眉間に皺を寄せている。
「……ああ」
ふと仰ぎ見た空は、先程までの晴天が嘘のように灰色の重たい雲が風に乗ってどんどん流れてきていた。そんな予報ではなかったのに、このあと雨が降るかもしれない。
「間もなく停船は解除されるが、神殿内への立ち入りは制限されることになるだろう。せっかく来てもらったのに残念だったな」
「ええ、本当に残念です」
クリスは警備隊の面々が遺体を運んで戻って行くのを見届けてから、再び天を振り仰いだ。空はますます分厚い雨雲に覆われ、重苦しい色に染まりつつある。今にも雨粒が落ちてきそうだ。
「……急いで戻ろう」
リュカに告げて、銀の杖に魔力を込める。
そうして彼らは刻一刻と暗くなっていく空に向かって飛び立ち、観光船へと戻って行った。
一方その頃、銀河鉄道ガルディアの車内ではティセリウス司教が困惑した面持ちの側近から報告を受けていた。
「二十四名が行方不明?」
「はい。ステンマルク司祭配下の者たちが昨夜から行方が分からず、連絡も取れておりません」
「いったいどういうことだ」
「魔女マリア探索のため地上に降りたようですが、朝になっても戻ってこないのです」
「列車内の捜索ではなく、地上に降りたのか?」
「はい」
説明をする男は汗を拭いながら言葉を続けた。
「観光ツアーのため地上に降りる団体の中にマリアの姿を見かけたという報告が入ったようで、まず先発隊十四名が探索のため地上に降り立ちました」
「そんな報告は受けていないが」
「……それもステンマルク司祭の指示とのことで」
「また勝手なことを」
ティセリウスは常に強気で不遜な態度を見せる若造の顔を思い出し、苦々しい表情になった。
「それで奴は? 残りの十名はどうした?」
「深夜になっても地上から連絡がないため、ステンマルク司祭自らが十名を引き連れて地上に降りたようなのですが…………戻ってきたのは、このベルマー助祭一人なのです」
側近が目線で示した男は青ざめた顔で床に座り込み、ぶるぶると震えている。
「おい、他の者たちはどうした?」
ティセリウスが尋ねても、ベルマーは俯き、首を横に振るばかりで答えは返ってこない。
「無駄です。いくら問い詰めても何も聞き出せませんでした。とにかくひどく怯えていて、まともに話せる状態ではないようです」
「マリアに遭遇して逃げ延びてきたのであれば無理もない。時間がかかっても構わんから知っていることを聞き出せ。精神操作魔法に長けた者に治療させるのだ」
「畏まりました。戻ってこない者たちについては如何いたしましょう」
ティセリウスは複雑な思いで口元を歪めた。
「…………諦めた方がいいかもしれんな」
あの生意気な若造が魔女の実力を侮り、討たれたのだとしたら小気味いい。目障りな男が消えてくれたのはありがたいことだ。しかしステンマルクが戦闘系の魔法にも優れていたことは事実で、あの男が敵わなかったのだとしたら到底ティセリウスに斃せる相手ではない。
そんな相手が息を潜め、同じ列車に乗っている。
虎視眈々と自分たちを狙っているかもしれないという恐怖が、昏い悦びを上回る。
「ひとまずラインフェルト大司教にご報告せねば」
ティセリウスは重い足取りで第一車輌の個室へと向かった。
彼らの許へ運行管理センターからステンマルクの遺体発見の報せが届いたのは、それから間もなくのことだった。
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