見えない足音




 突如として、慧の部屋に現れた女性の幽霊。



 改めて幽霊と対面する慧。


 彼女の髪からはぽたぽたと水がしたたり落ちる音だけが、部屋に響いている。



 しかし床は一切濡れていない。



 彼女と過ごす時間の流れがまるで違うよう。



 彼女には、足が無かった。



 空中に浮かぶその身体。足の代わりに夜の霧のような影が、揺らめいていた。



「あの、どうしてここに……?」



 いつからここにいたのか、彼女は何者なのか、なぜ幽霊なのか。



 しかし、

「……」



 彼女は何も答えず泣いたままだ。



 彼女自身、自分が泣いていることにさえ気が付いていないようだった。



 ひたすら涙が頬を伝って流れていく。



 目つきはうつろで、目の前にいる慧を見てはいないようだ。



 まるで彼女の時間が止まっているよう。



 このままでは彼女がどうしたいのか、慧にはできることがなにもない。



 あるとすれば、

「はぁ……」



 慧の明日の予定が決まった。



(俺に……できることはないのかもしれない。でもほってはおけない)



「旅館に行こう」




***



 次の日、慧は旅館を訪れた。



 バイト以外でここに来ることは初めてだから、どこかいつもとは心持ちが異なりドキドキした。



 慧の後ろには泣いたままの彼女がしっかりと憑いてきている。



 昨晩から彼女の姿を確認して以降、彼女の姿は見えっぱなしである。



 朝ごはんをリビングで食べている時も、洗面所で顔を洗っている時も、彼女は慧の背後で泣いていた。



(良かった、部屋で恥ずかしいことしなくて……)



「女将さん、すみません」



 慧が声をかけると、女将は微笑んだものの、背後の幽霊を見ると目を丸くした。



「おやまぁ、どうしたの?」



「実は……」



 慧は自分が見たものをできるだけ詳しく伝えた。



「〜……というわけでして」



「なるほど」



 女将はウンウンと頷いた。



「話かけても反応が無くて……ここなら何かわかるかと思って」



「確かに、このままだとお話をすることは難しそうだね」



「幽霊といっても、ケイコさんとかお盆の幽霊しか見たことなかったからびっくりしました」



「彼女、足がないんだね……」



「はい、まさに聞いていたとおりの幽霊というか……」



「足のない幽霊は、訳ありな事情を抱えていることが多いの」



 訳ありな事情、それは彼女が泣いていることと関係があるのだろうか……。



「まずはウチで少し休んでもらいましょう。部屋もあるし、こっちの時間の流れにい

れば変化があるだろうし」



 女将は慧と彼女の間に立つと片手で何かを握るような、仕草をした。



「これで彼女と慧君は別々に動けるからね。慧君は帰る?」



「いえ、もう少し様子を見ていたいです」



「そう、なら一緒に食堂へ行ってご飯でも食べて行って」



 そこにケイコもやってきた。



「あれ、慧君。今日は遊びに来たの?」



 微笑みながらケイコは言う。



 幽霊の二人、実に対照的な雰囲気である。



「皆でご飯でも食べておいで」



 女将に促されて食堂へ向かい一つのテーブルを三人で囲んだ。



 カゲロウに事情を話すと、すぐに昼食を用意してもらえることになった。



「……」



 泣いたままの彼女がいて、世間知らずな話などできるはずもなく、慧はただ黙っていた。



「初めまして」



 ケイコは果敢にも幽霊の彼女に話しかけている。



「私も幽霊なんです!」



 そう微笑みかけながらケイコは彼女の濡れた体を優しくタオルで拭いている。



 よく洗濯された白いフワフワのタオル。



 慧がやろうとも思わなかったこと、ケイコが目の前で実践している。



 彼女の体からは絶えず水滴が滴っており、タオルの効果は見られない。



 しかし、それが問題ではない。



(俺は、ただ困って彼女を旅館に連れてきただけだった。話せないなら無理だと、どこかで諦めていた……)



 ケイコはそんな彼女に何かを伝えるように拭いている。



(俺もできるかな)



 宿泊客が見ているとか、関係ない。



 とにかくできることをやるのだ。



 目の前で行われているケイコの優しさから慧は感じた。



 すると、カゲロウがお盆を持ってこちらへ歩いてくる。



「これは……おにぎり!」



 おにぎりが二つと、豚汁だった。



 おにぎりは梅干しと鰹節を混ぜ込んだものと、シラスとゴマと刻んだ大葉を混ぜ込んだ丸いおにぎりだった。



「いただきます」



 お腹が空いていた。



 慧はおにぎりを頬張る。



 優しい味が、口の中いっぱいに広がる。



 その前で彼女は無言で昼食の方を見ている、ように見える。



 その時、

「?」



 彼女の目、涙を流したままではあるモノの、瞳の奥にかすかに光が灯ったように見えた。



 彼女の黒目がかすかに動き、少しずつ頭が上がっていく。



 はっきりと、



 初めて、彼女と目が合った。



 流れる涙の、その奥に、わずかに「今」が宿ったように思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る