第130話 夏の始まり

 遠藤さんとバイトを詰めすぎないと約束してから、彼女は自分の体も気を使うように予定を組むようになった。彼女に強引にでもバイトを休んでと言って良かったと思う。


 梅雨も開け始め、あっという間に夏になり、私たちは夏休みを目の前にしていた。


 家に帰ると遠藤さんが既に帰って来ていて、家の中はおいしそうな匂いがする。私は急いで荷物を置いて手を洗ってリビングに駆けつけた。鼻歌を歌いながら準備する遠藤さんの元に駆け寄って、彼女をぎゅっと抱きしめる。


「たきさわ……? どうしたの?」

「遠藤さん、ただいま」

「おかえり」


 帰ってくると「おかえり」と出迎えてくれる人がいるこの生活には未だに慣れない。いや、こんなの慣れなくていいと思う。これが当たり前なのではなく、遠藤さんが作ってくれるから成り立つ空間なのだ。だから、私は遠藤さんにできるかぎりのことはしたいと思っている。


「準備手伝うね。いつもありがとう」

「う、うん――」


 彼女のとても戸惑った声が聞こえたけれど、そのことは気にせず、私は食器棚の方に移動した。二人のコップを出し、ご飯を盛りつけるお皿を出す。私が出したお皿に遠藤さんの美味しそうなご飯がどんどん乗っていく。


 それを見ただけで空腹の胃が刺激されて、一刻も早く彼女のご飯を欲しがっていた。


「「いただきます」」


 遠藤さんと声が揃うことに少しだけ、違和感を感じる。ここ最近、二人で食べれないことも多かったので、胸がジンジンと温まる。


 今日のメニューは親子丼だった。

 

 なんでこの人はこんなになんでも作れるのだろうと不思議で仕方ない。ぷるぷるとした卵とごろっとした鶏肉が私の濡れた唇の間を通る。


 おいしい……。

 

 前に私の姉とどっちの親子丼おいしいか競う時も親子丼を作ってくれた。あの時はなんでそんな勝負するんだと嫌に思っていたが、その時から私の中では遠藤さんの親子丼の方がおいしかった。あの時は素直に言えなかったけれど、今ならちゃんと伝えられる。


「遠藤さんの親子丼好き」

「へ?」


 こういう恥ずかしいことを言った時に限って遠藤さんは私がもっと恥ずかしくなるような態度を取るから少し気に入らない。私はそのまま黙々と親子丼を口に運んだ。あっという間に親子丼は無くなり、片付けを始める。


「遠藤さん、話あるからソファーで待ってて欲しい」

「わかった」

 

 そんなことを言わなくても、私がリビングにいるかぎり、遠藤さんはリビングから離れないだろう。少しでも、私と一緒に居る時間を長くしようとする遠藤さんの行動を見て私の心はいつもくすぶられている。私が片付けをしていてもお風呂の準備をしても彼女はソファーの上からピクリとも動かず私を待っていた。


 あまりにも忠実過ぎて心配になるくらい、遠藤さんは私のお願いのほとんどを聞いてくれる。そこに彼女の意思はあるのだろうかと少し心配になる時がある。


 私はソファーで大人しく待っている遠藤さんの横に座った。


「話って何?」

「私もバイト始める」

「滝沢が? なんのバイトするの?」

「塾講のバイト」

「そっか……無理はしないでね?」

「それ遠藤さんに言われたくない」

「確かに」


 彼女と目を合わせるとふっと二人とも声を漏らして笑っていた。遠藤さんは私の腕をそっと引いて、顔を近づけてくる。


 こういう雰囲気にはだいぶ慣れたというか、慣れらさせられたというか……。遠藤さんは高校生の時よりも私に触れたがるようになった。そうされることが嫌じゃない自分がいるのでいつもそのまま受け入れている。


 柔らかい感触を感じたのは唇ではなく、頬だった。その事実に、少し納得しない自分がいるなんて、最近の私は少しおかしいのかもしれない。

 

「私も滝沢に話あるの」

「なに?」

「夏休みに舞と大学で仲良くなった咲彩さあやって子と海に行くんだけど、滝沢も一緒に行こ?」

「そんなの私がいたら邪魔だから行かない」

「大丈夫だよ。むしろ、舞と滝沢と行きたいところに咲彩が混ざって来ただけだから」

「私いると楽しくない雰囲気なっちゃうし」


 本当は遠藤さんが海に誘ってくれて嬉しかった。ただ、遠藤さんと二人ならいいかもしれないが、他の子もいるのならきっと私のせいで不快な思いをさせてしまうと思ったのだ。


 私はこれ以上、負の感情が湧かないようにソファーから立ち上がり、部屋に戻ろうとするとグッと腕を掴まれる。


「離してよ」

「海に一緒に行ってくれるなら離す。あと、滝沢行かないなら二人と行くの断るつもりだったから」

「は?」

「もう決定事項だから。今度、水着買いに行こ!」

「遠藤さんっていっつも勝手に私のこと決めるよね」


 私は部屋中に響き渡るくらい大きいため息をついた。そんなの全然気にしてないという感じで遠藤さんは嬉しそうだ。


「今からどんな水着着るかスマホで見ようよ」

「私、水着なんて着ないよ」

「やだ。滝沢の水着姿見たい」

「意味わかんない。遠藤さんだけ着ればいいじゃん」

「やだ。水着着てよ」

「やだ」

「やだ」

「あほなの?」

「今日は譲らないから。滝沢が水着着てくれないなら、しばらくご飯作らないから」


 ふんっと頭を振って私の方を見てくれなくなった。そんな遠藤さんは珍しいし、何より遠藤さんのご飯が食べられなくなるのは困る……。


「遠藤さんこっち向いて」

「滝沢が水着着てくれるならいいよ」

「着るから……」

「えっ!?」


 さっきまで頑なに私の方を見ないといった態度を取っていた少女は目を輝かせこちらを見ている。なんでそんなに私に水着を来て欲しいのか全く分からない。私はそのまま彼女の柔らかい頬を両方向に引っ張った。


「水着のことはいいから、ご飯作って」

「うん! 一生作る!」


 急に語彙力の失ったのか、遠藤さんはそれだけ言うとコクコクと頷いていた。


 この時の私はラッシュガードなんかを着る予定だったので、まあいいかと思っていたけれど、遠藤さんが選んだ水着を見て愕然とした。

 

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