1.6


 和田楽器店の外は、春風が優しく吹いている。俺は顔にかかる前髪を手でよけた。


 後ろから追いかけてくるユージが、何やら騒がしい。


 春風が、全部どこかに吹き飛ばしてくれればいいのに。


「ちょっと、ハル! 和田の爺ちゃんに調律、頼んでどうするんだよ?!」


「どうって、いつもどおり来てもらったら事なきを得るし、断っても面倒だろ。そんなに変なことか?」


 ユージは一拍置いて「そうか。そうだよね」と、いつもの笑顔を見せた。


 俺はスマホを取り出し時間を確認した。まだ、14時か。時間が長く感じる。


「ユージ、悪いんだけど。俺、帰るわ」


「――――そっか。じゃぁ、ハル? また明日、学校で集合だな!」


 俺は手のひらをひらりとさせ、ユージを残して駅に向かった。


 

 駅から乗り込んでくる人々から、どこか着慣れない服、車窓の慣れない景色、降車駅をいまか、いまかと待っている焦燥感のよう雰囲気が漂っていた。

 住宅街の隙間を埋めるかのように咲いている満開の桜が、次から次に流れていく景色をいつまでも眺めて、どうにも落ち着かない気持ちを誤魔化そうとした。



 玄関で「ただいま」と小さく呟き、俺は、鞄も降ろさず、ピアノ部屋に向かう。

 だって、和田の爺さんが調律に来た時に、怪しまれたら敵わんし。


 長い間、閉じていた部屋の扉を開け、中に入ると、埃っぽくなった厚いカーテンの隙間から光が差し込んでいた。


 ひとり眠っているグランドピアノには、うっすらと埃が被っていて、カーテンから差し込んでいる光が反射しているせいか、黒く艶っぽい見た目は、4ヶ月前より白んでいた。


 少し迷ったものの、グランドピアノの蓋を開け、鍵盤を押す。


 グランドピアノは、ふわついて歪んだ弦から、弛み切った音が部屋に響いた。



 春は、人も、草木も、ピアノさえも弛んで狂わせる。

 やっぱり、春が苦手だ。

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