第12話 私は愛されていなかった

「はぁ?ちょっと何よこの靴……こんな時間に誰が来てるのよ!?」


 百合と思われる人物から最初に発せられたのは怒声……玄関に置かれた僕の靴を見ての事とは言え、『ただいま』ですらなかった事に眉を顰める。


 母親が帰ってきた事に気づいた由美ちゃんは勢いよく顔を上げ、母親の元に向かって行った。


「ママ、お帰りなさい!!」


 先程までの暗い雰囲気は消え、明るく振る舞っている。だが、その勢いもすぐに失われる事となる。


「ちょっと由美。いつ私がこんな時間に人を上げていいと言った?ちゃんと説明しなさいよ」 

「ご……ごめんなさい。あのね、新しい大家さんって人が来て……」

「はぁ?新しい大家が何の用なのよ、さっさと帰しなさいよ?」


 彼女は、不機嫌を隠そうともせずに由美ちゃんを責め立てる。

 リビングと廊下を隔てるドアが開いた事で、僕の位置からも、母親の姿が確認出来た。


 ベージュブラウンのショートボブ、薄くメイクされた顔立ちは、遠くから見ても整っているのが分かる。由美ちゃんよりも背が低いので、女性としてみてもかなり小柄である。

 この人から、先程の怒声が発せられていた事実に耳を疑った。


 急いで立ち上がり、萎縮して小さくなっている由美ちゃんの元へ駆け寄った。


「遅い時間まで居座ってしまって、すみません。初めまして三条さん、新しい大家の高槻です」

「…………で?」


 彼女は短く言葉を発すると共に僕を睨みつけてくる。挨拶は必要ないからさっさと用件を言えという事なのだろう。

 不愉快ではあるものの、名前は賃貸借契約書でも確認しているので聞かなくても分かっている。


「今日はお支払いが滞っている家賃について、お話をしに来ました」

「家賃の滞納?身に覚えありませんけど」


 そう言って不敵な笑みを浮かべている。僕を嘲笑うかの様な態度に戸惑いを覚える。強がりで言っている様に見えないからだ。


「これ以上滞納が続くなら、出て行ってもらいます。既に半年滞納が続いている事は貴女も理解されてますよね?」

「半年……ああ、そういう事。言っておくけど、私は滞納なんてしてないわ。前の大家から何も聞かされなかったのかしら?それとも自分から言い出せなかったのかしら?駆け引きとかめんどくさいから、率直に聞くわね。アイツと同じ支払いでいいのよね?」

「どういう事です?」


 百合は、質問に答えずそうクスリと笑う。

 同じ事?彼女の言っている意味が理解出来ないでいると、僕に近づき耳元で囁いた。

 

「本当は聞いているんでしょ?家賃の代わり毎月1回ちゃんと気持ち良くしてあげるから、それでいいでしょう?」

「…………っ!?」


 何を言っているんだ……?このアパートの前の大家は愛妻家だ。僕との付き合いも既に5年を超える。

 彼が奥さんに内緒でそんな事をしていたなんて信じられなかった。


「どうせモテないんでしょ?安売りするみたいで嫌なんだけど……アナタ若いし、足りない様なら毎月2回に増やしてあげるからそれでいいでしょ?」

「…………」


 彼女の言っている事は本当なのか?


 彼は僕が会社を辞める事を知っていた。このアパートと戸建てを一緒に買う前提ではあったが、それにしてもこのアパートの価格は僕から見ても安いと思った。だが、それだって不自然じゃない。きちんと理由だって説明できる。


 不動産は同じものがこの世に一つとしてない。その事が、買い替えを検討するお客様の心理に影響を及ぼす場合がある。


 気に入った住み替え先が見つかった時、その物件を誰かに取られたくないという焦りが生まれる。

 その焦りが、所有不動産を市場価格より安く売るいう行動を売主に取らせるのだ。

 買い替えのお客様の中に、不動産買取を利用する理由の一つでもある。


 だが、もしも前の大家である彼が、この女性との関係を断つ目的で僕に売ったとしたならば……その可能性も否定出来ないと思ってしまった。


 だが今はこれ以上考えるのは止めておこう。話したい事はこれだけではないのだから……。


「悪いが僕は彼とは違う。家賃が払えないなら出て行ってもらう」

「半年分については払わないわよ」

「それについては不問にする。来月から払ってくれたらそれでいい」


 半年分をチャラにする事で、百合は渋々ではあるものの応じてくれた。

 問題はここからだ……。


「もう用は済んだでしょ。お風呂して寝たいから早く帰ってちょうだい」

「いや、まだ用件はある。それよりも、時枝さんと由美ちゃんのご飯は?」


 それを言った瞬間、彼女から改めて敵意を向けられる。


「どういう事?なんで私が買ってこないといけないのよ。そんなのあるわけないじゃない」

「2人とも碌に食事を摂ってないのは明白だ。それでも君は親なのか?」

「なんで他人のアンタにそこまで言われないといけない訳?2人がアンタに助けでも求めたの?」

「いや、そうじゃない。でも虐待されていると知ってしまったら見逃す事は出来ない」

「言葉には気をつけなさい。虐待なんてしてないわ」


 虐待している親が否定する場合、子供と引き離されるのを恐れ嘘をつくという行動を取る事がある。

 だが、これは無責任に言い逃れしているだけだと直ぐに分かる。

 

 何故なら由美ちゃんに向けられる視線がゾッとするほど冷たいものだったからだ。


「それが証拠に、まだ生きているじゃない」

「……っ!?君はそれでも親なのか!?」

「親よ、戸籍もそうなってるわ。だいたいお金がないなら自分で稼げばいいだけでしょ?」

「彼女が学校に行きながら、バイトをしているのを知らないのか?」

「そんなのアンタに言われなくても知ってるわよ。そもそも働けばいいじゃない。学校に行きたいと言い出したのはあの子だから、私には関係ないわ」


 言葉が出なかった、自分のお腹を痛めて産んだ子供に対してここまで無責任な発言が出来るのは何故だ?

 百合の様子からして、由美ちゃんを理由に説得をする事は難しいと判断せざるを得なかった。


「それならば、せめて時枝さんの年金は返してあげれないか?」

「そこまで聞いてるの?相変わらず口が軽いのね……」

「どういう事だ?」

「自分に都合の良い所しか話さないのは相変わらずね。この女だって私を守ってくれなかった。私がどんな人生を歩いて来たか聞いてる?」

「いや、何も聞いてない……」

「でしょうね。もしも聞いてたら、その女の肩を持つなんて出来っこないわ」


 どうやら僕が聞かされていない事実があるらしい……。


「アンタにいちいち事情を説明する理由はないけど、どうせ納得しないんでしょ?これ以上首を突っ込んで欲しくないから言うけど……この女のせいで私の人生は滅茶苦茶になった」


 彼女は悲痛な面持ちで己の過去を語り始めた。


 百合もまた由美と同じように片親の家庭で育った。

 時枝さんは、旦那とうまくいかずに離婚。いわゆる温室育ちだった為、離婚後は親の庇護を受けて生活していた。その後は、子育てを理由に碌に仕事もせずに百合を育てていたらしい。


 百合が中学生の頃、実家の事業が失敗して倒産。この頃、時枝さんはもう40代中頃になっていた。

 碌に社会人経験のない人がその歳で社会に放り出されて成功する事はほぼ不可能だ。


 しっかりとした定職に就く事も出来ず、仕事を転々とした。得られる収入も僅かで、高校に行く事は叶わなかった。

 昔は今よりも学歴社会だった事もあり、百合も就職には苦労した。

 お金に執着を持つ百合が選んだのは、年齢を偽り雇用してもらえた夜のお店だった。


 そこで出会ったお客さんに見初められて付き合う事となる。その後に妊娠が発覚。その時に出来た子供こそが由美だった。


 しかし、ここでまさかの事態が起こる。結婚すると信じて疑わなかった百合は相手から堕胎を要求されたのだ。その男には既に婚約者が居た。


 相手の女性に子供が居ない事を知った彼女は、一度彼の前から姿を消す。

 由美を堕胎出来ない時期までやり過ごし、子供を盾に一縷の望みにかけたのだ。


 だが、その努力も報われる事はなく、由美も結局相手の男性に認知してもらう事は叶わなかった。

 


「お金がないなら身体でも何でも売って稼げばいいのよ。アンタからしたら親が言うなんて異常だと思うでしょうね。でも私はそうやって生きてきた。分かったでしょ?私はこの2人に対して家族としての愛なんて持ってない事が。もう放っておいてちょうだい……」


 話を聞いて僕は何も言えなくなってしまった。百合がやっている事は到底許されるべきでない。

 かと言って、何をするでもない僕に彼女を責める資格があるのだろうか?

 時枝さんに任せる選択肢も視野に入れていたがおそらく難しいだろう。


 やっぱり他人の家庭の事情に安易に足を突っ込むべきではないと思った。


 「私は愛されていなかったんだ……」


 そう呟く由美ちゃんの瞳から一筋の涙が流れる。

 その姿を見て、僕は密かに決意を固めるのだった……。

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