睡眠学習

 窓側の最後尾は、三十に少し足りない席の中で一番人気の場所だ。みんながその席を狙っている。わたしも「どこでも好きな席を選んでいいよ」と言われたら十回の内八から九回はその席を選ぶ自信がある。十中八九というやつだ。とはいえ、それも十回も言われると知っていたのなら、という仮定の話であって実際に言われたら絶対に窓側の一番後ろの席が良いと答える自信がある。百発百中。少し違うけどそんな感じだ。けれど、それがどうしてかと問われると答えに詰まってしまう。別に窓側の最後尾だからといって、授業をサボっていたりしたら先生に怒られない訳じゃあない。国語の時間の音読も算数の時間の回答も、席順通りに回ってくる。今日もまた、わたしの斜め前の席に座っているトキトくんが当てられた。トキトくんからわたしの間には六人いる。これだけ人が居るとわたしが当てられる番が来るまで時間があるように感じられるけど、実際のところ、あっという間に残り二人とかになってしまう。そんなときに「六月なのに季節外れの雪が降ってニュースになって、テレビにインタビューなんてされないかなぁ」なんて空想をしてしまうのはとてもよくない。特に、手袋もせずに雪遊びに夢中になってかじかんだトキトくんの指をわたしの手で包んで温めてあげる妄想なんてしていては――それでは月見里やまなしさん。次の問題を解いてください――ほら、先生から指名されてしまった。わたしは思わず「へ?」と声を上げてしまう。先生の授業の声や教室のみんなが鉛筆を走らせたり消しゴムを掛けたり、座り直したりする雑音さえも、耳には入っても頭にまでは届いていなかったのだ。ただ不思議なもので、そんな状態であっても名前を呼ばれてしまえば現実に引き戻される。とはいえ引き戻されてもわからないものはわからないのだけれど。先生に「どうしました」と再度問われてわたしは教科書を見つめた。頭上から「問八ですよ?」と声が飛んでくるけれど、違うんです先生。いえ、確かにどの問題を答えればいいのかもわかりませんでした。でもそれだけじゃあないんです。わたしはもう一度教科書の「3/4÷3/7」を見つめたあと、顔を上げて首を左右に振った。先生は「わかりませんか?」と口をへの字に曲げていたけれど、口をへの字にしたいのはわたしの方だった。たぶん「口をへの字に曲げたい人選手権」に出れば県大会で優勝するくらい今のわたしは口をへの字に曲げたかった。確かに、分数同士の割り算をどうやって計算すればいいのかなんて、昨日か一昨日の授業で言っていたような気はする。するけれど。まるで記憶にない。そもそも「分数で分数を割る」というのはどういうことなのか、わたしには全く理解ができないのだ。「四個に分けたものが三つある」ものを「七個に分けたものが三つある」もので分ける。そんな奇々怪々なプロセスを十一年とちょっとしか生きてないわたしたち小学生に解き明かせるわけがない。そうだ。解き方を授業でやっているときもわたしは今と同じことを考えていて、その間に授業が進んでしまい、わからないまま算数の時間が終わったんだった。なるほど。わたしがこの問題を解けないのも無理はない。納得して頷くと、先生は「ほっ。わかりましたか。それでは解いてみてください」と言い出した。先生がなにを言っているのかよくわからないので首を傾げると「先生の話をちゃんと聞いていましたか?」と尋ねられた。別の先生だけど二年生のときにも同じ質問をされたことがある。そのとき正直に「聞いていませんでした」と答えたら怒られて放課後に居残りをさせられたことがある。わたしにも学習能力はあるので、それ以来この質問にはイエスと答えるようにしていた。もちろん今回も頷く。すると先生は肩を落として辛そうな表情になってしまう。お腹でも痛いのだろうかと心配していると、とたん、トキトくんが右手を上げて「クウにはオレが家で教えとくから、次に進んでよ」と先生に提案した。トキトくんは立っているとわたしより頭一つ分背の高いけれど椅子に座っているときは頭半分くらいの差になる。そして手を上げるときは、トキトくんは肘を曲げて手を上げるのでわたしがピンと手を伸ばしたら同じ高さになったりする。なんか嬉しいなと考えていたら先生はどうしてか、渋々といった様子で「よろしく頼みます月見里くん」と軽く頭を下げて黒板に向き直った。よくわからいけど家に帰ったらトキトくんがわたしに何かを教えてくれるらしい。楽しみだな。四時間目の授業がプールで給食がカレーの日の朝くらい楽しみだ。それはそうとやっぱり季節外れの雪が降ったりしないかな。そう思って窓越しに空を見てみると灰色に覆われていて白色の小さなものが降り始めた。雪だ。雪はだんだんと強くなっていってついにはわたしたちの教室のある四階の窓のすぐ下まで積もってしまった。街中が真っ白なベッドだ、わあい。ちょっと積もり過ぎな気もするけど間違いなくテレビ局から人が来る。そう思うとこらえられず、わたしは窓から外に飛び出した――起きろよクウ――トキトくんの声がして辺りを見回すと、いつの間にかわたしとトキトくん、二人の部屋にわたしは居た。部屋の真ん中のテーブルを挟んで向こう側に真っ黒な瞳をこちらに向けているトキトくんが居て、その奥にわたしたちの枕の並んだベッドが見える。あれ、雪が積もっていたのに。窓の向こうを眺めても、布団の干してあるベランダと、青い空に白い雲が見えるだけ。わたしたちの家は二階建てだから、学校の四階くらいまで雪が積もっていたら埋まってしまって外なんて見えはしないはずだ。だとしたらさっきの大雪は夢だったのかな。トキトくんに尋ねてみるとトキトくんは大きなため息を吐いて「人が分数の割り算教えてやるってのに、教科書開いたとたん居眠りしたと思ったら随分お気楽な夢見てるなぁ、おい?」とまるでわたしに文句でもあるかのように言ってきた。どうしよう。トキトくんお説教長いんだよねぇ。キリンの首くらい長い。あんまりにも長くて眠たくなっちゃうけど、途中で寝ちゃうともっと長引くんだよなぁ、もう。あーあ、お説教始まっちゃった。どうしよ。あ。そうだ。いいこと思いついた。わたしは服を脱いでパジャマに着替え、トキトくんをベッドの方に引っ張って誘惑した。

「一緒にお昼寝しよ、トキトくんおにいちゃん?」

 いくらお説教中とはいえお昼寝の誘惑に耐えられる人類など居まい。我ながら完璧な思いつきだ。天才は一パーセント閃きと九十九パーセントの才能とあっかんべーの人も言っていたし、わたし、天才かもしれない。トキトくんをさぁさぁと引っ張るとトキトくんは黒い短髪の頭を押さえだした。頭が痛いのかもしれない。それならなおのことお昼寝するべきだ。トキトくんは、わたしとトキトくんが双子の兄妹なのは自明の理なのにも関わらず「オレと双子だとは思えない」というよくわからないことを今日も呟きながらベッドに来てくれた。わあい。お昼寝自体とても気持ちよくて好きだけど、トキトくんと一緒にするのは一人でするより何倍も気持ちよくて大好きだ。思わずニコニコしてしまいながら、わたしはトキトくんにおやすみのちゅーをして枕に頭を預けた。トキトくんの腕の中で目を覚ますと一時間くらい経っていて「ブンスウドウシノワリザンハワルホウノギャクスウヲカケル」という謎の呪文が頭から離れなかった。



〈睡眠学習・終〉


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短短編集 陸離なぎ @nagi_rkr

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