【第一章・第十七話】必要な対価
「いらっしゃい」
薄暗い店の中から、絡みつくような粘りを帯びた男性の声が聞こえた。不明瞭な視界の中、その声の発生源へ目を向ければ、そこには黒い塊が見える。それはもぞもぞと動いたかと思えば、衣擦れの音と共にそこから手が伸びてきた。
次の瞬間、ボッと音を立てながら、その手のひらに炎が灯る。そして、その傍に置いてあった蝋燭に火をつけた。部屋の中に立ち込める火薬の匂いに、埃などが引火して店の本が燃えてしまわないか心配になる。
「ふむ……驚かないのじゃな」
「……はい?」
「昔よりも人間と魔族の交流が増えたとはいえ、今でも魔法を見たことがないという人間も少なくない。随分と、魔法に近しい環境で育ってきたようじゃのう?」
まるで一語一語を慎重に息でくるむような、そんな言い方をする店主だ。蝋燭の光に照らされ、初めて彼が黒いローブを纏っていたのだと気付く。彼の言葉に思わず黙り込んでしまったわたしを見かねたのかして、やれやれ、という風にその店主は力なく笑った。
「まあ、無理に答えずともよい。隠し事の一つや二つ、誰にだってあるものじゃからな。……さて、お嬢さんはどんな本をご所望かな?」
「え、ええと……『薬草の微睡み』という書籍はありますでしょうか?」
お師匠様から渡された紙の文章を読み上げると、それを聞いた店主は店の奥へとゆったり歩いていく。おそらく、目当ての本を取りに行ったのだろう。
この店主は、なんだか不思議な雰囲気を纏っている。気を抜くと、すっかり向こうの空気に呑み込まれてしまいそうだ。
「これでよろしいかな?」
いつの間にか戻ってきた店主に分厚い本を手渡される。じれったいほどゆっくりした口調でそう問われ、わたしは小さく頷いた。そして、お金を払おうと肩に掛けていた鞄に手を入れた瞬間、突然、店主は首を横に振る。
「代金は要らぬよ。……その代わり、お主は何を差し出せる?」
「……え」
対価に何を差し出せるか。そんな問い、碌なものではない。
真剣な表情でこちらを見つめる店主。いや、正しくは、わたしの右手を見つめている。
「申し訳ありませんが、大事な片手を奪われるわけには……」
「ほう……では、その本は返してもらおうかのう」
それは駄目だ。珍しくお師匠様から頼まれたおつかいを、無下にするわけにはいかない。そもそも、なぜこんな店にわたしを訪ねさせたのだろうか。そういえば、店を出る前になにか言われていたような……。
「……あ」
思い出した。今思えば、お師匠様が、こんな怪しげな店に何の対策もなく、わたしを向かわせるわけがないのだ。お師匠様には、本当に大切にしてもらっている。その自覚が、わたしにも少しはあるので。
「対価は……こちらで、よろしいでしょうか」
そう問いかけたわたしの手には、お師匠様から手渡された魔導具用の装飾品が煌めいていた。
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