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『フィオーレ』から車で十分もかからない駅前の繁華街の中にホテルがある。
ビジネスホテルに毛が生えた程度の小規模のホテルだけど、建物の地下に専用駐車場があるのが私達には嬉しい。エレベーターに乗れば、誰にも見られずにレストランまで行ける。
ホテルのレストランと言っても、『カフェ・デル・エスパーニャ』はスペイン料理のダイニングバーだ。店内はカウンター席を中心に薄暗く落ち着いた雰囲気で、どちらかというとバー寄りのお店だった。
私達はファミレスのような不特定多数の人が利用するお店には行けないから、デートの際はどうしてもこういう隠れ家っぽいお店が中心になる。その中でもここは料理も美味しくて、最近の私と彼のお気に入りの店だった。
「昨日も飲んだんだろう?」
私がシャンディガフを注文するのを見て、彼が苦笑する。彼と一緒にこの店に来たら、飲むのはやっぱりシャンディガフだろうというのが私のこだわりだった。ジンジャエールの甘味が効いたビールが、前菜のスパニッシュオムレツにぴったりなのだ。もっとも、その組み合わせを教えてくれたのは彼自身だけど。
彼の方はというと、こちらはいつも決まってアイスコーヒー。車の運転があるから、という理由で彼は絶対にアルコールは飲まない。黙々と料理を味わうばかりだ。
「飲んだって言ったって、酔う程飲んだわけじゃないもん。私は陽君に飲ませる役割だったんだから」
「それで、どうだったの? まさかりーちゃん達に未成年飲酒させたわけじゃないだろう」
苦笑しつつ、彼が尋ねる。彼には昨日の懇親会の目的は話してあった。
「まさか。でも、飲ませたところでどうにかなったとは思えないな」
結局あの後、陽君とりーちゃんとは特に何もなかったようだ。耳を澄ましていた訳じゃないけど、陽君の部屋は静寂そのものだった。
一番最初に目を覚ましたのはモモちゃんで、明け方に起き出したかと思うとトイレに直行し、ドタバタと一人で動き回っていた。その物音に気付いて起きてきた陽君がモモちゃんを介抱し始め、私も起き出した。りーちゃんが目を覚ましたのは騒ぎがようやくひと段落した頃だ。
陽君は真っ赤な目をしていて、見ただけでほとんど一睡していないのがわかった。対してりーちゃんは良く寝たといわんばかりに、お馴染みの明るい笑顔を浮かべていた。
多少強引にでも一緒の布団に突っ込んでしまいさえすれば、ちょっとぐらい進展するんじゃないかと予想していたのだけど、どうもあの二人には本当に何もなかったようだ。陽君はよくわからないけど、りーちゃんはそういう経験も無さそうだし、そこまで大胆にはなりきれなかったのかもしれない。
「りーちゃん、陽には合ってると思うけどね」
「でしょう? お似合いだと思うんだけど。全然駄目。もう有希さんしか見えてないんじゃない?」
明らかに寝不足の顔で、陽君はアルバイトに向かって行った。体調不良で休んだら、と言ってあげたいところだったけど、仕事に向かう陽君は昨日の歓迎会よりも何倍も意気揚々として見えた。
仕事に、というより有希さんに会いに行くような気分なんだろう。その姿を見ていたら、一生懸命りーちゃんとくっつけようと頑張った昨夜の自分が馬鹿馬鹿しくなってしまった。あんなに純粋で一途な陽君が、そうそう簡単に他の女の子になんてなびくはずはないか。
「まぁ確かに、今日はいつもよりやたらと張り切ってたな」
彼は実際に店で陽君に会っている。その時の光景を思い出したのか、子どもみたいな無邪気な笑顔に、私よりも一回り以上年上にも関わらず可愛いと思ってしまった。
陽君の様子が目に浮かぶ。きっとこれでもかというぐらい有希さんを意識しまくっていたのだろう。周りからみればバレバレで、きっと有希さん本人にも筒抜けなのに、何故かしら変に遠まわしに。
「でも鈴木さんは固そうだからね。残念ながら陽の手に負える相手じゃないと思うけど」
続いて出た言葉に、ちょっと感心してしまう。流石に彼は、見るところを見ていると思った。
有希さんはきっと、陽君の想いに応える気はなさそうだ。
結婚して子どももいるのに、自分よりずっと年下の大学生にあれだけアプローチされたら女冥利に尽きるでしょうに。陽君にとっては運命の人だとしても、有希さんにとってはそこまでじゃないという事だろう。
陽君に対する優越感のようなものが沸々と込み上げ、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。でも、こればっかりは仕方ない。
私と彼は、出会うべくして出会い、結ばれるべくして結ばれたのだ。あの二人は、私と彼とは違う。
「乃愛さ、このパエリアの隠し味って気づいた?」
何の脈略もない質問に、私は我に返った。
「パエリアの? サフランじゃなくて?」
「それじゃあ隠し味じゃないだろう。ここのパエリアって、他の店にはない旨味を感じない?」
そう言われても、私にはパエリアなんてこれまでの人生でも早々口にした事はないし、彼の言う些細な違いなんて気づきようもない。
彼はこの業界が長いだけあって、とっても料理に詳しい上、こだわりも強い。以前ハンバーグが美味しいというお店を利用したところ、珍しく不機嫌になってしまった。彼に言わせるとハンバーグはカレーや唐揚げと一緒で、高いお金を払って食べる料理ではないのだそうだ。また別の店では人気だという焼きパスタを注文し、失敗した事もある。パスタにグラタンのようにホワイトソースとチーズをたっぷりかけて焼いた人気メニューだったのだが、「中のパスタが伸びてべちゃべちゃだ。これはひどいよ。わざわざマカロニじゃなくてパスタを使う意味がわからない」と半分以上残してしまった。
『カフェ・デル・エスパーニャ』はそんな食通の彼のお眼鏡に適った珍しく良い店だった。
「ヒントは、和風」
「和風? 醤油とか? 味噌じゃないでしょう?」
「そんな一般的なものじゃないよ。正解は……昆布茶」
たっぷり溜めに溜めて、彼はいたずらっ子のように笑う。その表情が、一瞬で固まった。
テーブルの下で、私が足を絡めたのだ。
私は精一杯の非難を込めて、彼の目を見つめる。少し上目遣いに、訴えるような目で。
レストランや料理に対する興味や関心は嫌いじゃない。料理人の意図や工夫をなぞなぞを出された子どものようにはしゃぎながら解く姿を見ているのは、微笑ましいぐらい。でもせっかく久しぶりに二人きりで食事をしている時ぐらい、私に集中して欲しかった。昨日の空白を埋めるべく、一生懸命であって欲しかった。
「こら、やめなさい」
店員さんを横目に伺いながら、低い声で彼が言う。
「昆布茶はびっくりだけど、今日はご飯食べただけで解散するの?」
じっと見つめる私の視線に、ようやく彼は意図を汲んでくれたようだ。
「じゃあ、さっさとデザートも頼んじゃおうか」
彼が合図をすると、店員さんが本日のデザートを書いた小さな黒板を手に近づいて来た。
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