モロッコでおっさんに怒鳴られた話(実話)

 北アフリカにあるモロッコは、フランス文化の影響を受けた可愛い雑貨や異国情緒あふれる街並みで、女子旅に人気がある旅先だ。


 ガイドブックなどを見ても、

「アフリカだが治安が良く、街歩きも安全」

「フランス語が公用語の一つであり、基本的に皆話せる」

「ひと昔前は市場でしつこい勧誘があったが、今は落ち着いている」

 など全面的にポジティブなことが書かれている。


 安全で、エレガントな言語を操り、美しい雑貨をゆっくりと吟味してショッピングが楽しめる国――。


 そんなのは、ガイドブック編集者の妄想である。



 暑すぎる夏を避けたつもりで二月のマラケシュ空港に降り立つと、28℃の熱気に迎えられた。

 さすがに湿気はないが、十分攻撃的な暑さにすぐ上着を脱ぐ。タクシードライバーはなぜかユニクロのウルトラライトダウンのようなものを着ており、人体の不思議を感じる。生きている環境に合わせて体感温度は変わるのだ。

 このドライバーが北欧に行ったら、きっと夏でも暖炉をつけるんだろうと思った。


 空港は都心に近く、ホテルまでは車でおよそ15分ほど。

 ちょうどチェックイン可能時間も過ぎているし、早く部屋に荷物を置いて、観光名所のフナ広場に繰り出そう。

 そんな気持ちでフロントのおじさんに挨拶をした。なお、おじさんはアントニオ〇木さんをアラブ風に仕上げた顔をしていたので、猪木と呼ぶことにする。ちなみに身長はそこまで高くなかった。


「ボンジュール。チェックインをしたいのですが」


「ようこそマラケシュへ。皆様のパスポートを私に渡してください」


 猪木がにこやかにそう言ったので、私もにこやかに手渡す。ロビーに漂ういい香りに、


「ちょっと奮発して四つ星ホテルにして良かったな」


 なんて考えながら、置かれたソファセットの一つに腰をおろした。

 別のソファにいる人たちには、モロッコ名物ミントティーがウェルカムドリンクとして提供されている。その美しい銀器は教科書(ガイドブック)で見たやつ!と思い、自分のところにも早く来ないかなとわくわくしていた。


 そして十分後。チェックインとしては長くかかっているが、まあこれもアラビアンタイムなのかも、と考えていた私に猪木が近寄ってきた。


「マダム、この紙にあなた方の情報を書いてください」


 猪木が渡してきた紙を見ると、それは懐かしい過去の遺物。インターネット無きいにしえの時代に、ホテルで毎回書かされていた「お客様情報」の紙だった。住所や電話番号、滞在日数などを手書きするその紙には、確かミスタービーンもホテルのエピソードの中で書いていた。


(これまでの十分間は何だったんだろう……)


 ふとそう思ったが、ここはアフリカ、そしてアラブ。猪木にも何か事情があったんだと納得し、通常ネット予約から引っ張ってこれるその情報を綺麗な字で記入した。


 猪木はもうフロントの自席に戻ってしまっているので、自分で立ち上がって渡しに行く。パソコンから顔を上げない猪木に


「Thank you」


 と言われ、なんだかちょっと失礼に感じた。訳するなら、ありがとう、ではなく、あんがと、という感じだったのである。



 それから二十分が経ち、ようやくミントティーが提供された。

 タクシーの中で、この時間にはフナ広場に着けているだろうと考えていた時間はすでに過ぎている。しかし一日に何度もメッカに祈る人たちなので、ちょうどそれに当たったのかもしれないし、がらんとしたロビーで些か考えにくいが、他の客の対応に手間取っているのかもしれない。


 無理矢理良い方向に考え、ミントティーを口にした。ものすごく甘いがなんとなくすっきりするその味わいは、なかなかクセになる。血糖値が上がり、苛立ちが少し収まった。



 しかし、その後十分が経ち、十五分が経っても猪木はずっとパソコンとにらめっこしたままだ。ミントティーはなくなり、ついてきたクッキーもとうの昔に腹の中。

 いったんは和らいだ苛立ちがまたムクムクと頭をもたげ始めた時、猪木より年配の男性が現れ、猪木に向かって早口でまくし立てながら紙の束をめくり始めた。

 実在の人物ではないが、中間管理録ト〇ガワの利根川によく似ていたので利根川と呼ぶ。


 確実に、何か問題が起きている。


 そう直感し、猪木に声をかけた。


「チェックインはできたのでしょうか?そろそろ部屋に行きたいのですが……」


「マダム、あなたの予約がないので部屋を準備できるか調整しようとしているところです」


 私は自分の耳を疑った。予約がない?そんなはずはない。


「今回はフライトと宿泊のパッケージで予約をしているので、そんなはずがありません。予約確定書も持っています」


 ぶちぶちと切れるホテルのwifiを諦め、ローミングでつなげた。後でキャリアから追いはぎの如く高額チャージが来るだろうが、背に腹は代えられない。

 メールで来ている確定書を見せた。


「そんな風なことが書いていますね……。ちょっと待っていてください」


 そんな風、じゃなくてはっきりそう書いてあるから!

 そう心の中で突っ込んだが、猪木はまたパソコンに目を落としてせわしなくマウスをクリックし始める。仕方なくもう一時間近くも占拠しているソファに戻った。

 何が起きているのかと問う同行者に事情を説明すると、


「まあ予約は出来ているんだし、なんとかなるでしょ」


 の一言。猪木の表情からはあまりなんとかなりそうな感じがしないのだが、とりあえず待つしかない。



 さらに時間が経ち、後から来た何組もの客がチェックインを終えて部屋へと向かっていくのを見送った。もうさすがに待ちきれなくなり、相変わらず書類をめくり続けている利根川に話しかける。


「いい加減、部屋に行きたいんですけどいつまで待てばいいんですか?」


「だから、予約がないんだよ!そんなあんた達に部屋をあけてあげられるか、こっちは頑張って調整してんだよ!」


 利根川が闇属性を露わにし、牙を剥いた瞬間だった。


「大手の旅行会社経由で予約していますし、セットで取ったフライトだって問題なく乗れました!旅行会社が突然倒産したりしていないことも確認しています!

 予約はあるはずです!」


「現実にないんだから、予約はない!だからとにかく待てって言ってるんだ!」


 こちらの必死の主張は右手ひと払いで退け、せわしなく紙の束をめくり続ける利根川。もう何周目なんだよ。なんの作業なんだか知らんが、パソコンで猪木にやらせろよ。


 怒りで何も言えずにいると、利根川はふと手を止めて猪木のもとへ行き、その紙を見せた。猪木と利根川はしばしの間パソコンと紙を交互に見、いくつか言葉を交わす。何らかの認識を共有し終わった後、利根川はまた我々が根を張るソファへとやってきた。


「あんたらの予約、見つけた。これだろう?ジュニアスイートルーム」


 利根川は、ほれ、という風に紙を差し出した。確か、普通の部屋と値段が変わらなかったのでそんな部屋を選んだはずだ。ほっとしながら紙を見た。




「予約名:ノリヤラ・ワリスンコン」




 誰やねん……。


 日本人の名前ですらないそれを見た時は、さすがに怒りを忘れて半笑いになってしまった(実際の名前は忘れましたが、こういう国籍不明な感じの名前でした)。


 利根川はこれまで三十分以上、自分が何を探しているかも分からず紙をめくっていたのだろうか。

 猪木はなぜこれで良しとしたのだろうか。

 そして、わざわざ書かされたあの古式ゆかしい紙の意味は?

 そもそもパスポート確認の意義とは……?


「イヤ、これ自分じゃないっス……」


 妙な笑みで顔を歪めながらそう言う極東からの渡航者を、利根川は驚愕の目で見た。


「あんたじゃないっていうのか……?」


「違います。パスポートの名前を見てください」


 信じられない、という顔をしながら利根川は猪木のもとへ大股で歩いて行き、パスポートを確認した。程なくして猪木に対して早口で何かまくし立て始めた利根川を見て、言語や文化の違いを乗り越えて私は確信した。


 あれは、部下に責任をなすりつけている。

 弱い立場の人のせいにする汚い大人の姿を今、目の当たりにしているんだ。



 三分ほど後、猪木がようやく


「部屋が準備できました」


 と声をかけてきた。利根川はひととおり吠えた後、奥に引っ込んだようだ。


「結局、予約は見つかったんですか?」


「いや、それはなかったと思う。でも、用意できましたから」


 褒めて褒めて、と言わんばかりの胸の張りようだ。けれど、なかったと「思う」って何なんだ?


「後で請求されるなんてことはないですよね?ちゃんと全額支払ってます」


「ああ、請求はされないですよ。最終日に宿泊税だけ支払ってください」


 猪木はちょっと気まずそうな笑顔でそう言った。


 ホテルが飛び込みの客を無料で泊めることなど、ありえない。

 やっぱり予約、あったんやーーーん!!

 私はそう言おうか迷ったが、猪木を追い詰めてもきっといいことなど何もない。


「ああ、そうですか」


 とだけ言って荷物を持ち、エレベーターへと向かった。



「これ、どうぞ。サービスです」


 微妙な贖罪意識が垣間見える薔薇一輪を各々手渡され、来たエレベーターに乗り込んだ我々に、猪木は誇らしげな顔で言った。


「こちらからのプレゼントで、ジュニアスイートのお部屋を用意しておきましたから!」


「いや、それがもともと予約しているグレードなんですけど……」


 そう返した私に、


「Oh....」


 とだけ言って黙って立ち尽くす彼は、エレベーターの扉の向こうに見えなくなった。



 そんなホテルなので、電灯が消えた真っ暗な廊下の先にある客室が、洗面所が詰まっていてタオルが足りない状況でも、とくに驚きはなかった。ただただ、屋根のあるところに泊まれる安心感で心は満ち足りていた。

 しかしモロッコには謝ったら負けな文化があるのか。今はそれのみぞ知りたい。


 妙にお買い得な四つ星ホテルの、掘り出し物っぽいジュニアスイートにはご注意を。


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