第13話 わぶんのいもかん。
冬華は台所からマグカップを二個持ってきて、テーブルの上に置いた。
「先輩はコーヒーで良いですか。インスタントなので、美味しいかどうかは分からないですけど」
「ああ、ありがとう。頂くよ」
彼はコーヒーを一口すすり、カップを置いて冬華を見つめた。
「それで、俺に話があるんじゃないのか?」
「え?」
「なんかさ、顔に書いてあるんだよ。聞きたいコトがありますって」
「ええと、それは……」
「もしも俺に悪い所があったら言って。話してくれなきゃ直せないだろ」
「そんな、先輩に直して欲しい所なんて……ええと、あの。先輩はよく北川先生と二人きりで話していますよね」
「北川先生? どこかで見かけたのか」
「はい、校内で何度か。先生と親しそうにしてたから気になって」
「あ、もしかして妬いてる?」
興俄は嬉しそうに冬華の顔を覗き込んだ。
「ええ、まぁ。北川先生、美人だし」
「あの人とはなんでもないよ。まぁ、あるとしたら腐れ縁ってところかな。まさか、冬華に嫉妬されるとはね」
いつものように微笑んで、彼女の頭を撫でる。冬華は腐れ縁という言葉が僅かに気になったが、それ以上は何も聞かなかった。
「何もあるわけないですよね。先生と生徒なんだし。すみません、おかしな質問をして」
「いいよ。俺は気にしていないから。それよりも勉強するぞ」
「はい」と頷いて、鞄からペンケースと数学のワークを取り出す。
課題のページを開くが、一問目から解けそうもない。はぁと溜息をつくと興俄が覗き込んで「分からないところはどこだ?」と聞いた。
「ほとんど……です」消え入りそうな声で答えると、
「は? おい、冗談だろう」
彼の目が点になる。
「だから、時間の無駄だって言ったじゃないですか」
冬華は頬を膨らませる。
今度は興俄がはぁと溜息をついて
「じゃあ、最初から説明するからよく聞けよ。ここはな……」
と丁寧に解き方の解説を始めた。
「じゃあ、残りの問題は一人で解いてみろ」
ある程度理解できるようになると、興俄は自分の鞄から文庫本を取り出して読み始めた。
冬華は問題を解きながら視線を動かして、本を読んでいる彼の横顔を盗み見る。(睫毛長いな。唇の形、綺麗だな……)彼女の視覚に入った情報が、そのまま脳内に流れ込んできた。
そしてふと思った。今、先輩と二人きりだ。この状況は……どうしよう。キスされたら、どうしよう。嫌ではないけれど、望んでもいない……ような。でも断るのもおかしいよね。つきあっているんだし。いや、まだ早いかな。彼女の脳内では色々な妄想が駆け巡っていた。
その時、
「どうした、手が止まってるぞ」
顔を上げた興俄に怪訝な顔をされ、思わず我に返った。
「あ、あの、その」
気がつかれたかなと顔を赤くする。
「冬華」
名前を呼ばれた次の瞬間、彼の顔がゆっくりと目前まで迫ってきた。冬華は思わず目を瞑る。キスされる。目を瞑ったまま、どうしようかと考える。考えるが何も起こらない。数秒が過ぎ、恐る恐る目をあけると、興俄は声をあげて笑い出した。
また馬鹿にされたと思った冬華は頬を膨らませた。
「先輩、面白がっているでしょ」
「あ、わかった? 冬華の反応が、いちいち面白いからさ。心が読めなくても、お前の考えは丸わかりだな」
「丸わかりって……やっぱり馬鹿にしていますよね」
「そんなことないよ」
そう言って興俄は再び本を読み始めた。
冬華は心のどこかで、なぜか良かったとホッとしていた。まだまだやらなきゃいけない勉強がある。そう思い、鞄を開けて国語の教科書を取り出す。
「先輩、わぶんのいもかんって何ですか?」
国語のワークを開いて、冬華が尋ねた。
「いもかん? 芋羊羹のことか? どこだ。ああ、伊勢物語か。あのなぁ、これは『わぶんのいもかん』じゃなくて『
呆れたように興俄が盛大なため息をついた。
「え、自覚って何ですか?」
「いや、今の冬華が可愛いなって思って。ずっとそのままでいて欲しいと思っただけさ」
「あ、また馬鹿にした」
「してないよ。倭文は古代の織物、苧環は糸を紡ぐ道具。この話は昔、親しい仲だった女に、男が手紙を送ったんだ。内容は、麻糸を紡いで巻き取った苧環のように時を巻き戻して、幸せだった日々に戻る方法があったらなと書いたんだが、女からは何の返事もなかったって話。ってなんで俺が説明しなきゃいけないんだよ」
興俄は面倒だと言わんばかりの顔をする。
「だって、苧環なんて絶対に読めないでしょう。見た事も聞いたこともありません」
「聞いたこともない、か。仕方がないな」
興俄はスマホを取り出し何かを検索し始めた。表示された画面を冬華に見せる。
「ほら、この四角い枠状の糸巻きが苧環。古事記にも登場したり、平安時代は七夕の供物だったりしたようだ。俺はいにしえの人の中には、糸を紡ぐ苧環を見て、逢うことのできない愛しい人に再び逢いたいと願いをかけていたんじゃないかなって思うよ」
真顔で言うので、冬華は意外そうな顔をした。
「へぇ、先輩ってロマンチストなんですね。苧環から恋愛を連想して、誰かを思う人の話にするなんて。なんかもっとこう、合理的な人だと思っていました」
「ロマンチスト? 初めて言われたよ。でもまぁ、そうかもな」
興俄は曖昧な笑みを返した。
しばらく勉強をしていると、突然玄関のドアが開いた。
「ただいま。あら、お客さん?」
玄関から母の声がする。どうやら予定より早く帰って来たようだ。
「お母さん、早かったね」
冬華は玄関に向かって声を掛けた。
「今日は夜勤になったの。食事を済ませたら、また行くわ。お友達でも来ているの?」
部屋に入った母の姿を見て、興俄ゆっくりと立ち上がった。
「初めまして。冬華さんとお付き合いしています、神冷興俄です。お留守中に上がり込んですみません」
にこやかに挨拶をする興俄の顔を見た母の顔が、みるみるうちに強張っていた。
「あ、あの、冬華の母です」
それだけ言って、母は黙った。てっきり『彼氏がいるなら、お母さんにちゃんと話して』などと叱られると思った。若しくは『彼氏かっこいいわね』などと笑顔で言われると思った。それなのに、母の表情は曇っていた。いや、恐れているようにも見えた。予想外の展開だった。
「お母さん?」
冬華は不思議そうに母を見つめる。
「俺はそろそろ帰るよ。どうもお邪魔しました」
興俄は鞄を手に取り、冬華に微笑んでから、母に会釈をして帰って行った。
「冬華に彼氏がいるなんて、お母さん全然知らなかった」
母は、たった今彼が出て行った玄関の方角を見つめたまま言った。
「ゴメン、つい言いそびれてさ」
母の背中に手を合わせる。怒っているのだろうかと思い、もう一度ゴメンと呟いた。
「冬華はこれで良いの?」
振り向いた母はまっすぐに冬華を見つめた。
「え? 何が?」
「あの人でいいの? 本当に」
「お母さんは私が興俄先輩と付き合うことに反対なの?」
母の質問を質問で返した。先輩の何が気に入らないのか、わからなかったのだ。
「貴女が良いのなら反対はしない。けれど、自分自身に聞いてみて。本当にあの人で良いのかって」
「あの人って……。お母さん、興俄先輩を知っているの?」
「知るはずないでしょ。今日初めて会ったのに」
「そう……だよね」
「ご飯の支度、今日はお母さんがするから。いつもありがとうね。本当に感謝しているわ」
「そんなに改まって、どうしたの?」
今日の母は何かおかしい。
母は冬華を見つめて口を開いた。
「子供が辛いとき、甘えられるのが親の役目なの。お母さんはそれができていないんじゃないかなって。いつもこうやって家事を任せて、申し訳ないって思ったのよ」
母はそそくさとキッチンへ向かった。冬華の目には、母が先輩に怯えていたように映っていた。先輩はずっと笑顔だったのに、母は始終強張った顔をしていたからだ。
二人はまるで、以前にもどこかで会ったようだった。
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