第101話 休息
イリアの泊まる客室としてエルネストが一人で眠る寝室の隣をあてがわれた。そこは3階の北西の隅にあたる。
生活のめどが立つまでしばらく下宿していいと言われた。願っても無いことである。図々しく厄介になるのは本来気が引けるのだが、誤解で7回も石床に転がされたせいか、あまり罪悪感のようなものは感じなかった。
立派な寝台の上に寝転がるとまぶたが重くなり、まだ日の9刻ぐらいだというのにそのまま寝入ってしまった。
部屋の扉が叩かれる音を聞いて跳ね起きた。イリアの名を呼ぶ声はジゼルのものだ。
「はい。はい、起きてます。なんでしょう」
扉を開け、ハインリヒ邸で着ていたような普段着姿に戻ったジゼルが入って来た。
「寝ていたんですか。夕食が出来上がったので一緒に食べませんか。気詰まりなようでしたら、どこか場所を用意させますが」
「問題無いです。ご
「ずいぶん古めかしい言い方ですわね。イリアには似合いませんわ」
調理場に併設されている食堂は思っていたよりも狭く、よく言えば家庭的だった。大人数の客を迎えての会食などもこの店ですることはあるはずだが、おそらくそういったことは広い客間にあった大きな楕円の大卓でするのだろう。
4人がそれぞれの辺に座るのにちょうどいい大きさの、正方形の食卓の席に着く。ジゼル親子3人と客人のイリアだ。
西側に一つ窓があるが、もちろん外はもう暗くなっている。壁に二つの照明器具と、食卓の上に一つ燭台がある。普通なら十分明るいと言えるが、大きな窓のある昼間の室内と比べれば薄暗いのは間違いない。
にもかかわらず、食器をあやつるカルロッタの手さばきに不安げなところは感じられなかった。慣れた手つきで料理を口に運んでいる。
完全に目が見えなくても自力で生活する人もいるという。きっと自分の暮らす生活空間内であればカルロッタは助けを必要としないのだろう。
料理の主菜は
「おいしいですねこれ」
「お母さまの一番の得意料理です」
時間をかけてよく煮込まれて球菜の甘みがよく出ている。包まれている肉団子の味わいはイリアにもなじみのあるものだ。
「豚肉ですよねこれ。俺は養豚場で仕事ができないかと思って来たんですよ」
「まあそうでしたの。10日以上一緒に過ごしたのにナジアに来た目的を聞いていなかったなんて、わたくしもどうかしていますわね」
「いやあのとき話そうとしたんですよ。ほら、セラボタの駐屯軍の宿舎で二人きりになった時間があったじゃないですか」
「ああ、イリアの秘密の告白のときですね」
「そうです。もうジゼルさんはもう知ってるって言って、続けようと思ったら保全隊のみんなが入ってきちゃって……」
イリアは話を中断した。軽く咳払いをしてから、硬い表情をしているエルネストにむけてイリアは話した。
「……それで、エルネストさんはご存じないですか。デルモア牧場っていう養豚場なんですけど」
「デルモア氏は王都周辺の農村にいくつも牧場を持っている。養豚場もあるはずだ」
「モシニーとかいう森の近くの、たぶん去年造られたはずの所なんですけど」
「それはひょっとして、豚の半魔物化が問題になったところか?」
「そうですそうです。行き方ってわかりますか」
「その養豚場ならもう閉鎖されたはずだが」
イリアは食事用のナイフを持ったまま固まった。
「新聞で連日批判記事が続いたから覚えている。もともと魔境近くで養豚など無理があったんだ。養豚場は用水路の上流に作ったりすると、子供が病になったりするので設置場所が限られる。だからまあ、うまくいけば利益のある実験的な試みではあったんだがね」
「……嘘……」
「なんで嘘を吐かなきゃいかん。年明けごろの『ナジア経済時事』に記事があったように思うな。探させようか?」
イリアは一度強く両目を閉じ、深く呼吸してから開いた。
エルネストがそこまで言うなら本当なのだろう。
考えてみれば去年の9月の新聞記事を一枚読んだだけで、移住計画を立てること自体どうかしていた。
運営がうまくいっていないのだから事業を畳む可能性くらい予想できたし、そもそも思いついた時点、そのはるか数カ月も前の年明け。とっくの昔に閉鎖されていたということらしい。
「あれ? じゃあ俺は何のために王都まで来たことになるんです?」
「それは、知らんなあ」
翌日イリアは貸し与えられた部屋の寝台でダラダラと過ごしていた。昼食時に聞いたところジゼルの同じような状態らしい。
3日前ジノークの街でゆっくりできる機会があったのに、結局11日間連続で長距離移動を続けることになってしまった。疲れがたまっていることは否めない。
午後になり、部屋の扉が叩かれる音がした。ジゼルの鳴らした音よりもだいぶうるさい。返事をすると、入って来たのはエルネストだった。
「書類が出来たぞ。これを提出すればしばらくの間住民と同じ扱いで市街に出入りできる」
今朝エルネストに言われて渡した身分証。それと一緒に獣皮紙の書類一枚が返って来た。
内容を読むと、ハインリヒ商会王都支店の下宿人として身分を保証するという旨。それとエルネストの署名。斧と鋤を象った小さな紋章が判で押してある。
「いいんですか、こんなことまで」
「大したことじゃないから気にしなくていい。下宿人の数などは建物の部屋数に応じて厳しく規制されているが、違反しない限り不利益は特に無い。見ての通り、うちはたくさん部屋が余っているしな」
「じゃあ遠慮なく。 ……なるべく早く自立できるようにします」
「……」
寝台の縁に腰かけ、書類を持ったままぼうっとしているイリア。エルネストは用事が終わっても出て行こうとしない。
「そう落ち込むことは無いだろう」
「落ち込んでるように見えますか」
「君は戦士団の一員になる道を捨てて実家を出てきたのだろう? それで、他の生き方を模索するのであれば、ベルザモックよりはここに居た方が何かと機会は増えるぞ。王都ナジアは豊かだし、可能性に満ちている」
イリアは顔を上げた。エルネストは頭髪と同じ赤毛の口髭をひねりつつ見下ろしている。
「新市街の南の壁際に業者が運営する貸し倉庫があってな。もう20年以上前のことだが、その倉庫で私はつまらない管理業務の職に就いていた」
「なんの話です?」
「義父のハインリヒもその倉庫を利用していてね。商品の皿が割れているという苦情を言われて、私が割れ物の取り扱いについての規定を作って従業員に徹底させた。それでも陶器の破損が無くならずに、結局は向こうの、ハインリヒ商会側の落ち度だという事を明らかにしたんだ。私が」
「はあ」
「それがきっかけで私はハインリヒ氏に引き抜かれて、まあいろいろあって今に至る。意に沿わない働き方をしていてもそういう展開で、まあ幸せな生涯を手に入れられることもある。そういう希望がこの街にはあると思う」
エルネストなりの励ましなのだろう。
だが実際、今は体の疲れを取ることが優先していたのであって、別にそれほど落ち込んでいたわけでもない。落ち込むべきなような気もしないではないが。
書類の礼を言って、休息の続きを取らせてもらうことにした。
何をどうしたらいいのかと途方に暮れているわけでもないのだ。とりいそぎ、イリアにはやっておかなければいけない事がある。
ノバリヤを出る際に父から送られた魔石剤の事だ。作られてから数カ月は成長素を保っていられると聞くが、そもそもいつ作られたものなのか分からない。使用の期限が迫っているのかもしれないのだ。
イリアは自分で使えないのだから、せめて誰かに売って現金に換えてしまいたかった。
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