叶わぬ約束交わした時に。月と彼女が微笑んだ


 抱き合うことしばし。ようやく彼女の嗚咽が収まりを見せてきた頃に、俺は口を開いた。


「落ち着いた、ツツミちゃん?」


 あれからどれくらい経ったか。時計を見ていないので正確な時間こそ分からないが、体感的には一晩中泣きはらしていたような気もする。

 声が届いたのか、ツツミちゃんは俺の胸の中で首を横に振った。


「そっか。じゃあまだこうしてるからさ、落ち着いたら言ってな」

「…………」


 何も言わないまま、俺はツツミちゃんと抱き合っていた。もう泣き声やしゃくり上げが聞こえてくることもなく、俺の耳に届くのは風と波の音と、初夏の虫達の鳴き声のみ。

 先ほどは何も聞こえないくらいに静まり返ったかと思っていたが、落ち着いてくると案外聞こえてくるものは多い。さっきは気を張っていて、ただ意識していなかっただけかもしれんな。


「ツツミちゃん、そろそろ」


 少しして声をかけてみたが、彼女は首を横に振る。俺の背中に回した手に、ぎゅーっと力を込めている。

 まだ離れたくないと言わんばかりに。


「あ、あの。ツツミちゃん?」


 彼女は首を横に振る。


「さ、流石にこの辺にしておかない? ほら、誰かに見られるかもしれないしさ」


 彼女は首を横に振る。

 ついでに俺の背中にある手に、更に力が込められる。


「う、うーん。困ったなあ」


 ツツミちゃんが使っているシャンプーの香りが鼻孔をくすぐってきている中、俺は後ろ頭を掻いていた。

 彼女の気持ちも分からなくはないが、ずっとこのままという訳にもいかない。


 俺が回していた手を離して彼女の肩に置くと、ビクッと身体を揺らした。


「ごめんな、ツツミちゃん」


 身体を離そうとゆっくりと力を込めると、彼女は抵抗しなかった。

 引きはがしたツツミちゃんは、まだ俯いたままだ。


「……ずっとこのまま、時が止まってしまえば良いのにって、思ってた」


 何を言おうか悩んでいたら、ツツミちゃんがポツリと漏らした。


「カッコ良い先輩を独り占めできた今が、ボクの人生で一番幸せな時だった。あるいは世界が滅んじゃって、ボクら以外に何もかもがなくなっちゃえば。ずっと、ボクだけの王子様でいてくれたのにって」


 彼女の心に、まだ未練の炎が残っているのがありありと分かった。

 燻ぶっていても火種は消えることはなく、何かの拍子に燃え上がっていく。


 彼女はずっと、そんな想いを胸に宿していたんだって。


「でも。カッコ良い先輩は、ボクじゃない別の誰かの所へ行っちゃう。それこそが、ボクの愛する王子様」

「ツツミちゃん」


 彼女が顔を上げる。彼女は笑おうとしていた。

 悲しみと、苦しみと、怒りと、嘆きと、悔しさと、切なさと、愛しさを。


 その全てを、強がりで覆っているかのような顔だった。


「行くんだね、先輩。アヤヤさんの所に」

「ああ、行くさ。行くに決まってる」

「やっぱり先輩はカッコ良いなあ。それでこそ先輩だ」


 ツツミちゃんが、クルリと後ろを向いた。どうしたのかと思っていると、後ろを向いた彼女から声がかかる。


「ねえ先輩。さっき、ボクに償ってくれるって言ってたやつ、覚えてる?」


 償いと言えば、俺が彼女を妥協して選び、傷つけたことに対するあの話だな。


「覚えてるぞ。まあ、何でもとは安請け合いできんけど」

「難しいことは言わないさ。お願いしたいことは、一つだけ」


 いつかのデートの約束をした時を思い出させるような調子だった。


「先輩。アヤヤさんとのことがもし、もし上手くいかなかったら……今度こそ、ボクのことを見て欲しい。その時は絶対に、他の誰も見ないで、ボクの所に来て欲しい。駄目?」


 震えた声で恐る恐る、彼女は聞いてきている。

 それは初めて告白された時に言われた内容と、全く同じだった。


「駄目なんかじゃないさ。分かった。出来ること全部してもアヤヤへの恋が実らなかったら、絶対にツツミちゃんの元に帰ってくる」

「言ったね? 今、言ってくれたよね? アヤヤさんが駄目だって言ったら、ボクの所に来てくれるって。その時はボクだけを、愛して、くれるって」


 気が付くと、ちょうど彼女の真上に満月が来ていた。月明りに照らされたツツミちゃんがクルリと振り返ると、金色の目に涙を浮かべている。

 精一杯笑おうとしているのか、口角だけがぎこちなく上がっていた。


「ああ、約束する。この約束が、俺の償いだ。絶対に忘れないよ」

「絶対、絶対だよ。これ以上、他の人になんてなびかないでね。ボクが勝てないのは、アヤヤさんだけだって。そう、してね」


 我慢し切れない涙が、彼女の瞳から零れてくる。彼女としては精一杯の妥協、断腸の思い。そうだとしても、彼女は笑おうとしてくれていた。

 辛い気持ちを全部押し込めてでも、俺の為にと。例えその気持ちが抑えきれず、目からぽろぽろと落ちてくることになろうとも。


「本当にありがとう、ツツミちゃん」

「ううん。ボクの方こそ、ありがとう先輩。無理を、聞いてもらって」


 無理を言っているのは、絶対に俺の方だ。

 ツツミちゃんから提案されたとはいえ、全身全霊でのアプローチが全部実らなかった時まで、俺が彼女の気持ちに向き直ることなんてない。


 それを全て承知の上で、彼女はずっと待ってくれている。


「じゃあ、行くな。今から、やらなくちゃならないことがある」

「うん。ボク、先輩のこと、応援してるから。ずっとずっと、先輩の味方でいたいから」


 手で涙を拭った彼女は、頭上にある満月のような綺麗な瞳で、精一杯笑いかけてくれた。思わず息を呑みそうになって、俺は慌てて踵を返していた。

 夜空をほのかに照らしている妖しい天体と、内心では絶対に成功なんかして欲しくない筈なのに、応援してると言ってくれた健気な彼女。


 月とツツミちゃんに、惑わされてしまいそうな気がしたから。


「バイバイ、先輩。おやすみなさい」

「おやすみ、ツツミちゃん」

「あっ……」


 だが、さっさと走り出そうとした俺の背中に、彼女の消え入りそうな一言が突き刺さる。


「行か、ないで」

「ッ」


 強がりで取り繕った隙間から、ポロリと零れ落ちた彼女の本心。

 思わず、俺は足を止めてしまった。


 おそらく、ここが分水嶺。俺がアヤヤへの気持ちを振り切って、本当に彼女を受け入れるのであれば。今日はこれが、最後のチャンスだ。


 彼女が心の底から願っていることを叶えてあげるのであれば、振り返って、強く抱きしめてあげるだけで良い。

 難しいことなんて何もないし、むしろ今から俺がやろうとしていることに比べたら、遥かに楽なことだ。


 だからこそ。


「っ!」


 俺は振り向かないままに走り出した。ツツミちゃんが息を呑んだ音を聞かないように、全速力で。

 彼女を受け入れたとしても、それは彼女の好きな俺じゃない。助けたあの時、俺は彼女の王子様になったんだ。王子様なら、カッコ良くしていなくちゃいけない。


 彼女が好きな俺でいたいからこそ、俺はここで自分を曲げられない。

 こうでなくちゃ、駄目なんだ。


「あ、あああぁっ」


 背後から、嗚咽のような声が聞こえる。段々と遠ざかっていくそれを、俺は考えなかった。

 代わりに頭の中を巡らせていたのは、これからの動きについて。幸いにして、ちょうど良い学校行事がある。これを利用しよう。


 方針を定めた俺はスマホを取り出し、クラスのグループチャットの中から該当の人物を見つけ出した。そいつとは顔見知り程度であり、頭がスポーツ刈りだったことしか覚えていない。

 とても無理を言える間柄じゃないのであれば、取る手は一つのみ。


「もしもし。いきなりですまんが、頼みたいことがある。金なら出すから、とにかく話を聞いてくれ」


 俺は電話をかけると、びっくりしている彼に対して早速説得を開始した。

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