桑乃瑞希 ④
-7月16日 PM 3:30-
なぜ瑞希の家に、上海で遭遇したヒットマンがいるのか。
赤いポンチョの女子は短い髪を片手で掻き上げ、気だるげに足首を回す。
「
「あ?」
「名前だ。上海で一緒にいたやつからはそう聞いた」
「好きに呼んだらいい。名前はない」
「名前がない?」
「羽子ってのは、オレ達一党の呼び名さ。一人ひとりに名前はない。だから大抵、仕事先でも羽子と呼ばれる。団長も瑞希も、オレをそう呼ぶしな」
団長というのが誰を指すのかわからなかった。
羽子の一党を率いるリーダーのことか。だが、だとしたら団長より党首とか頭領の方がしっくりくる気がする。
それよりも。
「瑞希を知ってるのか」
「そいつの護衛がオレの仕事でね」
「護衛だと」
「家から出さず誰にも会わせるなと言われてる」
赤ポンチョの女、羽子は平然と言う。
そんなの、軟禁しているのと変わらないじゃないか。
誰がそんな命令を出しているのかは、訊くまでもない。
大吉は俯き、怒りで戦慄く腕を抑えた。
「俺は瑞希に会いに来たんだ」
顔を上げ、決然と言った。
羽子が、目の前から消えていた。
「そうか。ならオレの出番だな」
声は背後だった。
大吉の首に白い腕が絡みつく。振りほどこうとしたときには、羽子の脚で胴が挟まれていた。
この一瞬で背後を取られ、絞め技を完璧にきめられた。
「ぐ、ぅぅぅ」
呼吸ができない。試合ではない。タップなどするだけ無駄だ。
大吉は羽子の華奢な身体を地面に叩きつけるように背中から倒れ込んだ。首を絞める腕はびくともしない。
「はぁ、変な奴だな、お前」
羽子の湿った吐息。
「てんで素人な動きだ。なのに上海でオレの奇襲を躱した。あれは、まぐれって感じじゃなかったが」
羽子は大吉の耳元で滑らかに喋る。力みは微塵もないのに、その腕は万力のごとく絞まってくる。
「まぁ、どうでもいいか。なんであれ死ねば同じだ」
死。大吉は遠ざかる意識で、じゃあな、と言う羽子の声を聞いた。
◆
-7月16日 PM 6:40-
立派な梁が掛かった天井を見上げていた。
「目が覚めましたか」
穏やかな男の声。
「あんたは?」
肩まで伸びた黒い髪に、青白い肌。和装の寝衣とその上から羽織る肩掛けで身体のラインは隠れているが、線は細そうだ。
採光窓の下の文机で、男は写経をしていたようだ。
「僕は瑞希の兄で、」
男は名前を名乗る。
「君は?」
「新田大吉です。瑞希とは友達で」
「聞いています。済まないことをしました」
瑞希の兄は大吉の方へ向き直り、畳に手を付き深々と頭を下げた。
「ちょ、頭をあげてくれ。あんたに謝られる筋合いはない」
不法侵入したのはこっちだ、という言葉を呑む。
「瑞希を心配して来てくれたんでしょう。優しく、勇気のある行いです」
「よしてください。それよりここは?」
「僕の寝室です。君が殺される寸前、散歩をしていた僕が通りかかりました。止めさせて、ここに運ばせたんです」
瑞希の兄が、憂いを帯びた睫毛を伏せる。
「あんな手合いまで雇うとは。妹は本来僕へ向けるべき憎悪まで、瑞希に向けてしまっているようです」
妹とは、桑乃の長女、瑞希の姉のことだろう。男は、瑞希の兄と言っていた。すると、桑乃の長兄ということになる。
ならば。
「桑乃の当主が倒れたと聞きました。あなたなら、瑞希の姉の暴挙を止められるんじゃないんですか」
大吉は掛け布団を払いのけ、座り直した。
「すみません」
男が悲痛な表情をする。
「なぜ謝るんです」
「僕には妹を止められない。情けないのは重々承知していますが、妹にすべて押し付けてしまった僕には、なにも言う資格はないのです」
「わけがわからない、あんたは瑞希の兄でしょう。兄貴が下のやつを守らないでどうするんです」
大吉は男の肩を掴み食ってかかった。驚いたのは、しかし大吉の方だった。
掴んだ肩が、あまりにも薄い。力を入れたら砕けてしまう、脆いガラス細工のようだ。
男が咳きこみ、大吉は手を離した。
「ごほっ、ごほっ、すみません」
咳がおさまるまで口元に当てていた寝衣の袖に、僅かな血が滲んでいる。
「病気ですか」
「ええ。もうずっと」
妹にすべてを押し付けた。言っていた意味が、ぼんやりとだが理解できた。『mix』で感じた疑問にも、合点がいく。
本来家督を継ぐべき長兄は、長く病の身で伏せっていた。性別が女の弟は、桑乃とは関係ないところで生きることを望んでいる。
真ん中の長女はひとり、桑乃の重責を背負うしかなかった。
「瑞希の姉は、家督を継ぐのを望んだわけじゃないのか」
「彼女は外に出て、自由に生きたかったのでしょう。そうできるはずだった。けれど僕が、彼女のそんな未来を奪ってしまった」
陽衣菜から聞いた話だけでは霞かかっていた部分が晴れてきた。
だが、まだ一つはっきりしないことがある。
知ることを知って、自分がすべきことは決めたかった。
「助けてもらってありがとうございました。瑞希に会いに行きます」
部屋を出ようとした。その袖を、引き留められた。
「それはいけない。瑞希は縁談を受けるつもりです。弟は弟なりに覚悟をしている。君が会うのは、その覚悟を揺るがすことになってしまう」
大吉はぎりっと歯噛みした。
「瑞希がどうしたいかは、本人に聞きます。そのためには会って話さなきゃはじまらない」
「訊いてどうするというのです。羽子の一人にだって敵わなかったのでしょう」
「どうするか決めるために、会いに行くんだ。敵う敵わないは、関係ない」
大吉は袖を振り払って行こうとした。
しかし思いもよらぬ力で、瑞希の兄に引き留められた。
「君はわかっていない。瑞希の縁談相手は、
「瑞希が望むなら」
「望むわけがない。あの子が、友人の死を望むわけが。僕はせめて、あの子にこれ以上辛い思いをさせたくないんです」
大吉は開けかけた障子戸から手を外した。
戸の隙間からは部屋に面した内庭が覗けた。白い障子は、庭に差し込む夕陽でもの寂しい色に染まっていた。
「頼みます新田君。帰ってください」
弟を想う兄の頼み。
「ちっ」
大吉は舌打ちをした。
この兄を強引に撥ね退けることは、同じ兄である大吉にはできなかった。
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