3-4
三階にある一年の教室から、一つ下の階にある自分たちの教室へと移動した。
当然だがそこにクラスメイトたちの姿はない。シンと静まり返った教室には、終業式の日に書かれた悪戯書きがまだ黒板に残っている。
生徒がいないと寂しいくらいに殺風景な教室。しかしその教室の一角に、一つだけ違和感がある。皆が座って勉強する各々の席。そこの一つに、空の花瓶が一つ、ポツンと置かれていた。
それをあえて見るつもりはなかった。しかし御調はもちろん、和花も自然とそこに目が吸い寄せられただろう。そして当然、その違和感は秋那の目にも入ったはずで、そこが姉の座っていた席であることを容易に想像出来たに違いない。
声をかけてやるべきだろうか、などと御調は考える。だがなにかを告げようとして口を開きかけてすぐに閉じた。いったいなんと声をかければいいのか。秋那になにを、どのように伝えたらいいのか。
わからない。わかるわけなど、なかった。
誰もなにも話さない。冷たい教室の空気が、さらに数度低下したような錯覚すらある。黒板の上にある時計に目を向けると、まだ教室に入って一分と経っていなかった。
「……」
どうしたものか、と考えていると、真っ先に秋那が動いた。
視線も足も、桜良の席に向けられている。
そして桜良の机の端にそっと触れると、
「…………ここで、お姉ちゃんが勉強していたんですね」
と、消え入りそうな声で呟いた。
隣で和花が息を呑むのが気配でわかった。御調だけじゃない。和花だって、秋那になにを言ってやればいいのかわからないのだ。
秋那は数度、机の表面を優しく撫でる。その姿を見てしまうと胸が締め付けられるように痛んだ。
「――ねぇ」
しかしそんな、誰もなにも口を開けない雰囲気をぶち壊したのが真宙だった。
真宙は一声そう発すると、桜良の机に置いてある花瓶を手に取り、
「これ、もういらないよね」
「……先輩?」
「だってほら、桜良はもう、帰ってきたんだからさ」
わかっている。真宙が今どういう状態なのか。わかっているし、誰の頭にもそれはあったはずだ。だがそれでも、真宙の言葉でその場の空気が凍り付いたのが御調たち全員に感じられた。
「真宙……お前は……っ」
思わず発した声に、真宙は心底わからないという風に笑顔で首を傾げる。
「そうだ。僕、これ事務室に返してくるね。――だってもう、いらないんだから」
言うと、止める間もなく真宙は花瓶を持って教室から出て行った。
「おい、真宙――」
「私が行くよ、飯塚くん」
御調が追いかけようとすると和花がそう言って制した。和花は一つ頷き、一度だけ秋那に目配せをして真宙の後を追った。
二人の足音が遠ざかり、そして教室には御調と秋那の二人が残された。
「……」
直前のこともあり、なんとなく気まずい。いくら桜良に似ていても、彼女は当然、桜良ではない。真宙のように混同したりはしないが、だからこそなにを話していいのかわからず、秋那から視線を逸らしていると、
「……飯塚先輩」
秋那のほうから御調に話しかけてきた。
その声に顔を向ける。
「どうした?」
「先輩、あたしのこと避けてます?」
「……別に、そんなことないぞ。ただ、ちょっと」
どう接していいのかわからない。そんな気持ちがあるだけだ。
「お姉ちゃんのことで変に気を遣わなくて大丈夫ですよ。そのほうがあたしもありがたいですから」
「そうか、わかった……。悪いな、逆に気を遣わせて」
「いえ、大丈夫です。……ところで先輩。少し先輩に訊きたいことがあるんですけど」
「訊きたいこと? なに?」
警戒……というのもおかしな話だが、秋那の問いかけに特になにかを思うこともなくそう返すと、秋那の目が僅かに細くなり、二人の間の空気が変化したことに気づいた。
そしてその雰囲気から、秋那がこれからするであろう質問がどういうものなのか、容易に想像することが出来てしまう。
「……古賀先輩にも訊いたことですが。粕谷先輩って、お姉ちゃんがいなくなってからずっとあんな感じなんですよね?」
訊ね方からして秋那も答えはほぼ確信しているのだ。事前に和花に話を聞いたと言っているし、御調へは念のための確認ということなのだろう。だから御調も迷うことなく秋那へ頷いて返す。
その御調の仕草を見て、秋那は言葉を発さない代わりに溜息をついて桜良の机へ視線を落とした。
そして視線を変えないまま、
「……先輩。粕谷先輩は時間が経てば元に戻ると思いますか?」
「まさか」
間髪入れずにそう答える。当然、そんなことは思っていない。
現に今まで三か月という時間があった。その三か月間、御調と和花は一番、真宙の近くにいて彼のことを見てきた。
だが時間は真宙の傷を癒さなかった。ずっと桜良の影を追い続け、居もしない桜良の幻影に取りつかれ、あの辛い事実でさえ頭の中から消えてしまったように思う。
真宙は変わらなかった。……いや、どんどんと悪い方へと変わっていっている。それを良しとは、お世辞にも言えない。
「正直、秋那が来たことでなにか好転するかも、とは思ったよ」
もういないはずの桜良と瓜二つの妹。そんな秋那の出現によって真宙の心になにかしらの影響があるのではないかと思った。
「実際、真宙は変わった」
「……良くないほうに、ですか?」
視線を上げた秋那と目が合う。御調は無言で頷いた。
「なぁ、秋那。……キミは、どうして真宙の前に現れた?」
正直に言って、秋那が現れてからの真宙は異常さに拍車がかかってしまった。誰が見ても『異常だ』とはっきりわかるくらいに。これならまだ秋那が現れる前のほうが良かったのではないかと感じるほどに。
彼女がなにを思い、なにを考えて行動しているのかはわからない。だが、だからといって彼女の行動を止める権利は御調にはない。
でも真宙の友人として、秋那の行動の理由くらいは知っておきたい。
「やるべきことがあるからです」
「やるべきこと……?」
そう告げる秋那の瞳には、力強い光が宿っている。なにがあってもこの意思は曲げず、考えを変える気もない。言葉にしなくてもそう伝わってくるのを感じた。
友人のためだ。本当なら秋那の言う『やるべきこと』の内容を問いただしたいところではあるが、相手は桜良の妹だ。たったそれだけの理由ではあるが、なぜか最終的には真宙のためになるのではないか、と思えてしまう。
それは少なからず御調も、もしかしたら和花も、秋那に桜良の面影を重ねている部分があるからかもしれない。
「なんだよ、やるべきことって」
それで今の真宙の状態が良いほうへと変わるのなら協力したい。桜良だってこのままの真宙の状態を望んではいないだろうし、二人の友人として本当にそう思う。
まずは話を聞いてから。そう思って秋那の言葉の続きを待っていると、廊下の奥から誰かが駆けてくる足音がした。自然と教室の入り口へと視線が移り、それと同時に和花が教室へ駆け込んできた。
「古賀? どうした?」
勢いよく飛び込んできた和花は肩で息をしているのか身体を震わせている。その様子にどこかおかしさを感じた御調が歩み寄ると、和花は息を切らしているわけではないことがわかった。
「古賀、なんで泣いて……」
隣に立ってようやくわかった。
和花が身体を震わせているのは走って息が切れたからじゃない。嗚咽を我慢していたからだ。身体を丸めて肩を震わせる和花からは、押し殺した涙声が聞こえてくる。
いったいなにがあったのか。
そう考えて真っ先に浮かんだのは真宙の顔だ。そもそも今は冬休みで校舎にはほとんど人間はいないのだ。そして一緒にいるはずの真宙が一緒にいない。それはつまり、真宙となにかがあって一人で先に戻ってきた、と考えられるのではないだろうか。
「古賀先輩?」
和花の異変に秋那も歩み寄る。御調とは反対側に立ち、震える和花の背中を摩る。
「古賀、なにが……」
と、和花へ声をかけたとき背後で気配して振り向いた。
そこには暗い顔をした真宙が所在なさげに立っていて、御調と目が合うと視線を逸らした。
それだけで疑惑は確信へと変わった。
「……なにが、あったんだ?」
言葉の続きを和花ではなく真宙へと向けた。
しかし真宙は、視線を逸らしたまま答えなかった。
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