海の中の話
『情報提供ありがとう、アカリちゃん。確認なんだけどこれって実話なんだよね?』
そんな先輩からのメッセージに返信しようとしたその時、腹部に軽い衝撃が走った。
ぽこんと、内側から。
「お、蹴った?蹴った蹴った!」
ソファに座るあたしのお腹に頬を寄せていた夫が、弾んだ声音で下腹部を撫でる。
「早く出てきたいんだよな。でももう少し待ってて。パパもママも早く会いたいからね」
そんなことを言う夫は存外、子煩悩ないいパパになりそうで安心している。
あたしは改めて先輩にメッセージを送ることにした。
麗らかな休日の午後。
窓の向こうからは海鳴りが聞こえている。
先輩とは高校の文芸部で知り合った。
一学年上で頭のいい先輩は地元就職組のあたしと違って学年にふたつしかない進学クラスの生徒だった。
部活動でもなければ、学年も進路も違う先輩との接点なんてなかったに違いない。
同じ部活といってもあたしは読む専門で、部誌の編集なんかの雑用をたまにお手伝いする程度だったけれど、先輩は書く専門だった。
引退するまでの三年間で部誌に載せる小説を、短編とは言え何本も書いていた。
シスターフッド系の物語が多めだった中で、唯一タイプの違う物語があったのを今でも覚えている。
『海の中に母が』――そんなタイトルだったと思う。
時代設定は戦中、疎開先の海辺の村まで戦火は伸び、たったひとりの肉親である母を亡くした主人公の女性がどう生きるか。
正直、あたしには難しかった。
戦争と言う言葉が持つ恐ろしさや重みを、脆弱で未熟なあたしの心は受け止めきれなくて、読了することはできなかった。
ううん、出だしで挫折してしまった。
あたしはなんて感想を言ったんだっけ。
それが先輩の引退作となったのだけれど、あたしは先輩は書くことはやめないと思っていたのに。
札幌の有名大学に進学した先輩が入ったサークルは、確かオカルトサークルだったっけ。
ホラー小説は範疇外だったと記憶しているけれど、どんな心境の変化があったのか先輩は実話怪談を蒐集して記事にまとめる担当をしているそうだ。
それを話者が読む様子を学校祭なんかのイベントで披露したり、動画配信したり、そんなサークル活動の延長を社会人になった今でも仲間たちと続けている。
確かに書くこと自体はやめてはいないし、先輩のような書き手を【怪談作家】と呼ぶらしいけれど、先輩には物語を紡ぐ人でいて欲しかったなんて思うのはこちらの身勝手だよね。
そんな先輩に実話怪談の提供を求められたのはいつだっけ。
あたしだけじゃなく先輩は色々な人に声をかけていて、あたしもたまに提供している。
実話怪談がそんなにいくつもあるのかと問われれば、あると答えるしかない。
父親は漁師だし夫も水産加工業に従事しており、出産を機に退職するまではあたしも漁協で働いていた。
そんな感じで海にまつわる仕事をしていれば、関係者から嫌でも色々と耳に入ってくるものだ。
ベタなところだとこう。
いつものように漁に出ていると、突然霧が立ち込め沖に不審な船影が浮かび上がった。かと思うと霧が晴れると同時に消えてしまったとか。
夜間、波間からいくつもの鬼火が上がり夜空を赤く染めたとか。
それから、引き揚げた網に生首がかかっていて仰天しているうちに、それが目の前でかき消えた。その顔は何年も前に遭難して未だ遺体も上がっていない漁師のものだったとか。
そんな話なら子供の頃から、それこそ男衆に武勇伝のように語って聞かせられた。その中には祖父や父もいたっけ。
ちっちゃい頃はただ怖くて嫌だった怪談も、今はありがたく先輩に提供させてもらっている。
「お茶にしよう」
お盆に人数分の湯飲みと急須を載せた母がリビングに顔を見せた。
「お
「ありがと、じゃあお団子持って来て」
立ち上がった夫に替わり母が腰を下ろす。
香ばしい茶葉の匂いが鼻先に広がる。
「あんたも少しは動かないと。運動しないとまた太るよ」
苦笑まじりに母が小言を言う。
分かってはいるけれど、出産準備と称して早々に実家に戻ってからは、どうしても甘えてしまう。
特に、やるべきことをやってしまった今なら尚更だ。
あたしは熱い湯飲みを手に取りながら、窓の向こうに視線を向ける。
そこには母が手入れしている庭が広がっており、色とりどりの花、小さな家庭菜園、それらをぐるりと囲むように外からの目隠し代わりの常緑樹が植えられている。
そんな庭の片隅の日も差さないような薄暗がりに、ぽつんと石が置かれていた。
一抱えほどもある黒い石。
海鳴りが聞こえる。
あれが『ワダさん』と呼ばれるモノだと教えてくれたのは伯母だった。
ワダさんとは、この地域の海神様だ。呼び名は
我家は代々網元で、その時期になれば神社と連携して浜で神事を執り行い、お供え物を載せた小舟を海に奉納する。
そうやって神に祈りを捧げ
御霊とは即ち霊魂のこと。
そう、霊魂を鎮めるのだ。
それこそが海神の正体なのではないかとあたしは勝手に思っている。
うちの庭にあるあのワダさんは、それとは違うモノらしい。
幼い頃に伯母から聞いた不思議な話。
その時は不思議なおまじないだなって、その程度の感想しか持たなくて、具体的な部分なんてすっかり忘れてしまっていたけれど。
あの時伯母は確かに言った。
アカリちゃんが大人になって、この話をうっすらでも覚えていたなら、それはあなたが祈りを必要としている証拠。
忘れてしまったならそれでいい。でもそうじゃなかったら、その時は聞きにおいで。
あたしは確かにソレを必要としていた。
何故ならあたしの従兄がストーカーにつけ狙われていたからだ。
そのせいでひどい怪我も負わされた。命の危険だってあった。
相手は判明している。あたしの幼馴染だ。
幼馴染が従兄のストーカーになってしまった。
この悲しい現実のきっかけを作ったのは他の誰でもないあたしで、だからあたしがなんとかしなくてはいけない。
そしてあたしは実行した。
伯母から教えられた一族に伝わる祈願術を。
芸術方面の才能がある。
それが、幼馴染に対するあたしの評価だ。
小学校入学から高校卒業までずっと一緒だった幼馴染は、とにかく手先が器用で、工作が大得意な子だった。図工の時間はもちろん、夏休みの自由研究に何を作ってくるのかが毎回本当に楽しみだった。
そして抜群に絵が上手かった。
小一の写生大会で校庭のひまわりを描くことになった時のことだ。みんなが画用紙を横向きにして書いている中、幼馴染はひとり画用紙を縦にして描いていたのだ。
驚いたあたしは、みんなと違うことをしていると先生に叱られるよ、そう注意した。すると幼馴染は特に慌てた様子もなく、そうすることが当たり前かのように言ったのだ。
「こっちの方がひまわりがうんと背が高く見えるよ」
青空に向かってぐんと伸びる黄色いひまわりは、金賞を獲った。
そんな幼馴染が中高と美術部での活動にのめり込んでいくのは自然な流れだった。あたしは門外漢だから詳しくないのだけれど、風景とか静物とかを描かせると本当にすごかった。写実的とでも言うのか、とてもリアルで綺麗で惚れ惚れとしてしまう。
将来はあたしにはないその才能をフルに活かした道に進むんだろうなと、本人も周囲も思っていただろう。けれど現実は甘くない。幼馴染は札幌の短大に進んで、普通に就職した。
地元を離れて自分の力で生きている幼馴染からの近況報告やSNSを見るたびに、あたしは都会の暮らしを想像した。それは我が事のように楽しかった。上手くいってほしかった。けれど順調そうに思えたそれは、今から二年近く前に一変したらしい。
まずSNSが更新されなくなり、連絡も途絶えた。ちょうどあたしの結婚と時期が重なって、バタバタしていたこともあり、こちらからも頻繁に連絡することができなくなった。
そうこうしている内に時間だけが過ぎ、ある日、本当に久々にぽつりと連絡が来たのだ。
幼馴染は無職になっていた。
そして再就職もうまくいかず、貯金も減り、住んでいる部屋の更新も迷っていると言う。
あたしは都会でひとりきりの幼馴染の身を案じて、札幌に住む従兄に仕事の相談に乗ってもらうことにしたのだ。
今思えばそれが仇となってしまったのだけれど。その時は良かれと思ってそうした。
それがこんな結果を生むなんて想像もしなかった。
おかしいな、と思ったのは、再開した幼馴染のSNSを見た時だ。
文字とたまに写真を投稿するというありふれた内容だったこれまでと違って、幼馴染は初めて手描きの絵をアップしたのだ。
どんな心境の変化だろう。
最初に投稿されたのは夕暮れの公園の絵。
茜色に染まった空、フェンス、ブランコ。
すごく綺麗で、幼馴染がまた絵を描き始めたことが素直に嬉しかった。
それからポツポツと数枚の絵を公開していき、そのどれもが割といい評価を得ていた。
特に星降る夜空の絵は高評価で、コメントもたくさんついていた。
幼馴染の才能が多くの人に知れ渡る。
改めて絵の道に進むきっかけになるかも。
そんな風に喜んでいたのに。
ある時から幼馴染は漫画を公開するようになった。所謂エッセイ漫画だ。
【三十路手前で拾った恋】
そんなタイトルのエッセイ漫画は、転職した主人公の女性が中学の同級生と再会し、お互い惹かれあい、大人の恋愛に発展していくという内容だった。
明らかに自分と従兄のことを指している。
本人を知っている人間が見たらキャラクターの顔や本名に似せた名前からもそれは明らかだった。
けれど内容のすべてが嘘っぱちだった。
主人公を美化するのはいい。けれど従兄が幼馴染に恋愛感情を持つなんてあり得ない。
なのにストーリーは男性側からの熱烈なアプローチがあり、ふたりの距離が徐々に縮まって、あろうことかベッドシーンまでも赤裸々に描いている。
それを目にした時、あまりの気持ち悪さにあたしは嘔吐した。
トイレで何度も何度も吐いて、その度に涙が溢れた。
そんなはずない。従兄が女性と関係を持つなんてあるはずがない。
まだあたしが中学生の頃、親戚での集まりがあった。大学生になった従兄はすごく大人っぽくて、ちょっとドキドキした。
あたしはそんな胸の内を悟られたくなくて、わざと茶化すように彼女でもできた?って尋ねてみたのだ。そうしたら従兄は言ったのだ。
「彼女は、いらないかな」
そして、あたしにだけ聞こえるような囁き声でぽつりと溢した。
「彼氏ならほしい、かな」
その時の従兄の
ものすごく柔らかな微笑み。けれどその眉根はきゅっと寄せられて、困ったような泣きたいような、とても苦しい微笑みだった。
従兄から見たらあたしなんてまだまだ子供だっただろう。
でもだからこそ、子供相手だったからこそ、思わず吐露した本心だったに違いなくて。
だからあたしはその微笑みを胸の奥深くに、大切に大切にしまい込んだのだ。
誰の目にも触れられないように。
誰の手にも汚されないように。
それを。
それを幼馴染が汚した。
あることないことデタラメばかり描いてSNSを通じて世界中にバラ撒いた。
あたしは吐いて吐いて、身体中が空っぽになるまでドロドロとしたモノを吐き出し続けた。
その日、あたしの体調を心配した夫に病院に連れて行かれて、そこで言われた。
「おめでたです」
そんな矢先だった。
従兄が大怪我をして入院することになったと伯母から連絡があったのは。
しかもそれがあたしの招いたことだったと分かった時、あたしは正直驚いて、混乱して、あたしは伯母にすべてを打ち明けた。
すると伯母に話しているうちに、幼い頃に聞いた不思議なおまじないを思い出したのだ。
願いをかなえてくれるワダさんの話を。
昔むかし、この国が戦火に巻き込まれるよりもずっと昔、〇〇市の管内にある※※町がまだ小さな漁村だった頃。
天候の移り変わりや制御できない海と戦う漁業は、現在よりももっと命がけの仕事だった。
海難事故も多くあっただろう。それにより帰らぬ人となってしまった家族。
波に飲まれて上がらない遺体。
残された遺族の無念はどれほどか。
せめて亡骸だけでも還してほしいと願ったに違いない。
海に。神に。自然の力に。
ある時、遭難により家族を亡くした村の娘がいた。海に沈んだ家族を還してほしいと願ったのが、大きくて黒い石だった。
海岸の岩場に転がるその石は、他の石に比べてなんだか特別なモノのように見えた。
少し光沢もあって神々しい。
村娘は毎日その石に祈った。
雨の日も風の日も。
その姿は村人たちの哀れを誘ったが誰も止める者はいなかった。
皆同じ思いだったから。
すると強い風が吹いた翌日、浜に娘の家族の亡骸が打ち上げられたのだ。
波に洗われ無残な姿になったその家族の帰還を娘は大いに喜び、また村人たちもこれを奇跡と呼び、その石は家族を還してくれる奇跡の石として大切に扱われるようになった。
「村の有力者だったうちのご先祖様がその石を管理するようになってからは、供物と祈りを捧げ望みを叶える奇跡の石として有効利用されたらしいわ。つまりは奇跡の独占ね。ご先祖は○○市に居を移すときも当然その石を運んだ。この話は一族のごく一部の人間にだけ伝わってきたらしくて、わたしも昔、祖母から聞いたのだけど、今じゃ知ってる人間も少なくなってしまったわ。庭の片隅に転がってるあの黒い石よ。どう、アカリちゃん、迷信だと思う?」
従兄を見舞うために札幌を訪れたとき、伯母が聞かせてくれた話だ。
あたしは札幌に滞在中、従兄の実家でお世話になっていた。
夜更けのリビングで寛いでいる時、意を決してあたしは伯母に例の話をしてもらったのだけれど、どうと聞かれても、子供の頃と違って今のあたしには眉唾物としか思えなかった。
「そう思うのは当然よ。これは迷信なんてものじゃない、ただの偶然。村娘の話も海流の関係で偶然ご遺体が上がっただけでしょうね」
伯母はそう言うと静かに珈琲に口をつけた。
「奇跡を見出してしまった村人たちは、ただの石を崇め奉って意味を与えてしまった。何年も何年も、気が遠くなるくらい長い年月、あの石は多くの人の祈りや想いを吹き込まれ続けた。願いは叶ったのかもしれないし、叶わなかったのかもしれない。重要なのは結果ではなくその過程で出来上がってしまったモノ。そしてそれを信じる人の心」
伯母がチラリとあたしを見る。真正面から目が合ってしまい、あたしの心臓は嫌な音を立てた。
庭の片隅に転がる石を思い浮かべる。
アレは何なのだろう。
アレは何になってしまったのだろう。
アレは——ワダさん。
海神様の名を与えられたナニカ。
不意に伯母がクスリと笑う。
「アカリちゃんがあの子のために行動しようとしてくれてることは分かってる。ありがとう」
そう言って頭を下げる伯母に、あたしは頭を振ることでしか応えられなかった。
悪いのはあたし。あたしが蒔いた種だから。
喉の奥からせり上がってくるものがあり、あたしは堪らずお手洗いを借りた。
悪阻は辛いとは聞いていたが、本当に苦しい。皆もこうなのだろうか。
あたしは便器に顔を突っ込み、伯母に背を撫でられながら吐いた。
「アカリちゃんはわたしの話は覚えてるのよね」
背中を擦る伯母の掌が熱い。
「わたしが奇跡の石に祈って願いを叶えたこと」
幼い頃に伯母が教えてくれたおまじない。
「わたしが祈ったのは高校生の時で、それが叶えられたのは五年後だったわ。それって願いが叶ったと言えるのか、それともただの偶然か」
決めるのは——それを信じる人の心。
伯母が行った祈願術を聞き出したあたしは、札幌にいる間に供物を調達し急ぎ〇〇市に戻ると、妊娠初期の体調の悪さに耐えきれず寝込んでしまったのだった。
だから実行に移せたのは身体が動かせるようになってから。
早々に実家に戻ったあたしは、躊躇なく自分が蒔いた種を刈り取った。
供物には札幌の病院で手に入れた幼馴染の髪の毛と子供の頃の写真を使った。なぜソレにしたのかは分からない。ただ、ソレにすることが正解のような気がした。
それから石を綺麗に磨きあたしは毎日祈った。
その成果かどうかは分からないが、幼馴染は地元に戻り、今は実家で静養している。
ご両親から聞いた話によると、幼馴染はある日、札幌から程近い海岸で倒れていたところを意識不明の状態で発見されたらしい。
海水を飲んでいたらしく、もしかしたら入水自殺を図ったのではないかとのことだったが、真相は不明だ。
何故なら当人が何も覚えていないから。
溺れたショックからか、一時的にでも脳に酸素が行き届かなかったためか、幼馴染は記憶の一部を失ってしまったらしかった。
まるで憑き物が落ちたかのように従兄とのことを忘れた幼馴染は、実家でまた風景画を描いて過ごしているとのことだった。
なんにせよ、あたしは幼馴染に会うことはもうないだろう。
従兄には随分と待たせてしまった。
不名誉なデジタルタトゥーは消せないけれど、現在は退院して、復職を目指してリハビリに専念しているとのことだった。
電話越しの伯母の声も明るくて、これであたしも心置きなく出産に向き合うことができる。
「あんことみたらし、どっちがいい?」
笑顔で聞いてくる夫からみたらしの串を受け取り、お茶で喉を潤しながらひと口頬張る。
幸せが口いっぱいに広がり、胸もお腹も満たされる。
海鳴りが聞こえる窓辺であたしは思いを巡らせるのだ。
海の中には何がいるのだろうと。
先輩の小説を思い出す。
海の中には母がいて、母の中には海がある。
あたしは張りつめた腹部を撫でる。
あたしはもうすぐ、母になる。
『こんにちは先輩!
もちろん実話ですよ。怪談とはちょっと違うけど幼馴染からは許可をとってるのでぜひ配信してください!』
了
そして円環は閉じられた 成田紘 @ayame
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