道の話【前編】
「トモミさんて、○○市出身なんですよね?」
人材派遣会社の担当者が突然そんなことを言い出した。
ぼんやりしていたところにいきなり出身地を言い当てられ無防備なわたしは、思わずはいと返事をしていた。
でも何故分かったのか。派遣登録時には現住所と最終学歴、職歴を登録したが、出身大学も前職場も札幌市だ。
細かい個人情報が漏れている?
なんなの、この人。
わたしは返事はしたものの、それ以上なんといって言いか分からず口を噤んでいると、担当者は慌てて「違いますよ」と、胸の前で手を振った。
「変に思わないでくださいね。実は僕も○○市出身なんですよ。あの、本当に変に思わないでいただきたいのですが、中学はK中学校じゃなかったですか。僕もK中出身で、その、お名前に覚えがあったものですから」
コインパーキングに停めた狭い車内だった。
紺のスーツを着た運転席の男が、眉尻を下げながらこちらを見る。
わたしは記憶の底に、目の前の男の姿を探した。
仕事を辞めてから一年半、その間ずっと就職活動を続けていたわたしは、ハローワークと併用して地域密着型の小規模な派遣会社『A』に登録した。
地元○○市の幼馴染に、なかなか次の職が決まらないことを零すと、派遣という働き方もあるとアドバイスしてくれた。競争率が激しそうな大手よりも、どうせなら地域密着型の方が良いとも。
「クチコミ見たら『A』っていう派遣会社がよさそうだよ」
そんな幼馴染の勧めもあってのことだった。
短期大学を卒業してからずっと正社員として働いてきたわたしにとって、派遣というシステムは未知だった。
実際に『職場見学』と呼ばれる面接に行くまでには、派遣会社自体の社内選考を突破しないといけないなんて思いもよらなかった。応募すればすぐに面接できるものと安易に考えていたし、『未経験歓迎』のうたい文句ほどアテにならないものはないと知った。
長らく専門職に従事してきたわたしは、請求書作成どころか電話応対すらまともにしたことがない。そんな人間には営業事務はおろか一般事務でさえも高い壁らしい。
そして今日。
やっとのことで職場見学までたどり着いたのだったが、あまりの出来なさに自分で自分にガッカリしていたところだった。
前の職場でもExcelは使っていたが関数なんて知らない。聞いたこともない請求書作成ソフトに、タスク管理ツール。
なにそれ、と思った途端、思考が停止してしまった。
あっと言う間に終わった初めての職場見学。
会社近くのコインパーキングに停めた担当者の車の中で、「どうでしたか?」と聞かれても、どうもこうもない。
わたしに、はあと答える以外、何が言えるというのだ。
そんな時だった。いきなり出身地を言い当てられたのは。
正直、驚いた。
確かにわたしは〇〇市のK中学校出身だ。
でもわたしの名前なんてそこまで珍しくはないと思うのだけれど。
わたしは目の前の男の顔をまじまじと見る。
けれど、どれだけ思い出そうとしても記憶にない。貰った名刺で名前を確認しても、ピンとこなかった。
なので失礼かもと思ったが正直に覚えていないことを告げると、「自分は中学の途中で転校したから」と男は言った。
「えっと、だから何が言いたいかというと、
目を細めて男が微笑んだ。
「では結果が出ましたらすぐにご連絡しますね」
その日の夕方、ひとり暮らしの部屋でPCに向かっていると、本当にすぐ連絡があった。
結果は聞くまでもなかった。
「今回のことはあまり気にせずに。他にも気になるお仕事があればどんどんエントリーしてください。こちらからもトモミさんの条件に合った仕事の情報が入りましたら、またご連絡しますね」
――また?またってなんだ。
胸の奥で小さく音が鳴る。
いや、違う違う。仕事の連絡だから。
わたしは誰にするでもない言い訳を早口で呟いた。
通話を終えてから、わたしは幼馴染にメッセージを送った。
『この名前覚えてる?』
するとすぐに反応があった。
『覚えてない。誰?』
そうか、幼馴染も忘れているのか。転校っていつ頃したんだろう。
そんなことを考えながら返信する。
『ないしょ♡』
落ちた仕事のことなんてすっかり抜け落ちたわたしの心は、まるで雲のようにふわりと浮いているようだった。
「失礼ですが、前職の経験を活かそうとは思われないんですか?」
前職。
その響きにギクリとして、思わず息を飲む。
二度目の職場見学を前にした、打ち合わせの最中だった。
前回は駐車中の車内だったが、今回は受ける企業のビルが派遣会社『A』の徒歩圏内にあるため、『A』の面談室で行われた。
目の前に座る今日の彼は少しパリッとしたグレーのスーツで、同じスーツでもあの日見たふたり組みたいな、よれよれスーツとは全然違うなと思った。
「誤解しないでください。変な意味ではないんですよ。ただ、せっかく長く続けてこられた専門職ですし、資格もあるのに、勿体ないなと思って」
穏やかで耳に心地いい声音。その優しい言葉が、わたしの心の表面をカリッと引っ掻く。
同じことはハローワークの相談窓口でも言われた。同業種の方が即戦力になれること、またいくらでも募集はあるとも。
そんなことは知っている。
わたしは、前職がハードすぎたこと、そろそろ落ち着いて働きたい旨をボソボソと低い声で吐き出した。
「そうですね、確かに小さいお子さんの相手は大変そうだ。では、今回ご応募いただいた総務事務につきまして、いくつか確認を……」
彼の言葉は何ひとつ頭に残らず、つるつると滑り落ちていく。
わたしは神妙な顔を作ってはみたが、前職での、いや前職場での強烈な思い出に意識を支配されていた。
「青色のある景色ってステキですよね」
「beautiful!」
「すごい、流石としか」
「どうせAIだろ」
昨日、公開したばかりの自作へのコメントに返信していたところに、電話がかかってきた。彼だった。
「今回もお力になれず本当に申し訳ありません」
心底申し訳なさそうな声音が耳に届く。
わたしは彼がパリッとしたスーツ姿で目を伏せている姿を想像した。
彼は、今回わたしが不採用だった理由として、先方の求めるスキルが事前に聞いていたよりも高かったことを挙げ、決してわたし自身に問題があるわけではないと励ましてくれた。
「また頑張りましょう!」
力強いその言葉に、またよろしくお願いしますと返し通話を切った。
わたしは大きく息を吐き出し、スマホを投げ出しつつベッドに寝転んだ。
アイボリーの天井にレースのカーテンの影が映り、窓の外からは小学生たちの声が聞こえる。もう下校の時刻か。社会から離れていると時間と曜日の感覚がどんどんズレていく。
「前職の経験を活かさないのは勿体ない」
目を閉じると、彼の言葉が耳元で蘇る。
やっぱりそうなんだろうか。
でも、わたしだって別に仕事が嫌で辞めたわけじゃない。
わたしは保育士という仕事が、たぶん好きだった。
子供の頃から図画工作が得意だったわたしは、中高は勉強そっちのけで美術部での活動に熱中した。
将来はデザインやイラストの仕事がしたくてそっち系の専門学校に行きたかったのだけれど、郷里の○○市には残念ながらそんな気の利いた学校はなかった。
札幌にある専門学校に通いたい。けれど地元から札幌まではJRの特急でも片道四時間はかかる距離だ。両親が許してくれるとは思えなかった。
そうやって一度は諦めかけたわたしの夢を、幼馴染や美術部の仲間たち、それに顧問が熱心に応援してくれて、だから自分の正直な気持ちを両親に打ち明けたのは、高校二年生の冬だった。
「絵で食べていけるのなんて、そんなのは才能のあるひと握りの人間だけだ」
「もっと地に足の着いた道を選びなさい」
「絵は趣味として続けていけばいいだろう」
「今は納得いかなくても、それがトモミの将来のためでもあるんだから」
そんな風に両親に説得されて、まだ
それでも札幌に進学すること自体は意外にも反対されなかった。ならばと気持ちを切り替えて、堅実で、それでいて自分の唯一と言っていい特技が活かせる道に進むために、短期大学の保育科で学ぶことを選んだ。
短大なら地元にもあるのにと幼馴染に言われたけれど、あの頃のわたしは地元から、娘のためを思って色々と考えてくれている両親から、距離を置きたかった。
結局は全然、気持ちを切り替えられてなんかいなかったんだと思う。
そんな思いで就いた職だったけれど、思いのほか楽しかったしやり甲斐もあった。
もちろん大変なことは多い。
体力勝負なのに保護者の対応で頭も気力も削られていく。
それでも子供たちと一緒にお絵描きしたり、折り紙で折った紙飛行機を飛ばしっこしたり、それまで上手にできなかったお着替えがひとりでもできるようになって一緒に喜んだり。
そんな些細な出来事が疲れもストレスも吹き飛ばしてくれた。
保育士になるまでは意識したこともなかったけれど、わたしは子供が好きなんだと自覚した。
もしかしたら天職かもしれないと、大袈裟だけれど思ってもいた。
なのにあの日。
わたしが勤めていた保育園に思わぬ来訪者が現れたあの日以来、それまで上手く噛み合っていた歯車がずれてしまったかのように、日常が狂っていった。
ひとりの同僚保育士が事件に巻き込まれたのだ。
その事件は、始めは小さく新聞の片隅に載っただけだった。
【痴情のもつれの末の犯行か。容疑者の女を逮捕】
それはどこにでもある、普段なら誰も目にも留めないようなありふれた事件。
別れ話を持ち出された女が逆上して包丁を振り回した挙句の刃傷沙汰。
男を傷つけた女が正気を取り戻し、その足で近所の交番に自ら出頭して事件は発覚した。
その時、女の手には血の付いた包丁が握られていたという。
女はその場で逮捕された。
現場となった女の部屋に警察官が駆けつけると、そこに被害男性の姿は無かった。
部屋からマンションの駐車場まで続く血痕はその場で途切れており、男が車を使って自力で逃げ出したものと思われた。
始めは自宅に逃げ込んでいると思われた男はしかし帰宅しておらず、近隣の夜間病院や救急外来に聞き込みがなされたが、男らしき患者の姿はどこにもなかった。
成人が行方不明になったところで本来、警察は動かないとはよく聞くが、男――つまり、わたしの同僚保育士の彼は傷害事件の被害者。怪我の程度も不明で安否が気遣われた。
あの日、わたしが勤める保育園にも捜査協力という名目でふたりの警察官が聞き込みにやって来た。
そこでわたしたち園の人間は、初めて事件を知ったのだった。
先輩保育士が何かの手掛かりになればと、行方不明の彼が最後に書いた業務日誌を見せた。それは通常の業務日誌とは異なり、彼が秘かに書き綴った日記のようなもので、わたしもチラッと見たが、最後の方の内容はまったくの意味不明な文章だった。
ただその中に、▲▲町にある山の名称が随所に見られたらしい。
札幌から随分と離れたところにあるその山は、わたしも先輩も聞いたことのない山だったが、警察はひとつの手がかりとして捜索を開始した。
そして間もなく、件の山中で彼は無事保護され、警察病院に搬送された。
その事件はそれで終わるはずだった。
痴情のもつれの原因が明るみにされなければ、きっと今もわたしは子供たちと一緒に歌ったりお遊戯したりして過ごしていたに違いない。
【美貌の男性保育士、中絶を強要】
そんな後追い記事さえ出なければ――
警察病院での回復を待って彼の事情聴取が行われたらしい。
そこで彼は、妊娠したから結婚してくれと迫る女に、子供は堕ろしてほしいと告げると口論になり、挙句女が切りかかってきたと答えた。
最初の報道で、相手の女が以前にも交際相手を怪我をさせた事実が明るみになっていた。
今から十年ほど前に起きたその事件は、被害男性が訴えを取り下げたため事件とは呼べないのかもしれない。
けれど報道には、やはり妊娠を盾に結婚を迫った女が起こした事件と書かれていた。しかも妊娠は偽りだったとも報じられていた。
そして今回の事件でも、女の妊娠は虚言だったことが判明した。
当初は女の過去が知れ渡り、特に女がひと回りも歳が上だったことも相まって、彼に同情的な声も確かにあった。
なのに、事態は一変。
子供の命を預かる保育士が中絶を言い出したことが世間の怒りを買ったのだ。
そしてどこから漏れたのか、ネットニュースに彼の写真が掲載されるや否や事態は瞬く間に保護者の知るところとなり、園は一瞬でパニック状態に陥った。
しかも公開された『美貌の保育士』にメディアが食いつき、園にマスコミが押し寄せ、子供たちを守る立場のわたしたち保育士は、けれど何をどうしていいのか分からずに、ただ闇雲に右往左往するだけの木偶の坊だった。
事件自体は園内で起こったわけじゃない。
それに彼は被害者なのだ。
なのに園が穢れた場所であるかのように悪し様に罵る者や、忌避の眼を向ける者、そしてそれを理由に牙をむく保護者達。
時間をかけ積み上げていった保護者達からの信頼は、一瞬で崩れ去った。
鳴りやまない抗議の電話。石を投げつけられ割られた窓ガラス。
スマートフォンで園の様子を撮影していく若者たち。
園長は心労に倒れ、責任者を失ったときのあの喪失感と無力感。
あの当時の言い知れない不安と恐怖はわたしを暗闇に追い詰めた。
そんな日々の中で、わたしと同じ状況に居ながらも周囲を励まし率先して行動してくれる存在がいた。
先輩――
彼女はとても気の合う先輩保育士だった。
仕事の進め方も程よい気の抜き方も、翌日に響かない夜遊びの仕方も先輩が教えてくれた。
激動の日々に心も身体も磨り減り、先輩の叱咤激励にも応えられなくなって、退職したいと切り出したとき、先輩は少し驚いた表情を見せた。
けれど、「トモミ先生の人生だからね。悔いのない道を選びなさい」と励ましてくれた。
良くなる兆しの見えない園の現状を思い、先輩も一緒に辞めませんかと言ってはみたが、そんなわたしに力強く微笑んで先輩はこう言った。
「わたしは最後まで行く末を見守るよ。園長も放っておけないしね」
先輩の揺るぎない信念に撃ち抜かれたとき、わたしは力なく微笑んで俯くことしかできなかった。
気が合うだなんてとんでもない。おこがましい話だった。
己の不甲斐なさに恥じ入り、居た堪れない思いで園を後にしたわたしを待っていたのは、静かな暮らしと自由な時間、そして目に見えて減っていく貯金と、孤独と向き合わなくてはならない現実だった。
先輩と最後に連絡を取ったのはいつだっけ。
確か、彼の見舞いに行った帰りだと言っていたか。
先輩は、「トモミ先生も元同僚だし無関係ではないから」と、発表はされていない事柄を色々と教えてくれた。
正直わたしはそんな話、知りたくもなかった。報道だって極力目にしないように避けていたのに。本当は何があったのかなんてどうでもよかった。
唯一はっきりしていることは、彼らのせいでわたしはこんな目に遭っているということ。
そんな風に思うわたしは薄情だろうか。
先輩みたいに人間ができていないわたしは、自分の矮小さを思い知るのが嫌で、それ以来先輩とも疎遠になっている。
どこからか小さな振動音が聴こえる。
その音でわたしはゆるゆると目を醒ました。
うたた寝をしていたらしい。ぼんやりした頭で壁にかかった猫モチーフの時計に目をやると、時刻はとっくに夜の七時になろうとしていた。
カーペットの上では先程からスマホが通知音をリズミカルに鳴らしている。
鉛のように重い身体を無理やり起こすと、わたしは滑り落ちるようにベッドから降りて床に座り込み、やっと静かになったスマホを手に取った。
ディスプレイにはSNSのいいねに紛れて、派遣会社『A』の彼からのメッセージがあった。
続
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