【第一章・第三十六話】雨の日のお師匠様
とても静かに……そして、丁寧に。やや規則的に紡がれる言葉に伴って、音も立てない美しい動作をする。人を不快にさせることがない。わたしが望むことを、なんてこともないようにあっさりと叶えてしまう。
もしかしたら、自分でも分からないほどの小さな願いも、こちらが意識しないうちに拾って、気取らせないまま、ひっそりと叶えてくれているのかもしれない。そんな心優しいお師匠様が雨の日のミラージュ・ドゥ・シュヴァルツに一人でいるのは、きっと、あまり良くないと思った。
そう思ったら急に心配になり、少し、店へ帰る足を早めた。
案の定、金属音の潜む雨音のカーテンの下から顔を覗かせたお師匠様は、少しだけ暗い色を瞳に浮かべて、少しだけ沈んだ声色をして、普段とさして変わらない表情を浮かべていた。
そして、普段どおりわたしの世話を焼いて、呆れたような顔をして、店の中へと戻っていく。その不均衡さが、そのまま放っておいたら消えてしまいそうなほど頼りなく見えてしまい、つい手を伸ばしてしまった。
お師匠様は、本当になんでもないように振る舞っていたつもりだろう。けれど、その少しの違和感を見過ごしてあげられるほど、わたしは器用ではないみたいだ。お師匠様のように、上手に掬って、そっと手を離すことができない。
雨には打たれていないはずなのに、触れた頰が氷のように冷たかった。合わせた視線が、ひどく動揺したように揺れていた。でも、考える前に手を伸ばして抱きしめた体は燃えてしまいそうに熱かった。
ほんの数ページだけ読まれた本。それに、遠慮がちに挟まれた栞。「今日は上手に淹れられたんだ」と柔らかく微笑みながら手渡された青いカップ。珈琲に混じって砂糖とミルクの甘い香りがする乳白色。
湯気がのぼって、それを、ふう、とゆっくり散らすお師匠様の息。手元のカップに視線を落とせば、透き通った濃褐色に満たされて底が見えない。そういう、普段はなんでもないようなものを思い出して、泣きたいくらい切ない気持ちで胸がいっぱいになった。
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