第6話 『密教の集い』

 それは、『新:密教真理原理研究』(上巻・下巻)と、書いてあった。随分、古そうな本だ。大正時代に発行されたものだと言う。



 少し、中を開いて読んでみると、



「これは、かって一部の熱狂的信者を集めた、真言密教立川流の、生い立ちから衰退までを追った、私の生涯をかけた研究の、総集編である」



 と、至って、学術的な本のように思えた。



「ところで、橘さん。貴方の奥さんが入っておられた新興宗教『密教の集い』は、この真言密教立川流の流れを組む、宗教だったのですよ」



「えっ、ホントなんですか?あの、真言密教立川流とは、確か、髑髏を本尊とする邪宗だったと聞いていますが……」



「その通りです。ただ、この本自体は、あくまで、学術研究の一環であり、著書の酒井達三博士は、戦前でもありながら、発禁処分にもあっていません。極、真面目な研究論文なのです。



 この本にも書いてありますが、真言密教立川流とは鎌倉期、醍醐派三宝院流の仁寛という僧侶が、伊豆で武蔵国・立川の陰陽師・見連(または兼蓮)と出会って生まれたものと言われています。



 内容は日本も含めた民俗宗教によくある「性信仰」の陰陽理論で、これを真言宗の大日如来との合一(即身成仏)の境地と、結合させたものです。



 すなわち男女の性行為が悟りを生むという考え方です。しかしオドロオドロしい点は、卑猥な儀式を経て魔神・荼吉尼天を宿した髑髏本尊を使う事には違いがありません。仁寛は自殺しますが、その陰陽師によって真言密教立川流は広まったのです」






「ですので、もしかしたらですが、貴方の奥さんは、極小さい時に、そのような行為を、新興宗教『密教の集い』での会場で、小さい時に見たのかも知れません。それが、彼女の潜在意識に深く残っているとしたら、どうでしょうか?


 私を、強烈に誘惑した理由も、これで、ご理解できませんか?」



「いや、私は、ニーチェ哲学の信仰者で、神も仏も信じていません。その新興宗教『密教の集い』とは、一体、誰が教祖なのですか?その本の著者、酒井達三博士が、教祖何ですか?」



「いや、この新興宗教『密教の集い』の教祖は、長崎の原爆を奇跡的に逃れた宗教学者の原口一郎と言う人物です。



 原口一郎は、長崎の惨状を垣間見て、


「これは地獄だ、悪魔の仕業だ。悪魔には、悪魔を持って対抗するしかない」と、決意し、丁度、自分の本棚に燃えずに残っていた、『新:密教真理原理研究』(上巻・下巻)に目を付け、ほぼ、秘密結社にも近いような状態で、『密教の集い』を創設したのです。



「原口教祖の偉い所は、普通の新興宗教のような高額な献金も求めず、また入信するのも、同じ信者からの推薦が無いと入れ無いようにしたのです。


 この、金儲け主義に走らず、しかも、髑髏や悪魔に魂を売る事によって、その交換として現世利益を受けると言う宗教理論は、じわりじわりと信者を伸ばして行きました」



「ここまでが、まず、橘さんへの最初の質問への回答なのです」



「うーん、とても信じられません。あのヤッチャンに、そんな深い心の闇があろうとは?」



「一度、橘さん自身でも、『密教の集い』を調べてみられれば、実態が分かると思います。多分、相当の衝撃を受けると思いますが……」



 随分融けた氷を見て、村西弁護士は、冷蔵庫の製氷機から、新しい氷を追加して持ってきた、



 で、ブランデーに氷を追加して、村西弁護士は、更に、衝撃的な事を言い始めたのだ。



「では、次なる質問への回答を、ここでしましょう……」



「私が、橘さんの隣に引っ越しして来た、根本的な理由です。



 それは、今から一年ほど前の事です。ある女性から、私の弁護士事務所に、一本の電話がかかって来ました。



 多分、ボイス・チェンジャーで、声を変えているのは、即、理解できたのですが、


「悪魔・髑髏がやって来る!!!」と言う、悲痛な電話です。



「安子さんですか?」と、聞きましたが返事は全く、ありません。



 ここで、問題なのは、以前は、安子さんは、


「この私に、悪魔:髑髏が降りて来た!!!」



 と、そう、言ったのですが、今回は、


「悪魔・髑髏がやって来る!!!」と言ったのです。


 この違いは、非常に大きいのです。



 ここで、私は、なるべく近いうちに助けに行きます。で、この私を見かけたら、毛嫌いして下さい。そうやって、どこかの狂気の人間から、この私に、目を向けさせて下さい、と、そう助言しました。



 で、私は、元の彼女の住所等を調べ、遂に、橘さん宅へと辿り着いたのです。


 既に、金沢市にマンションを買って住んでいましたが、これを売り払い、丁度、橘さん宅の隣のこの家を買う事にしたのです。



 多分、その内に、きっと訪れるであろう、狂気の事件に備えてね。


 だから、私は、事件を未然に防ぐつもりで来たものの、全てが、遅かったのです」



「うーん、あまりに話が上手すぎるような気がしますが……」


「しかし、少なくとも橘さんの疑問の一つ、『ロンギヌスの槍』の謎は、全て解けたでしょう。



 で、ポケットに入っている、デジタル・ボイス・レコーダーを出して、全て、消去して下さい。


 私は、現在、知っている全てを話をしたのです」



「どうして、ボイス・レコーダーがあると、分かったのです?」



「橘さんぐらいの頭なら、それぐらいは用意されているでしょう……。あと、スマホの録音も、同時に消して下さいね」



 ここまで、見通しだと隠し通せるものでは無い。最新式のデジタル・ボイス・レコーダーと、スマホの録音を、村西透弁護士の前で、全て、消去した。


 紳士協定の実行だ。



「しかし、そこまで、詳しい知識があるのなら、真犯人まで分かっておられるのでは?」



 だが、村西透弁護士は、


「今の段階では、難しいです。更なる、調査が必要でしょうねえ」



「警察は、あてになりませんか?」



「『密教の集い』をとことん、調べれば、あるいは辿りつけるかも知れませんがねえ」



 確かに、ここで、私は、長年の疑問だった『ロンギヌスの槍』の謎は全て解けた。



 しかし、私の家族・家庭を滅茶苦茶にした真犯人は、結局、分からずじまいである。



 その日、夕方、私は、妻に、再度、村西透弁護士について聞いてみた。


 だが、妻の言い方は、前と変わらずに、決して村西透弁護士を良く言わなかったのだ。


 どうにも、先ほどの、村西透との会話とは、全く噛み合わない。



 百歩譲って、『ロンギヌスの槍』の話は、事実だとしても、私の家族への事件に、もしかしたら、何らかの方法で関与しているのでは無いのだろうか?



 自分自身に絶対のアリバイがあると言うが、ここに、村西透の言う事を聞いてくれる誰かがいれば、犯行は不可能では無い。


 教唆犯としての、可能性はまだ残っている。


 勿論、裁判員制度のある現代、児童2人を殺害する程の事件を実行してくれる人間はまずいない筈なのだが……。



 しかし、遺体が無いため極小さな家族葬を行って、その49日が過ぎ、子供らの思い出の遺品を整理していたら、妻が結婚した時に持って来た、書類入れの中から、ある書類を発見した事から、事件の闇が見えて来たのだ。



 それは、随分前の頃の書類であったのだ。


 家事調停調書、言い換えれば、離婚調停に関する書類の写しであって、何と、母親側が申立人となっており、申立人の代理人弁護士こそ、村西透弁護士本人であったのである。



 ここに、初めて、村西透弁護士と、妻の家族との関係が、書類の写しが出て来たのである。離婚調停の理由として、「宗教の違い」(夫が、変な宗教にのめり込んでおり、精神的に付いて行けない)が大きく、これ以上は、同居できないと記載してあった。



 そこには、家庭裁判所の裁判官が作成した「調停調書」も添付してあって、子供2人の親権は相手方(夫側)が持つ。申立人(母側)は財産分与として、300万円の一時金を払う等、色々と書いてあったのだが、私が、特に注目したのは、この離婚した母親の旧姓(戸籍謄本)と、現在、住んでいるアパートの住所が記載してあった事だ。



 無論、私の妻、ヤッチャンが、父子家庭だとは聞いてはいたが、このように、「調停書類」の写しが出て来た事により、この私自身が、自由に調査できるようになったのだ。



 子供の葬儀の時に、妻の父親にも会っていたが、この母親の話は、全く聞けなかったから、このような貴重な書類の写しが出て来たのは、起死回生の一手だったのである。



 次の土曜日、カーナビとグーグル・マップを駆使して、そのアパートへ向かった。


 ここで、妻の母親に会える事ができれば、今まで以上に、詳しい話が聞けるかもしれないのである。



 私は、ようやく、木造2階建てのアパートに辿りついた。



 玄関のドアホンを押して、20年以上も前に分かれた妻の母親に会った。



 しかし、そこで、私が見た母親の姿とは、決して、好ましい人間の姿では無かったのである。正に、精神障害者特有の暗い暗い目付きをしていたのだった。



 しかし、ここで、引き下がる訳にもいかないので、自ら名乗って、話を聞こうとしたのだが、どうにも、話が合わないのである。


 人格障害か?


 そうとっさに思った程だった。



 部屋の中もぐちゃぐちゃで、生ものの腐った匂いがする。……これでは、まるで生活保護者の家ような感じである。私は、福祉関係の仕事を長くしており、生活保護担当者と一緒に、実地調査に付いていった事も結構あったのである。



 ここで、私は、精一杯の演技をした。


 丁度、高そうなお菓子を持っていたので、


「これを、村西透弁護士本人から、渡してくれと言われて、持ってきたのです」



 と、こう言った時である、


「ああ、村西先生の知り合い方でしたか?


 先生から、見知らぬ人が来たら、キチガイの真似をして、応対しなさいと言われてましたので……」



「な、何だって」と、私は、腰を抜かしかけた。


「先生は、いつも会うたびに私にそう言ってました。


 何しろ、あんな大事件を起こしたのですから、キチガイの真似をしていれば、心身ナントカと言って、重い罪に無らないと言ってました。何しろ、実の孫2人をあんな目に遭わしているんですからねえ」



「撮れた!!!」ここに、究極の証拠の音声が撮れたのであった。この前買った最高級の、デジタル・ボイス・レコーダーが、遂に、役だったのである。



 私は、石川県警本部の捜査一課に向けて、車を、飛ばした。……ちなみに、妻の母親は、確かに精神病院に通院していたものの、車の運転は楽勝だったのである。






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