乃愛

*

「じゃあ、お疲れ様でした。お先に失礼します」


 私はキッチンを振り返って、頭を下げた。残っていた悟さんと健ちゃんが、「お疲れー」と声だけを返してくれる。以前は「明日も来るの?」とか「シェフが喜ぶように短いスカート履いて来て」なんて軽口を叩いていたのに、最近じゃあそういう余裕もないみたい。

 ふと視線を向けると、彼もバインダーを片手に、デシャップの辺りで黙々とペンを走らせていた。在庫の確認なのか、シフトでもいじっているのか。

 私は店を出て、小さくため息をついた。手にした携帯を見る。彼からはなんのメッセージもない。今日も無理かな。

 バイキングが始まって以来、店はとにかく大忙しで、彼も遅くまで仕事をする日が続いていた。店が閉まってからもずっと仕込みを続けている悟さんや健ちゃんに付き合ってるのもあるのだろうけど、それとは別に彼の側でも仕事は増えているようだ。

 以前に比べれば消耗品の消費も増えているし、日々のアルバイトの数だって多い。色々と数字的な部分の管理も大変なんだ、と彼は言った。

 でも、私には言葉そのままに受け取る事ができない。彼は嘘はついていないと信じたい反面、実はそれって私との関係を終わらせたいだけなんじゃないか、と勘繰ってしまうのだ。

 彼と会えない日々が、彼と会えない時間が増えれば増える程、嫌な想像はどんどん膨れ上がってしまう。奥さんにバレたんじゃ。ううん。ただ単に、私に飽きただけかも。

 彼に確かめたい。もっとたくさん言葉を交わして、そんな事はないと確信を得たい。何も心配なんていらないと安心したい。何かに追い立てられるかのような焦燥感に駆られながらも、じっと耐える事しかできない自分が歯がゆい。

 あまりしつこくすればする程、煙たがられるんじゃないかという恐れがある。元々、彼が時間の全てを私に向けられるはずはない。色々なものと――仕事や、そして家庭と――上手くバランスを取りながらじゃないと、続けてはいけない関係なのだから。

 会いたいなんて、軽々しく言えない。

 そう理解はしていても、時間の重みが私の心を締め付ける。何十回も、何百回もの「我慢」を飲み込んだ末、耐え切れずメッセージを送ってしまう。


『今日も、会えないの?』


 どうしても聞きたくて、聞きたくて仕方なかった言葉なのに、送ったら送ったで濁流のように押し寄せる後悔に押しつぶされそうになる。彼の返事は二つの内の一つ。その一方は夜も眠れなくなる程の失意と絶望しかもたらさないというのに。


『今日は用事があるから帰るね』


 そう送ってあげればいいのだ。そうすれば最悪の返事は避けられる上、彼もまた胸を休める事が出来るのに。私は彼の気持ちを誰よりも良くわかってあげられるかけがえのないパートナーとしての立場を維持できるのに。

 わかってはいても、会えない時間に私の胸は張り裂けそうになる。限界が近づけば、どうしても我慢できなくなってしまうのだ。

 そして最近は、限界までの耐力がどんどん減って行ってしまっているようにも思える。

 これ以上、彼への依存度を高める訳にはいかない。

 最終的には、私も彼も不幸になる道しか残っていない。

 そう、わかっているはずなのに……。

 ブ…………ン。

 握り締めた手の中で、携帯が震えた。


『もう少ししたら出るから、待ってて』


 浮かび上がったたった一行のメッセージは、わだかまった私の心を魔法のようにするするっと解きほぐしてしまうのだった。

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