第17話 中野重治 『GAME7』

 5月25日 - 明治は当社が製造・販売するスナック菓子「カール」の中部地方以東での販売を同年8月生産分で終了すると発表、9月には当該地域店頭から消える見込み。

 

 数日後、和也は道場で弓道に打ち込むことに情熱を注いでいた。彼は毎日、熱心に稽古に励み、心身を鍛えることで自己を超えようと努力していた。


 道場では厳しい修行が行われ、先輩たちから厳しい指導を受ける中、和也は謙虚さと努力の大切さを学んでいった。彼の弓道への熱意は周囲にも伝わり、道場の仲間たちとの絆が深まっていった。


 弓を引く瞬間に集中し、一本一本の矢を丁寧に放つ中で、和也は自己の内面と向き合い、成長していく姿を見せていた。弓道を通じて、彼は精神的な強さや冷静さを身につけ、新たなる挑戦に臨む準備を整えていた。


 弓矢の歴史は石器時代にまで遡る。石鏃、簡素な造りの木弓が用いられた。日本では縄文時代草創期(13000年〜10000年前)には既に登場し、狩猟の道具として使用される。漆塗りに装飾を施した弓が狩りとった獲物と共に埋葬されるなど、呪術的・霊的用途に使われた形跡が既に見られる。弥生時代に入ると狩猟生活から稲作へと人々の生活が変化、それに伴い土地や水源確保のため領地争いが盛んになり、戦いの場で弓矢も武器として使用される。この時弓矢により強い威力を求めた改良がなされ、長尺、弓幹下側を握る弓となる。古墳時代には魏志倭人伝の記述から既に和弓の原型が見て取れる。


 飛鳥時代、『日本書紀』に「朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を長柄杜に看す。乃ち馬的射させたまふ」、他にも「騁射」「馳射」との記述があるなど神事としての騎射の原型も読み取れ、また飛鳥時代末期には文武天皇により『大射禄法』が定められ[3]、展覧されたとの記述もある。『続日本紀』には奈良時代には盛んに騎射が行われていたとの記述がある。室城神社の『矢形餅の神事』[4] などは起源が奈良時代まで遡り、既に弓矢の霊妙な力が信じられていた様子が窺える。古代までにはなんらかの弓術、礼式の形はあったと考えられるが、しかし史料も乏しく史実としての古代の弓射の実体は解っていない。またこの頃から存在していたという流派が伝承などで見られるが、史実としては後世の創作である可能性が高い。従って当時の流派の実在や、その発祥起源も不明である。


 この数百年の間に和弓の構造は大きく進化。江戸時代初期には堅帽子ゆがけの発明(ゆがけ項参照のこと)、さらに技術面では「角見」「弓返り」の技術が発明される等、この時期に弓術は現在の弓道に繋がる大きな進歩を遂げる。


 平安時代の10世紀頃、武家が登場した後、馬術・弓術(併せて騎射)は武芸として弓馬の道とも言われた。馬術・弓術は実戦武術としての稽古も盛んに行われるなど、戦国中期までは戦での主戦力であり非常に重要となった。また、弓矢は邪を祓う力があるとされ、霊器・神器として、精神性の高いものとして扱われていた(現在でも破魔弓として信仰の名残や各地で弓道、流鏑馬神事が行われている)。鎌倉時代には「騎射三物」と言われる、流鏑馬・犬追物・笠懸が武芸の一つとして、また行事ごとにおいて盛んに行われたが、室町時代・安土桃山時代と時代が進むにつれ一時的に衰退する。戦国後期に「弓」が戦場の主戦力から後退するが、依然「弓射」は武芸として、心身鍛練の道として流派と射術は発展していく。江戸時代に入ると流派単位の活動が盛んになる。江戸初期には三十三間堂の軒下(長さ約120m)を射通す「通し矢」が次第に盛んとなっていった。寛文9年(1669年)星野勘左衛門(日置流尾州竹林派)によって総矢数10,242本・通し矢数8,000本、貞享3年(1686年)和佐大八郎(日置流紀州竹林派)によって総矢数13,053本・通し矢数8,133本という大記録が生まれる。江戸中期、徳川吉宗により一時衰退していた流鏑馬が奨励され、以降、復興した流鏑馬が全国の神社等で神事として行われる。


 明治維新後は幕府の崩壊、各制度が廃止され武術は武芸としての目的を失う。文明開化、欧化思想の中で武術そのものが『時代遅れ』とされ、弓術もその例に漏れず衰退の一途をたどり、大衆の意識では『弓』と言えば賭け弓等の娯楽・性風俗の弓を指す程までにかつての弓術は影を潜める。その世相の中、一部の弓術家らは各々自宅道場を開く等、根強く弓術の存続に力を注ぎ、やがて武芸において再認識がされるなど次第に庶民の間でさらに武術が普及・見直され、明治28年(1895年)当時の武術家有志により大日本武徳会が結成され、弓術も奨励され心身鍛錬を目的として学校教育に取り入れられる等普及を図る。大正8年(1919年)に弓術は弓道へと改称、弓道含め各武道の普及は日本の内地(日本国内)に留まらず外地(日本が統治する国外の土地)にまで及んだ。ただ、当時の歴史的世相を反映して、武道は次第に国家の影響を受けるようになっていったとされる。


 武徳会の目的の一つに剣道形・柔道形など形の体系化があり、弓道もそれに習う形で射法統一が試みられた。昭和9年(1934年)様々な流派を代表する弓道家や武徳会弓道部役員が集まり、武徳会本部で射形統一が話し合われ、喧々囂々の議論の末「弓道要則」を制定した。しかし、流派関係者や文化人からの批判が相次ぎ、新聞紙上でも論争が起きて「鵺的射法」とまで揶揄されるまでに不評であった。武徳会が政府の外郭団体として再出発する際に再度射型改善の声が上がり、昭和19年(1944年)に「弓道教範制定委員会」の手によって「弓道教範」が作成され、「弓道要則」の射法と、従来の正面・斜面の射法を併せて認めるに至り終戦を迎える。第二次世界大戦後、GHQにより武徳会は解散(昭和21年(1946年))させられ武道全般禁止となるが、時の弓道家の尽力により昭和24年(1949年)日本弓道連盟設立。弓道は『修養の道』として復活し、当時を代表する弓道家らにより『射法八節』が定められ、現在に至る。

 

 和也は越前駅近くの佐々書店で、位置ゲーム『BOOKQUEST』に挑戦することに興奮していた。このゲームは現実の場所を舞台にして、様々なカードを集める冒険が楽しめるものだった。


 店内を探索しながら、和也はヒントを元にクエストを進めていった。本棚やカウンターの隅々まで見て回り、謎解きや仕掛けに挑戦した。


 佐々書店に仕掛けられたからくりは、古典的な日本の謎解き要素とモダンなテクノロジーが融合されたものだった。


1. **古書コーナーの謎**: 最初のヒントは古書コーナーにある一冊の古い書物に隠されていました。その書物は見た目こそ古びていたが、実は特殊な紙で作られており、一部には光を通すと特定の絵柄や文字が浮かび上がる仕掛けが施されていた。和也は店内の光を利用してこの謎を解き、次なる手がかりを手に入れた。


2. **暗号とメカニズムの部屋**: 特別なコーナーには暗号やメカニズムが仕掛けられた部屋があった。和也は古代の暗号を解読することで扉を開き、部屋内には複雑なギアやレバーを使ったメカニズムが配置されていた。これらの仕掛けを正確に操作することで、次なる隠し通路や秘密の部屋に進むことができた。


3. **隠し通路と秘密の部屋**: 店内にはさまざまな隠し通路や秘密の部屋が存在していた。これらの通路は壁の一部や本棚が動くことで開かれ、和也は探索する中で不思議な空間や隠されたアイテムに出会うことができた。特に秘密の部屋には重要な謎解き要素やカードの隠し場所があり、和也はそこで中野重治のカードを手に入れることができたのだった。


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