私の太陽とあなたの星

第𓏸𓏸話 人生

　私は屋上の端に立っていた。

　足が一歩前に出る。出た足が宙に浮く――。

「はは……怖い……」

　私はすぐに出た足を地面につけ、建物の端から遠い壁に背中を付けた。心臓がどくどくと音を立てて鳴り止まなそうだ。

　あの時の私はそんな感覚すらも感じられないくらいに心が麻痺していた。あの時のことは今も最近のことのように思い出せる。そして、あそこで彼女との関係が始まったことも――。

　私の麻痺した心を解きほぐしてくれた彼女には感謝してもしきれないだろう。

　そろそろだろうか……。

　ガチャリと扉の開く音が聞こえた。

「滝沢先生、また居たんですか」

「こんにちは」

　目の前のセーラー服を着た少女は不服そうにズカズカと私の方へ歩いてきて、鋭い眼光で私を睨みつけてくる。睨みつける目は力強いはずなのにその瞳の奥に光は宿っていない。私はその顔に見覚えがある。

「邪魔しないでください」

「邪魔してないよ。それよりも、少し話をしようよ」

　私はそっと彼女の手を屋上の端からは遠い場所に引こうとするとその手はパシッと簡単に払われてしまった。

「先生と話すことなんてない」

「私はあるんだな」

「先生、そんな性格じゃ絶対友達いないですよね」

　なかなか鋭い子だと思う。こんな性格じゃなかった学生の頃も友達が多いようなタイプの人間ではなかった。今の私は少し強引かもしれない。私がこうなったのもどこかの誰かさんのおかげだ。

「友達少ないから話し相手になってよ」

「生徒に話し相手になれとか馬鹿じゃないですか」

　そう文句を言いつつも彼女は壁に背中を付けて腰を下ろしてくれたので私もその横にそっと腰を下ろした。

「先生授業は？」

「今の時間はないよ。和泉（いずみ）さんは？」

「それわざと聞いてます？　授業さぼってるに決まってるじゃないですか」

「私もよく授業さぼって屋上来てたなー」

　私がそう言うと思ってなかったのか和泉さんは驚いた表情をしていた。今日は空気が澄んでいて先程から私たちの間に何度も気持ちいい風が流れている。

「意外？」

「意外すぎます。授業さぼるのとか嫌いそうじゃないですか」

「今は先生ですから真面目なふりをしているだけですよ」

　私は得意ではない笑顔を作った。上手に笑えているかというと未だにこういう時はうまく笑えていないと思う。そんなの教師としてどうかと思うが、今は目の前の少女と一人の人間として向き合おうと思った。

　私は和泉さんの担任で彼女がここで危ないことをしているのをたまたま目撃してから心配で授業のない時間は屋上に来るようになった。和泉さんはサボる時間が多いのか頻繁にここで会うようになり、こうやって二人で話す時間が増えた。

　和泉さんが屋上の端に立っていた理由は聞かないほうがいいし、なにをしようとしていたかだいたい想像が付くので触れないことが良案なのだと思う。しかし、ここで和泉さんとの心の距離をそのままにしていてもきっと私も彼女もこのままで私は後悔すると思った。

「私と和泉さんがここで会った日、何してたの？」

　私はできるだけ真剣な雰囲気にならないように話しかける。

「先生に関係ないじゃないですか」

「関係あるよ」

「それは私の担任だからでしょ。だから先生って嫌い。大人は嫌い」

「先生も大人も嫌いでいいけど、あなたの担任だから知りたいんじゃないよ」

「じゃあ、なんで……」

　私は彼女を真っ直ぐ見たあとに少し微笑んでしまった。

「高校生の時の私に似てたから――」

　屋上で和泉さんがなにしようとしていたかは彼女の口から聞いたわけではないのでわからない。しかし、その時の表情は私が暗闇の中にいる時、毎朝鏡で見る表情と同じだった。

　そんな彼女を見て、頭で考えるよりも体が動いていた。

　今考えれば、彼女の選択をあそこで止めたことが正しかったかはわからない。もしかしたら、正しくなかったのかもしれない。

　そのせいで和泉さんは今も苦しそうだ。私は大きな過ちを犯している可能性だってある。しかし、自分のしたことを後悔しないように今だって沢山考えてたくさんの選択肢からこの道を選んでいる。

　私のしたことが間違えていたのなら、その事実は変えようのない事実で変えられるのは未来だけだ。私にそれだけの力があるとは思えないが、後悔のないように今を精一杯生きるようになった。

　和泉さんは私のことを目を大きくして見つめたあとに足を抱えて顔を隠していた。

「せんせい……大切な人を傷つけたまま会えなくなったり、その人が遠くに行ってしまったりしたらどうしますか……？」

　いつも威圧的な雰囲気を感じる彼女が今にも消えてしまいそうな様子だった。和泉さんに根気強く今まで話してきたけれど、そんな話は初めてで驚いてしまう。

　ここで何を言うのが正しいのかわからない。私の言動が彼女を余計苦しめてしまうかもしれない。

「あくまで先生ではなくて、滝沢星空としての意見なら教えてあげられるよ。あと、私の話を聞いたからって自分の選択を狭（せば）めたりしないと約束するのなら私の意見を話せるよ」

　私は彼女にそのまま小指を差し出す。和泉さんは少し戸惑っていたが、私の小指を強く握り返してくれた。

「教えてください」

「うん。私なら後悔しないようにやれることは全部やってその人に会いに行って傷つけてしまったことをしっかり謝るかな。その人のいる場所が地球の裏側でも月だったとしても会いに行くよ」

「どうして……？」

「だって、その大切な人に会える可能性がゼロじゃないのなら後悔したくないじゃん。大切なら尚更ね。全力を尽くしてもだめだったら、その時のことはその時考える」

　なんて私らしくない回答なのだろうと思う。しかし、そんな私らしくない私も今は私なのだ。

　彼女の質問に対する回答になっているかはわからないが、私の本音だ。

　そんな恥ずかしいことを言ったせいで私の頬には熱が集まっていた。

「ぷははっ。滝沢先生ってそんなこと言うんだ」

「そんな笑う？」

「いつも完璧で人間味ない人だと思ってたので。今のは滝沢星空さんの意見なんですね」

　彼女の顔はすこしだけ晴れている気がした。いや、私がそう思いたかっただけなのかもしれない。

「先生、今から授業戻ります。ありがとうございました」

　ぺこりと深々とお辞儀をして和泉さんは出ていってしまった。

　私はすくみそうな足の震えから解放され、ペタリと座り込んでしまう。

　私の意見が彼女の人生を大きく動かしてしまうかもしれない。そのことがすごく怖くて、信じられないほど重い重圧となって私にのしかかっていた。

　私の言葉が彼女を悪い方向へ加速してしまう可能性だってある。言葉ってなんて恐ろしいのだろうと思った。特にこの仕事に就いてからはそう感じる場面が多い。

　しかし、今日感じる風は何故か気持ちよかった。

　私は仕事を終えて見慣れた道を進む。寒かった冬が明けて過ごしやすい季節になった。しかし、これから体に湿度が纏わりつく季節がやってくるのかと思うと鬱々とした気分になる。

　マンションのポストを覗き何も入っていないことを確認すると胸が少し高鳴った。

　私はエレベーターの七の数字を押し、扉を閉める。体はくたくたなはずなのに家の扉まで進む足取りは軽かった。

　ガチャリと扉を開けると部屋の中からは少し眩しい光が目に差し込み、鼻から頭の奥に伝わる匂いにお腹と胸がそそられる。

「おかえり」

「ただいま」

　私はそのまま愛する人をぎゅっと抱きしめた。

「星空、なんかあった？」

「うん……」

「まず、ご飯食べよっか」

　遠藤さんは私の様子にすぐに気がついてそっと手を引いてくれた。彼女の作るご飯、彼女の温めてくれたお風呂、彼女のベットはすべてが私を優しく包み込み、私の心も体も温めてくれる。

　隣で横たわる女性はとても心配そうに私を見ていた。

「なにあったの？　無理に話してとは言わないけど」

　遠藤さんはそっと私を優しく抱きしめてくれた。目に熱いものが溜まる。学生の頃よりも歳を重ねて随分弱くなったと思う。いや、心が強くなったのだと思う。学生の頃は自分が傷つくのが怖くて何に対しても壁を作っていた。自分の心にも壁を作り、見て見ぬふりをしていた。

　今はちゃんと自分にも周りにも壁を作らず向き合うことができる。その分、沢山傷を負うことも増えたけれど、今の自分は前の自分より好きだと思う。それもこれも私が一人で生きていくのではなく、彼女と生きていくという選択をしたからだろう。

　私は少し気持ちが落ち着いたので彼女に話しかけた。

「遠藤さんはなんで私をあの時止めたの？　怖くなかった？」

　顔をあげて彼女を見ると少し驚いた顔をしていた。少し唸って難しい顔をした後に優しく微笑んで話を続けてくれた。

「なんでだろうね。体が勝手に動いてた。今、あの時と同じ状況に直面したら同じことができるかはわからないかな」

「なんで？」

「星空の自由な選択を奪って苦しめてしまうんじゃないかなって思うから。あの時はまだまだ考え方が幼くて、私の頭の中は綺麗事が並んでた。私は家族に置いていかれた側だったから、星空が死んだら私と同じ思いをする人がいるかもと思ったんだ。でも、みんなが自分みたいな状況とは限らないからね」

　遠藤さんは大きく息を吸って空気を吐き出している。私もそんな彼女の行動に連動して大きく息を吸っていた。

「だから、あの時は未熟な私で良かったと思ってる。星空は私があの時に勝手なことしたの恨んでる？」

「ううん。感謝してる」

「そっか。よかった」

　遠藤さんは嬉しそうな笑顔で私の頭を優しく撫でてくれた。その手が心地よくてずっとその温もりを感じていたくなる。私は頭を撫でる遠藤さんの手をぎゅっと握った。その力があまりに強かったか、遠藤さんの手からドクドクと音が伝わって来る気がする。

「最近、私と似ている生徒を見かけてね、その子のしていることを止めてしまったんだ。私はその子の選択肢を奪って、その子を苦しめているんじゃないかって不安になってた」

「星空は後悔してる？」

「後悔してるかどうかと言われたら少ししてるのかもしれないけど、それが後悔にならないように頑張ってるつもり」

「その子のことはなにも知らないけど、その子がいなくなったらきっと星空は一生後悔すると思うよ」

「なんで……？」

「滝沢星空は心温かい人だから」

　遠藤さんは私の胸のあたりにぽんぽんと手を当ててきた。彼女の触れたところから熱が伝わってくる気がする。本当にこの人は温かい人だと思う。

「後悔しないように頑張らないとね。無理はしてほしくないけど、辛くなったらいつでも支えるから」

「遠藤さんって太陽みたいな人だよね」

「ふふ。じゃあ、星空はお星さまみたいな人だね」

「星じゃあ輝いてるだけでなにもしてない」

「知ってる？　星って太陽と同じ恒星なんだよ。それって星空も太陽みたいな人だってことだよね」

　遠藤さんは恥ずかしいことを堂々と話していた。しかし、そんな小学生でもしないような会話を彼女とするだけで、私の心の蟠りはどんどんと溶けていく。

　私はなんて幸せな人間なのだろう。

　この幸せも彼女に対するこの熱い想いも生きていなければ感じることはできなかった。

　生きていてよかった――。

　この先もっと悩むことがたくさんあるのだろう。そのたびに苦しみ傷つき一人では立ち上がることができなくなってしまうかもしれない。

　しかし、遠藤さんがいてくれるのならば、どんなに辛くても苦しくても私は生きていたいと思えた。彼女がそばにいてくれるのならば、どんな壁にぶつかっても立ち上がる自信がある。

　もう逃げたりはしない。

　自分の気持からも自分の人生からも――。

「陽菜、愛してるよ」

　私はそっと彼女に優しく唇を重ねた。いつものあほそうな顔をした女性が目の前にいる。しかし、すぐに真剣な顔になって、今度は彼女に唇を奪われた。

「私も愛してる」

　苦しいくらいに遠藤さんに抱きしめられるので、私もそれに負けないくらい彼女を抱きしめた。

　この世界に生まれてこれてよかった。

　今抱きしめている人がこの世界に生まれてきてくれてよかった。

　星の数ほど人がいるこの世界で遠藤さんに出会えてよかった。

　生きて幸せになるという道を彼女と一緒に選んでよかった。

　毎日のように心から願っている。

　この幸せがいつまでも続きますように――。

　私は苦しいくらいの幸せに包まれて今日も生きている。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　【完】