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どうやら、バイキングが決定打になったらしい。
その事実は、私を苦しめた。元はといえばバイキングを彼に提案したのは、私だ。私が店を苦境に追いやったみたいだ。
「そんな事はない。バイキング自体は素晴しいアイディアだったと思うよ。ただ、高杉シェフには上手く意図が汲み取ってもらえなかったみたいで。僕の調整不足だよ。乃愛が悪く思う必要はない。気にするな」
彼がそう言って自分を責めるから、余計に落ち込んでしまう。
なんとなく、キッチンの空気も以前にも増してギスギスしてきたようにも感じられる。悟さんはいつも怖い顔をしているし、健ちゃんにも以前のように冗談を言い合えるような余裕は全く無い。
そんな折、小太りの身体を今風のスリムなジャケットとパンツに包んだいかにも金持ちの二代目という雰囲気たっぷりの社長が来て、店に張り付くようになった。今までだって数える程しか店に足を運んだ事もない癖に。ジロジロと無遠慮に仕事の様子を観察したかと思えば、断りもなく相手を捕まえて質問攻めにしたりする。雰囲気は悪くなる一方だった。
「バイキングで残った料理って、みんなで食べてるの?」
ランチ後のまかないを用意していた健ちゃんに対し、社長は目を剥いた。
「ちょっと残し過ぎじゃないの? ピザなんて半分以上残ってるじゃない。これ、バイトに食わせるのなら金取れないの?」
ズケズケと遠慮なく吐き出される言葉は、私達の胸を暗鬱とさせた。
半分残ってるという事は、逆に言うと半分が食べられたという事だ。出さなければ、その人達はこのピッツァを食べられなかった事になる。店によっては終了時間近くなるとお客が残っていても補充しなくなる所もあるそうだけど、高杉シェフは逆だ。同じお金を払っている以上、ちゃんと同じだけの料理を用意するべきだ、と出し惜しみしない。
とは言っても、パスタ等の量の調整が利くものに関してはちゃんと残りの人数や取り具合を確認しながら、最低限に止めている。ただ、ピッツァに関しては用意している生地のサイズもある為、なかなかそういう訳にもいかない。重箱の隅をつつくようにそんな所ばかり指摘されても、不快に思うばかりだ。
一事が万事、そんな調子だった。社長の口からは「勿体ない」「もう少し絞ろうよ」ばかり繰り返された。視線はキッチンだけではなく、私達ホールのアルバイトに対しても容赦なく向けられた。仕事上必要な会話をしているだけだというのに、「遊んでるんじゃないか?」「こんなに何人もいらないんじゃないか?」と言わんばかりの棘のある視線が向けられる。
急激に店の雰囲気は悪化しつつあった。
「シェフ、ちょっと来てもらってもいいかな?」
偉そうな口調で社長がシェフを休憩室に呼び出したのは、社長が来てから三日目のディナーが終わってすぐの時間だった。彼もまた呼び出され、休憩室に入っていく。デシャップや洗い場周りの片付けをしていた私は、悟さんと健ちゃんと三人で視線を合わせた。
「まぁそうは言ってもねえ。俺っちも川野辺さんに頼まれて来ただけで、そん時に原価は気にしないでいいからイル・ソーレと出来るだけ同じ物を出してくれって言われたもんでね」
休憩室のドアは開いたままだから、どうしたって会話は漏れ聞こえてくる。
「そこは川野辺さんの勘違いもあるかもしれないけど、イル・ソーレ並の味を保ってくれっていうお願いをしたんですよ。今の値段であんなに出されたんじゃ、店がもたない」
「売値に関してはこっちに任せるっていう話でもあったでしょう。地方だから都内と違って安い料金でケチケチせずにやってくれって言うから、出来るだけ安い値段で良い物出すよう努力してたんでね。見ててわかるでしょ? ウチは既製品一切使ってないんですよ。既製品は高くつくし、味も悪いから。悟君達だって遅くまで残って仕込み頑張ってるでしょう? 本当だったらもっと人増やして貰いたいぐらいなんだ」
「それはわかるけど、やっぱり常識的なレベルで料理と価格のバランスはとって貰わないと。ウチだって無限に金持ってるわけじゃないんだから」
「そうすると、値段を上げろっていう意味ですか? それとも、原価を下げろって事ですか?」
「基本的にはどっちもだけど、まずは原価を下げてもらいたいね。せめて三十五%ぐらいに収めて欲しい」
「まさか。そんな事したら今の半分になっちまいますよ。今と同じ値段だと単品でパスタかピッツァ出して終わり。前菜もデザートも飲み物も別。そんなんじゃお客さん来ないでしょう」
「だからそこをシェフも一流なんだから、今ぐらいの値段と量は維持した上で、原価を落とすような工夫してもらわないと」
「そりゃあちょっと無茶過ぎますよ。調理人だってイル・ソーレに比べたら半分以下の人数で回してるんだから、これ以上凝りようもないし。原価ばっかり下げたんじゃただの具なしパスタとかトマトだけのピッツァになっちまう。キャベツだけのサラダとか。そんなのこの店の料理って言えないでしょう」
聞こえてくるのは、彼から聞いていたのとほぼ同じ、平行線の議論だ。
シェフは「言われた通りにやっている」と言い、社長は「誤解だ。曲解だ」と繰り返す。シェフも悪いとは思うけど、今まで一緒に働いてきて、沢山の固定客が付いているのも知っているので、どうしても私としてもシェフに肩入れしたくなってしまう。
ましてやあんなチャラチャラした二代目社長なんかに、イタリアンレストランの事がわかるとは思えない。
それとなく悟さんや健ちゃんの顔色を伺うけど、二人とも素知らぬ顔で仕事を続けている。でも、きっと意識は隣室の会談に釘づけのはずだ。
不思議な事に、同席しているはずの彼の声は全く聞こえて来ない。彼は一体、今何を考えているのだろう。どちら側の人間として、話に加わっているのだろうか。
「そこは工夫一つでしょう。何も高価な材料使わなくても美味しい物作ってる料理人は世の中に沢山いるよ」
「じゃあ、缶詰のトマトソースに安いプロセスチーズ乗っけたようなピッツァでも出しましょうか。それでも美味い美味いって食う奴もいるんだろうけど。客は来なくなると思うけどねえ」
段々と議論は白熱してくる。お互いに丁寧な言葉遣いではあるけれど、売り言葉に買い言葉とはこの事だ。これが大人同士の喧嘩なのか、と目が覚める思いだった。
さんざんお互いの意見を述べ合うだけの会談は続き、同じような話を三周ぐらい繰り返した後は、急に静かになってしまった。傍で聞いていても、あまりにも不毛な議論なのは明らかだった。
と――口火を切ったのは社長の側だった。
「とにかく、シェフ。今後は仕入れについても我々を通してやるようにして貰いたい。取引業者の選定も、一からこちらでやらせて欲しい」
「なんだって? 仕入れをそっちでやるって、そりゃどういう意味だ?」
「我々が公平な立場で関わらせてもらえば、まず仕入れの段階で原価を落とすお手伝いが出来るんじゃないかと思ってるんだよ」
高杉シェフが黙り、空気がガラッと一変するのを感じた。視線を上げると、悟さんと目が合った。
シェフの癇癪が爆発したのは、その直後だった。
「つまり何か、俺っちが業者から賄賂貰ってんじゃねえかって疑ってるって事か!」
「シェフ、悪いけど、この原価率は尋常じゃない。明らかに異常なんだ。こんなの普通の店じゃありえない。何かあると思われて当然でしょう。シェフ、落ち着いて正直に話して貰いたい。今なら我々も」
「冗談じゃねえ!」
ガチャン、と椅子から立ち上がる――というよりは椅子を蹴飛ばしたような音が聞こえた。
「川野辺さんの頼みと思って続けてきたが、もう我慢ならねえ。俺っちは引き上げさせてもらう。二度とゴメンだ」
シェフは言い捨てると、真っ赤な顔で休憩室を飛び出して来た。そのままバックを抱えて、店を出て行ってしまう。
搬入口のドアがバタン、と閉まる音がキッチンに響いた。悟さんも健ちゃんの手も、いつの間にか止まっていた。
「結局逃げやがったか。逃げるのはやましい証拠じゃねえか。ポンコツ料理人め」
打ち合わせ室から出て来た二代目のボンボンが、吐き捨てるように言った。私は思わず目を見張ったものの、相手に気づかれる前に顔を背けた。
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