『暢気眼鏡』 尾崎一雄 1937年上半期 第5回
文学に於いて、型破りな実験を行うのは筆者だけではない。
これまでの受賞作は作品名を一般的な鈎括弧で囲っていたのに、『暢気眼鏡』だけが二重鉤括弧となっているのは誤植ではない。これまでの作品は文芸雑誌に掲載された中短編が選考の対象となっていた。そして、現在でもこれが踏襲されている。しかし、『暢気眼鏡』は一冊の短編集として出版された書物であり、単行本が受賞するのはこの回が初であり、唯一である。
『暢気眼鏡』には9編の短編が収録されている。表題作の「暢気眼鏡」のほかに、「猫」「芳兵衛」「ヒョトコ」「世話やき」「擬態」「燈火管制」「父祖の地」「五年」の9編だ。いずれも、作者の貧乏生活から素材を得たであろう、日常のたわいない様子を描いている私小説だ。居酒屋に出会ったほかの客に「ヒョトコ」と言われて口論になったり、なんの前触れもなく祖父母のことを思い出してみたり、大きな事件が起こることもなく卑近なことがユーモラスに綴られている。このようなユーモアある感性は、尾崎一雄が好きな作家として挙げている志賀直哉のそれに通じている。
なかでも飛び切り個性を放っているのが、「私」の妻である芳枝だ。猫が子供を食べてしまいそうだとか、台所にある天窓の網が首縊りの縄みたいだから怖いと突拍子もなく言ってくるのだから、きっと「わたし」も愉快な毎日を過ごしているのであろう。
こうした「下らない」日常をあえて素材にし、叙情的な筆致で纏めてくる作家は、日本文学の世界ではよくいるものだが、海外まで視野を広げてみると、案外稀少である。もしかしたら、この感性は清少納言の『枕草子』をはじめとする日本文学固有のものなのかもしれない。尾崎一雄は『暢気眼鏡』で芥川賞を受賞した後も「日本的」な私小説を書き続け、その優れた感性から評価を得ている。
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