「濡女」
二点、お伝えしたいことがあります。
東から西の一帯には近時代の方が暮らしていますが、南には歴史が古い方がいます。
狂った末路は、
その魂を砕かなければ、
それらを避けるため、私どもは
「――って、神主さんは教えてくれたけど、オレが書いた
「お前の
何よあれ。この交差点を右に、とか書いてたけど。
不満げに
一同は伝説の泉があるとされる、
深緑の森と赤い紫陽花に挟まれた石畳の小道を、五〇〇メートル程真っ直ぐ進んだ先に、件の泉はあるのだという。
「よく書けてるじゃないか」
先頭を行く
「
「なんかちょっと馬鹿にしてます?」
「まさか。言葉通りだよ。俺も見たことがあるし」
「え!?」
「ほら、もう森を抜ける。
言葉と同時に森が開けた。
椋伍の目に飛び込んできたのは、木の柵と立て看板だ。看板は文字を掘りこみ、そこに墨のようなもので色を付けてある。
『
「泉どこ?」
「窪地だから、そこにある階段を下ったところじゃない?」
「ホントだ。思ってたより、その」
「汚い?」
「いや、まあその、色が濁ってるなあって。茶色い」
「んー、人が倒れてるなァ。ほら、泉の左奥に」
「ホントだヤベーッ!! もっと焦った感じ出してくださいよ
一足先にたどり着いた
文字通り飛び上がった椋伍は「塩ぶつけて助けてきます!!」と階段をかけ降りようとして「ちょっと待って」と
「アレが囮だったらどうするの?」
「塩ぶつけます!」
「……。アレが
「塩ぶつけます!」
「分かったわよ。着いていけばいいんでしょう?」
「今、ちゃんと会話したか?」
言うが早いか椋伍は、転がるようにして階段をかけ降り、それに菖蒲が付き添うことになった。
「お前……」
「何? どうしたの?」
「な、おやに、似てる。オレの、トモダチ」
村人は若い青年だった。
筋肉質で、衣服は甚平のような造り。腕が古傷だらけなのは、何か仕事をしている名残だろうか。黒髪は肩まで伸びているのを一纏めにし、黒々とした眉は苦しげに寄せられている。目はどうだろうか。閉じていて形がわからない。
だが、すっとした鼻筋と掘りの深さ、エラの張り方など、髪色以外のあらゆるものが椋伍の友人・
「……大方、ご先祖か前世といったところじゃないの?
「そっか……。あのー、もしもし? 起きれますか? 大丈夫ですか?」
「貸して。その箱邪魔でしょう? 中身諸共壊しておくわ」
「すみません、ありがとうございま――」
びちゃん。
水を含んだ何かが、地面に落ちるような音が、深夜の泉に響いた。
頭があるのだ。泉から出て突っ伏しているかのような頭が。
それは、長く濡れた髪がびったりとまとわりついた長い首についており、突っ伏した周辺の地面にじわじわと水たまりが今も広がっている。
ぐりん。
頭が椋伍の方にねじれて、瓜顔の女の白い顔が顕になり、ついーっと耳まで口の端を引き上げた。ちろり、と指のように細い舌が見え隠れして「アレが
「動くなよ、
菖蒲が背後を振り返ることなく、その黒い瞳で
「私が走ったら走れ」
ドンッ!!ビチビチビチッ!!
囁き終えた刹那、大きな水柱が泉からあがった。
まとまった水の塊が地面に弾け、けたたましい音を立てている。
椋伍は左、菖蒲は右。それぞれが村人に肩を貸し、声もかけずに地面を蹴った。
村人の足が引きずられるが仕方ない。これが一番早い逃げ方だ。
箱が転げる。拾えない。
椋伍が目で追った瞬間に、アレの長大な尾で箱は弾き飛ばされてしまった。
「ぎゃあああああヤバいヤバい!! 箱どっかいった!!」
「うるさい!! コイツが起きたらどうするの!?」
「走れっつってケツ叩けばいいじゃないですか!! 全然起きないけど!!」
「あーあー、大きな荷物なんか抱えて。泉に投げこめば良かったのに」
「出来るわけないでしょーが!!」
なんとか階段上まであがりきると、濡女は今まさに首を高くあげようとしているところだった。
窪地といえど高低差は、噂通りの全長を持つ濡女にとっては、なんということでもないだろう。
事実、背中を追いかけることもなく、椋伍らの動向をニタニタしながら観察しているようだった。
ひとでなしと吠える椋伍へ笑い返した夢月は、濡女を目視したまま、二人に下がるよう手で指示をする。
笑みを絶やさない口元に反し、その青い瞳は虫けらを見るようなものだった。
「そうそう。そこでちゃんと吠えているといい。ひとでなしでないとこれは務まらない仕事なんだから。……あ、そこのひとでなしも、どうせ人並みにしか動けないだろう? 観戦しておくといい」
「はァァ? 山で遊んでいたから
「え!? 菖蒲さんも行くんですか!? 怨霊に戻ったりしません!?」
「ならないわよ! 姉様が失望するでしょう!?」
木の柵に腰掛けて下方の濡女を見ている夢月に、怒りながら階段を降りていた菖蒲が上下で並んだ。
「
もう姿が見えない場所から椋伍へ、菖蒲の声が届く。
「もしも私が狂ったら、それ以上恥を晒さぬようお前が私を殺しなさい」
「なっ……!?」
「約束よ」
――約束するよ
「オレなんかと、約束するなよ……」
姉の声と後ろ姿が、椋伍の耳と瞼に蘇る。苦しげに吐かれた言葉は誰にも受け取って貰えないまま、ザザザザーッと大きなものが砂利を乱す音があたりに響いた。
「久しぶりだな、濡女」
夢月は柵に腰掛けたまま、高く高くあがった女の首に向けて親しげに、だが冷え冷えと話しかけた。
うりざね顔の女はなおもチロチロ舌を出し入れし、ぎろりと睨み、甲高い声で言い返す。
「ダレの話ゾ!!」
「ここに居たモノをどかしてやっただろう? そのおこぼれでお前はここに住むことができた訳だ。恩人に挨拶も無く、な」
「知らヌ!! 貢物も無ク場を踏み荒ラス、不届き者共メ!! 失せよ!!」
「知らぬわけがないだろうよ」
ぐう、と夢月が凄んだ。
濡女も怯み、糸のように細い目を見開いておろおろと体を揺らし、
「し、知らヌ。
「要らぬことを言うな。知っているだろう、俺を。山で聞かなかったか。お前が追われた海側の、
――え? マジで知り合いな感じ?
漏れ聞こえる会話に、椋伍は濡女の次に動揺していた。
椋伍の記憶が確かであれば、その知り合いを今から仕留める話をしていたはずである。
「ドン引きなんですけど」と言いたげに白くした顔を、森の隠れ場所からそっと覗かせる。
未だ気を失ったままの友人にそっくりな村人には、いつでも連れて逃げられるように肩を貸したままだ。
――駄目だ。全然見えない。夢月さん、一体どんな怖い顔してしゃべってんだろう?
椋伍には分からないだろう。
隠れ場所には背中を向けている夢月は、薄ら笑いを浮かべていた。
瞳孔を開き、濡女の目をえぐり出しそうな程にじい、と見つめて。
濡女は「西野山」と繰り返し、突如
「む……
そう呻きながら、蛇のような体を仰け反らせたのだった。
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