2日目 夜:お風呂とお姉ちゃんの苦しみ

 僕がベッドに戻ってすぐ、お姉ちゃんが帰ってきた。時間を聞いたら、夕方の五時半だったらしい。それからお姉ちゃんが作ってくれた温かいごはんを食べる。肉じゃがに炊きたての御飯、お味噌汁だ。


 こういうの、いつぶりに食べただろうか。お父さんがいなくなってからは、食べていなかった気がする。


 食べ終えて歯磨きをしてからしばらく雑談していると、お姉ちゃんがおもむろに立ち上がった。


「さて、お風呂入っちゃおっか!」

「お風呂かあ」


 あれ? そういえば、お風呂ってどうするんだ? 今の状態じゃ一人でお風呂になんて入れそうにないぞ。


 そんなことを考えていると、お姉ちゃんが僕に手を差し伸べている。


「待って。あのさ、お風呂どうするの?」

「もちろん、お姉ちゃんが入れてあげる!」

「スーッ……なるほど」


 五日間お風呂に入らないか、お姉ちゃんに入れてもらうかの究極の二択を突然迫られてしまった。仮にも思春期男子としては、どっちもきつい選択だ。無論、彼女とお風呂に入るのが嫌なわけじゃない。僕はお姉ちゃんのことが好きだし、彼女からの好意も昔からひしひしと感じている。


 僕たちは両思いだ。それに気付けないほど鈍くはないし、愚かしくもないと自分では思っている。


 だけど、それとこれとは話が別というものだろう。


 僕の思考をよそに、手は勝手にお姉ちゃんの手を取っている。そのままお姉ちゃんに起こされて、肩を貸してもらって、気がつけば僕は脱衣所にいた。


「うん、なるほどね」


 脱衣所の鏡を見て、色々なことに納得がいく。僕の目の下は、泣き腫らしたように赤かった。昨日、自分で気づかないうちに泣いていたんだろう。上は昨日着ていたパーカーとは別の、お姉ちゃんの黒色のパーカー。


 下は、タオルが巻かれているだけ。


「そういえばそうだった」


 これまで余裕がなかったからか、全く気にしてなかったけど、僕はなぜか下を脱がされていたんだった。足枷を着けたままお風呂に入れるように、ということだろう。


「さ、脱がしちゃおうねー」


 そうして、お姉ちゃんにあれよあれよと脱がされていく。鏡に映るのは、痣だらけの僕の体だ。たまに痛むけど、痛がるのも疲れてしまって、普段は全く気にしなくなってしまった。それでもこうして鏡に映ると、ああ、なんて汚いんだろうと思ってしまう。


 お姉ちゃんが今にも泣きそうな顔で、僕の体を舐め回すように見つめている。痣に、彼女の手が優しく触れた。彼女が触れたところから、痛みが取り払われていくように感じて、心地が良い。


 しかし、鏡越しに見えるお姉ちゃんの瞳には涙が滲んでいた。


「ごめんね」

「なんで謝るのさ」

「お姉ちゃん、君が大変なときに逃げちゃったから」


 彼女はそう言って目を伏せているけれど、やっぱり謝ることなんて何も無い。お姉ちゃんだって、色々と大変だったんだから。お姉ちゃんの家はエリート一家というやつで、彼女はそこの一人娘ということもあって、大人たちから常に圧をかけられていた。


 昔、交友関係を制限されていると泣きながら言われたことがある。僕は従弟だったから、許されていたそうだ。おじさんとおばさんに初めて会ったとき、「親族でなければ君との交友は許さなかっただろう」と言われたんだった。


 一体何様なんだろう。思い返しても、腹立たしい。同時に、どうしようもなく目の前で頭を垂れている彼女に何かしてあげたくなった。


 僕はお姉ちゃんの頭を撫でる。ふんわりとした長い黒髪の感触が心地良い。


「お姉ちゃんのせいじゃないよ。逃げたとも思ってない」

「だけど、凪くんこんなに傷ついて……」

「お姉ちゃんもでしょ?」

「……そうだね」


 僕らは微妙な空気のままお風呂に入る。お姉ちゃんも裸で一緒に入ることになったけど、正直、裸に見とれたり興奮したりする状況でもなかった。裸よりも、ずっと気になることがある。


「どうして帰って来たの?」

「帰って来ないほうがよかった?」

「そうじゃない。またおじさんおばさんに何かされないかなって」


 お姉ちゃんに頭を洗ってもらっているから、彼女の顔はよく見えない。鏡は曇っていて、何も映してはくれなかった。だけど、湿っぽい吐息が聞こえてくるから、なんとなく察しが付いてしまう。


「家出じゃなくて遠い学校に通うための一人暮らしという名目だからね、結局遠隔で監視されてたんだ」

「遠隔で?」

「食事は全部写真に撮って送らなきゃいけなかったし、友達の素性まで調べられたし、毎日二十二時には寝て朝六時に起きなきゃいけなかった。寝る前と起きた後は必ず電話」


 聞いているだけで、胸が苦しかった。僕なんかより、ずっと大変じゃないか。頭を洗い流されながら、腕を掻きむしりたくなった。


「だから疲れちゃって、君に会いたくなったの。そしたらあんなことになって……今はこんなことになっちゃってる感じかな」


 淡々とした声音に感じるけれど、きっと心中は穏やかじゃないはずだった。家から逃げようとしたのに、結局は逃げられなかったわけだから。


「はい、次は体ねー」

「うん」


 お姉ちゃんがボディタオルで僕の背中をゴシゴシと擦り始めた。ああ、なんだかすごく気持ちがいい。人に洗ってもらうのって、こんなにも気持ちがいいのか。


 いや、お姉ちゃんだからか。


「お姉ちゃん」

「んー? どうしたの?」

「また僕を頼ってよ。昔みたいにさ」


 お姉ちゃんの方を振り返ることはできなかったけど、僕は何も見えない鏡越しに伝える。


「僕はお姉ちゃんの前でだけ仮面を外せるんだ」

「私もそうだよ。君の前でだけ私は私でいられるの」

「だからさ、苦しいなら頼ってほしいんだ。まだ頼りないかもしれないけどね」


 僕が言うと、お姉ちゃんは黙ってしまった。何か変なことを言ったかな。そんなふうに考えていると、体に触れる感触が柔らかいものになった。これは、お姉ちゃんの手だ。


 お姉ちゃんの手が、指が、僕の腕を這う。僕は石にでも変えられたみたいに、固まってしまった。


「ううん、君は頼りがいがあるよ」


 耳元で甘くとろけるような声が聞こえた。急速に、耳が熱くなる。背中には、柔らかくハリのある感触があった。意識する余裕がなかったことをどうしても意識してしまう。


 お姉ちゃんの手指が腕を滑るようにして胸のほうに移る。触れるか触れないかギリギリのところで優しく触られるのがくすぐったくて、思わず変な声が漏れた。


「ふふふ。かわいい。ちょっとからかいたくなっちゃった」

「も、もう……真剣に話をしてたのに」

「ごめんごめん。前は自分で洗う?」

「……自分で洗う」


 主張している僕の体の一部の訴えを無視して、僕は無心で体を洗った。先に湯船に入っていたお姉ちゃんのくすくすと笑う声を聞きながら。


 それから一緒に湯船に入ってから、僕が先に出た。お姉ちゃんは自分の髪と身体を洗った後、もう一度湯船に浸かるらしい。


 だけど足枷があるのでベッドまで運んで貰って、お姉ちゃんには二度手間を取らせることになった。今度から、洗う順番は逆にしたほうがいいんじゃないか。


 そう思いながら、体がベッドに深く沈み込む感触に身を預ける。あまりにも心地よくて、僕の意識はぐでぐでにベッドに溶けていった。

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