第13話 廃校
夕日は雲に隠れ見えなかったが、時間的には夕暮れ時だ。
駆と日向のふたりは、原付きを走らせ藤沢付近まで来ていた。
辺りはもう暗くなり始めている。あと一、二時間もすれば日は沈むだろう。
主要道路はひどい渋滞だったので、車や人の通りの少ない細い道をあえて選びここまできた。交通事故や火災で通行止めとなった道も多かった。その度に、迂回を余儀なくされた。
それでも、駆の方針はシンプルだったので判断に迷うことはなかった。
――逃げる、できるだけ遠くへ。
それだけ考え、スマホの方位アプリを随時チェックし(圏外でも利用できた)、電柱の住所表示なども確かめながら、基本的にはとにかく「西」を目指した。
駆には、愛知に親戚の叔母がいた。ひとまず、そこを目指そうと考えていた。
途中、トイレのために公園などに立ち寄った以外は、基本的に止まらず来た。
しかし、そろそろ、さすがにマズいかもなと駆は思ていった。
燃料計が、限りなく「E」に近づきつつあったのだ。
こうなる前に給油をと考え、道中でガソリンスタンドを探してきたのだが、どのスタンドも臨時休業で、ついにここまで給油することができなかった。
駆が思案し視線を燃料計に落としていた、その時――
――ガタン!
突然、異音が聞こえ、車体が何かに乗り上げるような感覚を覚えた。
そして、ハンドルが右に大きく振り切れた。
急いで前方に視線を戻し、ハンドルをニュートラルに戻そうとする。
が、すでにガードレールは迫っていた!
急いで、ブレーキレバーを力一杯握る。
結果的に、それがよくなかった。
原付きは、さらにバランスを崩し、ついに転倒した。
「キャッ!」
後方から、短い悲鳴が聞こえた。
原付きは、そのまま横滑りするような格好になった。
駆は即座に後方に飛び降りるように足を付いたが、日向は少し遅れたようだった。
振り返ると、日向は膝を押さえ、うずくまっていた。
急いでその場にかがむと、日向の膝の様子を見る。
擦過傷ができており、すぐに血が滲み出てきた。
「大丈夫か?」駆は尋ねた。
日向は顔を歪めながらも、なんとかうなずく。
「膝、動かせるか?」
駆が尋ねると、日向は本当にゆっくりと膝を動かした。
よかった、骨折などはしていないようだ。
しかし、すぐに立つのは難しいだろう。
駆は、目だけ前方に向け原付きも見た。
横倒しのままガードレールにぶつかり、後輪がカラカラと回っていた。
ボディは擦れ傷つき、ライトとミラーの破片が付近に散乱していた。
エンジンがかかったままだったので、急いで走っていき、とりあえず切った。
再び日向のもとに戻り、駆は屈むと彼女に背を向け、両腕を彼女の方に伸ばした。
「ほら、乗って。すぐには歩けないだろ?」
恥ずかしさもあったが、日向の膝の手当てが最優先だ。
「でも……」
「膝の傷、洗わないとだしさ。ほら、遠慮するなって」
返事はなかったが、しばらくすると背中にやわらかい重みを感じた。
太ももに力を入れ、立ち上がる。日向の温もりが背中全体に伝わる。
勝手に鼓動が速くなる。でも、極力意識しないようにする。
「重くない?」
「大丈夫、軽いよ」
「……嘘だ」
「嘘じゃないって」
本当にそう思った。日向って、こんなに軽いんだなって。
遠い昔、同じように日向を背負った記憶がある。ふたりともまだ小学生の頃だった。その時はひどく重く感じたのを覚えている。今では駆の方が身長は高いが、当時の駆と日向の身長はほぼ同じだった。あの時もやはり日向が足を怪我してべそをかき、なだめるように背負ったはずだ。駆は、そのことを思い出していた。
「前にもこんなこと、あったね」
彼女も偶然、同じことを思い出していたようだった。
そのまま駆は日向を背負い、しばらく歩いた。
道路沿いに公園や水飲み場でもあれば、と思っていた。
が、残念ながらそのような場所は都合よくなかった。
瞬く間に五分近くが経過し、さすがにどうしたものかと思った。
ちょうどその頃、左手にコンクリートの壁が見え始めた。壁には、カラフルな絵。虹に蝶、そして花々の、のびのびした描写。明らかに子供によるものだった。
その壁はほどなくフェンスに変わり、中に目を凝らすと古い校舎のような建物が見えた。
さらに進むと門が見えてきた。どうやら、見た目からして校門のようだ。
「学校、かな? ここなら水使わせてもらえるかも」
駆が言うと「そうだね」と背中で弾んだ声がした。
駆は期待を抱いたが、門が近づくにつれ、それも萎んだ。
門には太いチェーンがまかれ、大きな南京錠で施錠されていたからだ。
「廃校?」
「みたいだね」
よく見れば、門に日焼けしていない長方形の跡があった。おそらく、かつてはそこに学校名を記したプレートが貼られていたのだろう。
仕方ない。もう少し進もう。そう思って、駆が再び歩き出そうとすると、
「待って!」
背中から声がした。
「あそこ、あそこ見て!」
背中から伸びた手が、指差す方に目を向ける。
フェンスの一部に綻びがあり、子供なら余裕で出入りできそうに見えた。
「多分、私なら入れると思う」
「でも、膝は?」
「大丈夫だよ、もうだいぶよくなった気がするし」
「でも……」
「挑戦だけさせてよ、お願い」
駆は渋々、背中の日向をその綻びの前にゆっくり下ろした。
振り返ると、日向の膝の傷の血は固まりつつあるように見えた。
「本当に大丈夫か?」
それでも心配で駆は尋ねたが、日向は笑顔でうなずく。
そして、そのまま身をしなやかにかがめると、難なくフェンスの綻びに身を滑り込ませた。
「ほらね」
得意気な顔が、こちらを見た。
「体の柔らかさには自信あるんだ。じゃ、水道探してくるね」
「いや、ちょっと待てって!」
駆は、道路の左右を見渡すと人がいないのを確認し、フェンスによじ登り始めた。
「ねえ、駆くんこそ大丈夫?」
日向が心配そうに見上げたが、駆はムッとし「あぁ」とだけ答えた。
そして、まもなく日向の隣に着地した。
「ほらね」
ふたりは笑いあった。
「じゃ、行くか」
そう言って、駆が屈むと、
「もう大丈夫、歩けるよ」
と日向が返した。
実際、少し足を引きずるような格好だったが、ゆっくりなら歩けるようだった。
ふたりは並んで歩き、その敷地に水道を探した。
どうやら、やはり廃校らしく、校舎と校庭の間に水飲み場を兼ねた水道があった。
蛇口をひねると、ちゃんと水も出た。その水で日向の膝を洗った。
これで傷口はきれいになった。あと消毒液とガーゼでもあれば完璧なんだが。
そんなことを思いつつ、駆は改めて校舎を眺めた。
待てよ。もしここが本当に廃校なら、保健室もあるはず。運が良ければ……。
「ちょっと、ここで待ってて」
駆はそれだけ告げると、ダメ元で建物を調べてみようと考えた。
「えっ、どこ行くの?」
日向の声に、駆は振り返らずに答えた。
「ちょっと探検! すぐ戻るから!」
校舎をぐるりと壁沿いに見て回る。
掲示物の内容から、どうやら小学校だったことがわかる。
さらに進むと、当直室というシールの貼られた掃き出し窓が見えた。この窓から屋外にも出入りできるようになっていたようだ。
駆はなんとなく窓枠に触れてみた。
ん? 予想外の軽い感触に驚いた。窓がスライドしたのだ。
これって、開いてる⁉
さらに窓をスライドさせてみる。開いた。開いちゃったよ。
駆は興奮と緊張を覚えつつ、そっと中に足を踏み入れた。
カーテンを開け、薄暗い室内を見回す。
部屋の隅に細長いテーブルと椅子。さらに、仮眠用と思われる簡易ベッドがあった。テーブルの上には、電気ポット、灰皿など。壁には、巡回用だろうか懐中電灯がぶらさがっている。
駆は誰に言うでもなく「お邪魔します」とつぶやくと、土足のまま中に入り、そのまま当直室と思われる部屋を抜けると、校舎内の廊下に出た。
左右を見渡す。
右側の廊下の突き当りに「保健室」のプレートを見つけた。ビンゴだ。
それでも警戒を緩めず、駆はゆっくり進む。ついには保健室の前までやってきた。
恐る恐る扉を開ける。すると、室内には壁に備え付けの棚だけが残っていた。
棚の前に立つと、その中をさらに確認してみる。
「あっ」思わず声がもれた。ガーゼとテープが、そこにあった。
日向のもとに戻ると、駆は非難の視線を向けられた。
しかし、駆の手にしたものを見ると、日向の表情は驚きに変わった。
「どうしたの、それ? どこにあったの⁉」
「校舎の中に入れたんだ。で、保健室を見つけて、そこから。あっ、もちろん、盗んだわけじゃない! ちゃんと五百円置いてきたし」
そう駆が早口に告げると、日向はぷっと吹き出した。
「五百円置いてきたんだ。駆くんは、やっぱり駆くんだね」
「ど、どういう意味だよ」
「ほめてるの」
「はぁ?」
「ありがとう」
そう言われると何も返せず、駆は黙ってガーゼとテープで日向の膝の手当てを始めた。
「ありがとう」
手当てが終わると、日向はそう繰り返した。改めて言われると、なんともむずがゆい。
だから、会話の流れを変えたくて、駆は先程思いついたことを切り出すことにした。
「あのさ、今晩なんだけど――」
「――今晩?」
駆が次に言った言葉に、日向はひどく驚いた。
「ここに泊まらないか?」
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