第13話 帰国直後ⅶ

 記憶が鮮烈に蘇ったことを自覚するソフィア。


 トラブルに見舞われた事実と、それでケガを負った今のマコトの痛ましさはある。


 しかし、途切れる前の記憶が呼び覚まされたソフィアにとって……

 ついさっきまで、エニシダの差し向ける脅威に対峙していた空の上。

 何とか日本に辿り着こうと躍起になって奮闘していたのだ。


 そんなソフィアからすれば……

 今いるところが日本なら、それは勝利を掴み取ったということ。


 自らも最前線で、最先端科学の粋を結集して造り上げたであろう軍事兵器に対し、知恵と力を振り絞り、何とかしてみせた記憶がまざまざと脳裏に蘇る。


 どれほど日本の地に降り立つことに焦がれたかは言うまでもなく、今それが叶っていることを思うだけで頬は自然と綻ぶ。


 そして今、新たな渦中にあれど、何もかもが取り戻せた状態だ。


 誰一人欠けることなく皆が無事でいて、何一つ失ってなどいないのだ。


 そんな今の状況に、心が満たされ、嬉しい気持ちが湧き上がり、何もかもを祝福するようなまりょく、その粒子のようなものがソフィアからじんわり溢れ出す。


 無色透明で誰の眼にも映ることのないそれは、心地よい温かさとともに、ソフィアを中心に球体状にゆっくり膨張する。

 そしてそれは、半径30m程度を境にほどけ霧散していく。


 このまりょくの本質は心の在りように影響を与える。

 ソフィアの慈しみの感情が高まった結果の慈愛のまりょくは、各々の心のわだかまりのようなしこりをゆっくりとほぐしながら沁みていく。


 誰に対しても。そう、例え相手が極悪人であっても、それは周囲にある者に等しく響き渡る。


 そして今、この場に会しているヴィルジール。


 旅行者のていでマコトたちとの接触を果たした。


 してその実態はエニシダ教の教祖であり、その裏の顔、テロ組織、エニシダのトップでもある。

 ……いや、あったというべきか。


 マコトたち、S国から日本に向けた旅客機への謀略

 ……そもそもは別の目的に向けたものだった。


 とある人物を葬るためだけのもので、その他の巻き添えとなる乗客の中のマコトたちが立ちはだかったという形だ。


 そこでは、絶望するには充分過ぎる、周到に計算された回避不能な、機内からの各種テロ行為が重ねられる。


 だが、ヴィルジールはそんなハイジャック行為がことごとく防がれたことを知ると、驚きつつも、不敵な笑みを携え、用意周到なプランに従い、次のステップに進める。

 プラン冒頭でのチェックメイトが常であったヴィルジールにとって、この驚きは何かをもたらす未知への喜びでもあり、秘める存在に俄然関心を寄せるのだ。

 周到なプランの次のステップは一転、機外からの攻撃だった。

 圧倒的な航空戦力を投入し、無慈悲なまでの猛攻が次々と繰り広げられる。


 にもかかわらず、ヴィルジールたちの絶対的な自信、旅客機機長の完膚なきまでの絶望も、マコトたちにより根底からひっくり返される。


 その凌がれるさま、その在り方を見て、さすがに想像の外にある、別の誰かによるもの、とヴィルジールは判断せざるを得ない。


 しかし、その見事さに感服し、敗北は認めつつも、ヴィルジールは、当初の目的は捨てて、他の大きな目的のために、その別の誰かの力がどれほどかを確かめてみたくなる。


 ヴィルジールは、さらなる試練として、現在考えうる人類史上最強の最終兵器ファイナルウェポンの投入 (無断借用)を決意し、即座に発動する。


 しかし、それでもなお、そんな猛攻も次々と凌がれ、その在り方も変わらなかった。


 その在り方とは、回避不能なはずのテロ行為を始め、近代最高峰の圧倒的航空戦力や最終兵器を投入したにもかかわらず、敵も味方も誰一人死者がいないと推測されることだ。


 実はそれで、間接的であるとはいえ、ジンが死にかけ、ソフィアは記憶喪失に追い込まれるのだが、ヴィルジールは、完封の敗北という結果以外、知る由もない。


 この揺るぎない事実に、ヴィルジールはある一つの決断を下す。


 エニシダ教は他の者に引き継ぎ、テロ組織のほうは解散、すべてを引き払い、シエラとともに訪日する。


 もちろんその目的はマコトたちとの接触で、偶然が重なったのか、ありえないほどの確率で早期接触が叶い今ここにいる、という状況だ。


 そんな真相はマコトはもちろん、ジンもソフィアもイルも知らない。


 ただエニシダは、テロ組織といっても、無差別に人を惨殺するような輩たちとは一線を画していた。


 ヴィルジールが掲げるのは『他を蹂躙しようとする大きな力を持つものを崩壊させること』だ。


 巨悪はもちろん、それ以外でも、自分達の正義感で振るう力の裏側に沢山の小さな理不尽が渦巻いていることを知らない組織などを、地の底に突き落として理不尽な世界に招待する、というのが行動原理の根底にある。


 日本などの平和な先進国では、小さな貧富の差はあれど、概ね平等な世界で命の危険などを心配することなく、のほほんと暮らしを営むことができる。

 高い医療水準とモラルに護られて、無駄に高い文化や娯楽に包まれて。


 しかし、貧しい国や、常に戦火のもとで暮らすことを余儀なくされる人たちの場合、その毎日が想像を絶する理不尽な世界で生きている。


 そんな世界に生まれ、生き抜いてきたヴィルジールは、眼の前の不幸に見舞われる人を救うも、別の日に別の不幸に巻き込まれ結局命を落とす情景を何度となく目にしてきた。


 そして、そんな行為になんの意味があったのか、という虚無感から、いつしかそんな行為を偽善と捉えるようになる。

 そこまで行き着くと、眼の前の不幸を見ても助ける意欲さえわかないのだ。


 ヴィルジールはそんな日々を数限りなく送ってきた。


 そこで辿り着いた結論。ならば自身のやることはなんだ?

 そう自問自答した結果が先に掲げた行動原理だ。


 皆を等しく不幸から掬い上げることはできなくとも、理不尽を課す存在が無くなることで不幸に見舞われる確率は格段に減らせる、そんな考え方だ。


 そして何かを為そうとすると、どこかで誰かの削られる命があることも含まれる。すべてを救うことなど不可能だからだ。


 ところが、今回の謀略の作戦越しに、マコトたちの稀有なる存在に触れ、自分では到底為しえないことも彼女たちならおそらく実現できてしまうだろうことにヴィルジールは気付いたのだ。


 まだその時はどんな人物かなどは不明でも、明らかに人智を超越する力を備えるだけでなく、ただの一つも漏らすことなく命を守り抜く、その在り方にヴィルジールは打ちのめされる。


 ヴィルジールは、害と見做した敵の命なら躊躇なく奪うが、基本的に無用な命を散らすことなど望んでいない。


 しかし今回に限り、何をやっても屠ることが叶わない巨悪の根源たる人物を滅するために、他の一般人の犠牲も止むなしと、苦渋の決断を行ったのだ。


 この実行で残虐非道のテロリストの烙印が押されることを覚悟の上だった。


 しかしマコトたちが阻んだことで、結果的にヴィルジールは救われることに繋がる。


 最期の一線の手前で踏みとどまれた。即ち、罪のない一般人の命を奪わずに済ませることができたわけだ。


 そして今、ソフィアから放たれる慈愛の空間に包まれるヴィルジールは、積年の怒りや憎しみのような感情、その記憶を包むイガイガとしたイメージが、ホロホロと剥がれるようにほどけていくのを体感する。


 記憶から失われるわけではない。ただ、気持ちの中にある棘のようなものが薄れていく感覚のようだ。


―― これだ!

―― 我が求むるはまさにこの大いなる力。

―― あれ? だが、なんだこれは!


 ヴィルジールの内に眠る原動力ともいえる一つの感情。


 それは凍てつく氷塊のように、揺るぎない精神の一欠片、これから先もずっと不変の存在として、ヴィルジールの方向性を指し示し続ける……はずだったもの。


 ソフィアのまりょくの影響で棘のようなものが薄れ削げ落ちると、今度はその温かさがヴィルジールの氷塊に変化をもたらす。


 この温かさとは、リアルの温度ではなく、心象世界における、冷え込みや、凍てつくような、心の囚われる様相を表現するものだ。


 ヴィルジールの中にある氷塊の輪郭は徐々に温まり、次第に融解し始める。


 すると、その輪郭はついにほどけ、縛られていた一つの感情がするりと抜けて、その他の感情に霧散するが如く融け込んでいく。一つ、また一つと。


―― 我を突き動かしてきた衝動がぁ! 

―― ……なんか……どうでも良くなって

―― ……いや、それはマズいぞ!

―― 我のアイデンティティが、存在意義がぁ

―― ……マズいんだが、抗えない。

―― みるみるうちに萎えていくのが判る。


 ヴィルジールの中で、怒りを向けるべき人物像の多くのイメージ。その殆どが薄れ始め今にも消えかかりそうな勢いだ。


 ただ、その悪しき行いを振るう意志を秘めるもの、多くは組織だが、それを率いて、歪な思考で、理不尽なまでの力を振るう人物は必ず存在する。


 そんな歪な存在を除けば、他は組織に属しているだけの、明確な悪意は持たない輩ばかり。

 歪な存在のイメージを残して、その多くが剥がされるように次から次へと、どんどん消えていく。


 ソフィアのまりょくがそんな区別を知るはずはない。怒りの感情が見え方を曇らせていただけで、ヴィルジールの心の中で既に仕分け済だったわけだ。


―― いや。そうか。そうなのだな。

―― 特定の人物や組織、いや、それも人を指してたか。

―― 結局は人への執着だった気がするな。


―― 組織配下の個人もそれぞれを滅すれば……

―― その家族や仲間たちに大量の新たな憎悪が芽生え、我に向けられるのだろう。

―― そして、それは当然で仕方ないことと思っていた。


―― だが、配下の個人も言ってしまえば組織の歯車が殆ど。

―― 上の指示で右にも左にも転ぶ奴らだ。


―― 命令を受ければ平気で人を殺める奴らだが……

―― 仮にそれを滅したところで、組織の別の誰かが取って替わるだけ。


―― 結局、根本的には何も変わらないということ……

―― 改めるべきは歪な存在だけ……

―― と、そういうことなのだな?


―― それに、何かを変えるには……結局、

―― ……金か権力か脅しで有無を言わさず強引に

―― ……或いは力で強制的に

―― 他者を従わせるしかないと思っていた。

―― だが、こんな力が存在しているのなら、考えを改めるべきは我のほうか。


―― まるで聖母マリアのようではないか?

―― そう疑うほどの圧倒的な慈愛の心。

―― このような存在に出会えるとは夢にも思わなかったぞ。


 何か憑き物が落ちたような、スッキリとした表情を浮かべ、ヴィルジールは得心の息を漏らす。

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