*
「一週間ぶりだね」
車の窓から身を乗り出すようにして煙草を吸う彼の言葉で、会えない期間がたった一週間でしかなかった事に気づいた。
「ごめんな。言い訳にしかならないけど。昨日も一昨日も、帰ったのは十二時過ぎだったから」
煙とともに吐き出す彼の言葉が、いつになく重く感じられた。
彼は今日、私に会うと同時にいつものように、いやいつも以上の強さでもって私の身体を目いっぱい抱き締めた。骨が軋む程の痛みを感じたけれど、その痛みこそ彼の想いの強さのような気がして、私は一気に安心感に満たされてしまった。
彼はいつもより言葉少なく、でも妙に熱烈に私の唇や首筋に舌を這わせた。どことなくフラストレーションの影を感じつつ、例えそうであっても私を必要としているのが嬉しくて、私は彼の求めるままに身を任せた。彼はいつもよりも情熱に、いつもよりも乱暴に私の身体を貪り、いつもよりも早く、果てたのだった。
「……そんなに大変なの?」
元通り衣服を整えた後、私は彼の背中に凭れかかるようにして問いかけた。
「……結構ね」
「仕込みとか、発注とか、在庫確認とか、そういう事?」
「いや……もっと根本的な部分でさ」
彼は携帯灰皿の中に煙草をもみ消したものの、私の方を向こうとはしない。何か隠しているような、歯切れの悪い態度だ。
根本的な部分、という彼の言葉が気にかかる。もしかしたら彼を悩ませ、追いつめているのは仕事上の問題ではないという事なのだろうか。もっとプライベートな――私との関係であったり。
「……結構、ヤバいんだよね」
「ヤバいって何が?」
危惧していた瞬間が遂に訪れたのかと、私の胸はギクリと反応する。
言うべきか言うまいか、彼は逡巡しているように見える。けど、言わない意味はない。彼の事を誰よりも理解して、誰よりも彼に寄り添えるのは私だけなのだから。
じっと彼の目を見つめると、珍しく彼は二本目の煙草に火を点けた。
煙とともに吐き出された言葉は、私の想像とは全く違ったものだった。
「本社っていうか……親会社っていうのか。限界なんだ」
「どういう意味? あんなにお客さんは入ってるのに?」
「今まではだいぶ大目に見ていてくれたんだけど、もういい加減堪忍袋の緒が切れたみたいでね」
あまり積極的に言いたくない事柄に関しては、彼はこうして断片的に、情報を小出しにしながら話す癖がある。会社的にはただのいちアルバイトである私に対して、店長でありマネージャーである彼の口からどこまで話して良いものか、計り兼ねているのだろう。
ただ、私は知っている。あの店の中で、ホールに属するただ一人の正社員である彼は、いつも孤独なのだ。キッチンには高杉シェフや悟さんがいるとはいえ、キッチンとホールには厳然とした壁がある。シェフはホールの事や店の細かい数字に関しては完全に彼にまかせっきりだし、シェフがそうである以上、悟さんもキッチンに対して下手な口は出さない。こと、料理以外の部分に関しては彼が一身に背負っているに等しい。
彼が唯一心を開けるのは、私だけなんだ。
ぽつりぽつりと打ち明けられる彼の話を簡単にまとめると、店の経営状態が良くないという事だった。
目を白黒させる程の客をこなしながらも、実際には赤字が続いていたのだという。起死回生のバイキングで挽回を測ったものの、七月月間の数字をまとめると、むしろ赤字幅は拡大しているというのだ。
それは私にとって耳を疑うような話だった。バイキング開始後は当然ながら、バイキング前だって毎日あんなに忙しかったのに。『フィオーレ』は市内どころか県内においても指折りの有名店で、数々の情報誌やメディアにも取り上げられる人気店だと思っていた。
ところが実際には、赤字垂れ流しの状況だったというのだから。
「料理がね。無茶苦茶なんだ」
私の疑問に答えるようにして、彼は言った。
「一般的な飲食店の原価率は三十%、高くても五十%を超える店はなかなかないと思うけど、ウチは六十%近いんだ。千八百円のバイキングの内、単純な儲けが七百円。百五十人入ったって十万円だ。ディナーで八十人入ったとしても、儲けなんて似たようなもんさ。せいぜい一人千円がいいところ。一日あたりの粗利は十八万円がいいところだろう。そこに正社員が四人とバイトが四人。そこに家賃や水道光熱費、広告宣伝費が入って来る。店を建てた時の土地代や建築費、設備代だってある。どうしたって黒字になりようがないんだ」
「六十%って」
ただただ絶句するしかなかった。彼の言葉を信じるならば、『フィオーレ』の料理は他店の倍以上の原価をかけている事になる。評判が良く、お客が押し寄せるのも当然と言えなくもない。
しかし、どうしてそんな事になっているのか。シェフと話をして、ちゃんと適正な原価に抑えるような工夫をすれば良いだけではないのか。
「始まりが始まりだからね。知ってると思うけど、高杉シェフは元々東京の『ラ・ルナ・エッド・イル・ソーレ』という有名店で働いていたんだ。南麻布にある超高級も高級なレストランなんだけど。そのイル・ソーレのオーナー・シェフである川野辺さんに、ウチの社長が何度もお願いして、半ば無理やり来て貰ったのが、イル・ソーレで三番手をしていた高杉シェフなんだ。三顧の礼で来てもらった際に、社長は川野辺さんと高杉シェフに「好きなようにやっていい」と言ったんだよ。原価だとか儲けとか貧乏くさい事は抜きにして、とにかくこの地方で他に例を見ないような、評判の良い最高のイタリアンレストランにして欲しいってね」
「じゃあ……」
「そうなんだ。高杉シェフは当初の約束通り、とにかくお客様に満足して貰える事だけを目的として料理を作ってる。それが余りにも経営状態が良くないっていうんで、なんとかしようとやってみたのがバイキングだったんだ。最初は一人単価二千五百円ぐらいを想定してたんだけど、シェフからはもっと低価格で沢山の人に利用して貰いたいっていう希望があってね。それで千八百円になったんだけど、まさかあんなに椀飯振舞するなんて、とてもじゃないが思いもしなかったよ」
当初の約束通り、という名目で暴走するシェフに、前言を撤回する訳にも行かずストップをかける事の出来ない社長。彼はその板挟みにあっているのだ。
「良くも悪くも、社長は僕に目をかけてくれているんだ。なんとかシェフの手綱を引き締めながら、経営状態を回復させて欲しいとの事なんだけど……でも僕には、シェフをどうこうできるような立場も経験もない。社長からは毎日ようにどうなってるか確認の連絡が入るし、本当に参ってしまうよ」
「悟さんは?」
キッチンの良心とも言える悟さんの顔が思い浮かぶ。これまでだって悟さんは何度もキッチンとホールの間に立って仲裁役や緩衝役を果たしてくれてきた。悟さんに協力して貰えば、シェフとの事だってなんとか取り持ってくれるのでは――そう思ったけど、
「悟さんは川野辺シェフの孫弟子だからね。悟さんのお師匠様は、高杉シェフの弟弟子なんだ。幾らなんでも、シェフの方針に背くような真似は出来ないよ」
ちょっとした作業の方法論や人間関係の話ならともかく、レシピや原価率に口を出せるような立場ではないらしい。
「社長もいい加減痺れを切らしたらしくてね。近々店に乗り込んでくると思う。きっと、川野辺シェフにも来てもらって話すようになるんじゃないかな」
「それで、どうなるの?」
「……わからない」
彼はそう言って、もう何本目になるかわからない煙草に火を点けた。
こんなにも立て続けに煙草を吸う彼の姿を見るのは、初めてだった。
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