「濡女」

 二点、お伝えしたいことがあります。

 東から西の一帯には近時代の方が暮らしていますが、南には歴史が古い方がいます。

 神隠市カクリシという閉ざされた世界の中で、時代の齟齬そごを感じ取り、狂ってしまう案件が少数あったためです。

 狂った末路は、椋伍リョウゴさんもご存知でしょう。

 その魂を砕かなければ、神隠市カクリシの時を道連れに、同じ一日を繰り返すようになり、触発されて他にも狂う方も出ます。

 それらを避けるため、私どもはスミレ様と共に数年かけて居住区を分け、今では南の方々は他の地域の人々を「海外からの客人」だと認識しやすい状態です。下手に刺激をしない限りは、恐らく問題は起こらないでしょう。


「――って、神主さんは教えてくれたけど、オレが書いた濡女ヌレオンナのページにはノーコメントだったな。なんで?」

「お前の濡女ヌレオンナの姿絵が、信号機をむしり取っていたから困ったんでしょう」


 何よあれ。この交差点を右に、とか書いてたけど。

 不満げに神隠市カクリシノートをめくる椋伍リョウゴへ向けて、菖蒲アヤメは呆れたようにそう言う。

 一同は伝説の泉があるとされる、神隠市カクリシの南側の山の麓へ来ていた。

 深緑の森と赤い紫陽花に挟まれた石畳の小道を、五〇〇メートル程真っ直ぐ進んだ先に、件の泉はあるのだという。 


「よく書けてるじゃないか」


 先頭を行く夢月ムツキが振り返り、椋伍のノートをついっと眺めてからまた前へむく。


濡女ヌレオンナ。全長は三〇〇メートル超え。いつも髪が濡れていることから、その名がついたとされている。本当は海にいる。髪が長い。蛇みたい。この交差点を右に――ふはっ。まるで実際に遭遇ったことがあるような書き方で、俺は好きだなァ」

「なんかちょっと馬鹿にしてます?」

「まさか。言葉通りだよ。俺も見たことがあるし」

「え!?」

「ほら、もう森を抜ける。椋伍リョウゴ君は何か気配を感じたらすぐに塩を振りまくこと。あの巨体からは、まず逃げられないだろうから」


 言葉と同時に森が開けた。

 椋伍の目に飛び込んできたのは、木の柵と立て看板だ。看板は文字を掘りこみ、そこに墨のようなもので色を付けてある。

 『不成の泉フナリノイズミ』の人面アメフラシの伝説について書かれているようだ。


「泉どこ?」

「窪地だから、そこにある階段を下ったところじゃない?」

「ホントだ。思ってたより、その」

「汚い?」

「いや、まあその、色が濁ってるなあって。茶色い」

「んー、人が倒れてるなァ。ほら、泉の左奥に」

「ホントだヤベーッ!! もっと焦った感じ出してくださいよ夢月ムツキさん!!」


 一足先にたどり着いた夢月ムツキの横に、椋伍と菖蒲が柵に並んで泉を見下ろすと、夢月ムツキが酷くゆったりとした口調で笑って言う。

 文字通り飛び上がった椋伍は「塩ぶつけて助けてきます!!」と階段をかけ降りようとして「ちょっと待って」と菖蒲アヤメに制止された。


「アレが囮だったらどうするの?」

「塩ぶつけます!」

「……。アレが濡女ヌレオンナが化けた姿だったら?」

「塩ぶつけます!」

「分かったわよ。着いていけばいいんでしょう?」

「今、ちゃんと会話したか?」


 言うが早いか椋伍は、転がるようにして階段をかけ降り、それに菖蒲が付き添うことになった。

 夢月ムツキの問いかけには構わずに、倒れている村人に「大丈夫ですか!?」と声をかけて椋伍は助け起こし――固まる。


「お前……」

「何? どうしたの?」

「な、おやに、似てる。オレの、トモダチ」


 村人は若い青年だった。

 筋肉質で、衣服は甚平のような造り。腕が古傷だらけなのは、何か仕事をしている名残だろうか。黒髪は肩まで伸びているのを一纏めにし、黒々とした眉は苦しげに寄せられている。目はどうだろうか。閉じていて形がわからない。

 だが、すっとした鼻筋と掘りの深さ、エラの張り方など、髪色以外のあらゆるものが椋伍の友人・直弥ナオヤに似ていた。

 

「……大方、ご先祖か前世といったところじゃないの? 神隠市カクリシには死んだ村の連中が来るわけだし」

「そっか……。あのー、もしもし? 起きれますか? 大丈夫ですか?」

「貸して。その箱邪魔でしょう? 中身諸共壊しておくわ」

「すみません、ありがとうございま――」


 びちゃん。

 水を含んだ何かが、地面に落ちるような音が、深夜の泉に響いた。

 椋伍リョウゴの視線の先は菖蒲アヤメの向こう側。泉のほとりを凝視している。

 頭があるのだ。泉から出て突っ伏しているかのような頭が。

 それは、長く濡れた髪がびったりとまとわりついた長い首についており、突っ伏した周辺の地面にじわじわと水たまりが今も広がっている。

 ぐりん。

 頭が椋伍の方にねじれて、瓜顔の女の白い顔が顕になり、ついーっと耳まで口の端を引き上げた。ちろり、と指のように細い舌が見え隠れして「アレが濡女ソレだ」と椋伍は察した。


「動くなよ、時任トキトウ


 菖蒲が背後を振り返ることなく、その黒い瞳で椋伍リョウゴの目を見つめたまま、


「私が走ったら走れ」


 ドンッ!!ビチビチビチッ!!

 囁き終えた刹那、大きな水柱が泉からあがった。

 まとまった水の塊が地面に弾け、けたたましい音を立てている。

 椋伍は左、菖蒲は右。それぞれが村人に肩を貸し、声もかけずに地面を蹴った。

 村人の足が引きずられるが仕方ない。これが一番早い逃げ方だ。

 箱が転げる。拾えない。

 椋伍が目で追った瞬間に、アレの長大な尾で箱は弾き飛ばされてしまった。


「ぎゃあああああヤバいヤバい!! 箱どっかいった!!」

「うるさい!! コイツが起きたらどうするの!?」

「走れっつってケツ叩けばいいじゃないですか!! 全然起きないけど!!」

「あーあー、大きな荷物なんか抱えて。泉に投げこめば良かったのに」

「出来るわけないでしょーが!!」


 なんとか階段上まであがりきると、濡女は今まさに首を高くあげようとしているところだった。

 窪地といえど高低差は、噂通りの全長を持つ濡女にとっては、なんということでもないだろう。

 事実、背中を追いかけることもなく、椋伍らの動向をニタニタしながら観察しているようだった。

 ひとでなしと吠える椋伍へ笑い返した夢月は、濡女を目視したまま、二人に下がるよう手で指示をする。

 笑みを絶やさない口元に反し、その青い瞳は虫けらを見るようなものだった。


「そうそう。そこでちゃんと吠えているといい。ひとでなしでないとこれは務まらない仕事なんだから。……あ、そこのひとでなしも、どうせ人並みにしか動けないだろう? 観戦しておくといい」

「はァァ? 山で遊んでいたからサル並には動けるわよ!!」

「え!? 菖蒲さんも行くんですか!? 怨霊に戻ったりしません!?」

「ならないわよ! 姉様が失望するでしょう!?」


 木の柵に腰掛けて下方の濡女を見ている夢月に、怒りながら階段を降りていた菖蒲が上下で並んだ。

 

時任トキトウ


 もう姿が見えない場所から椋伍へ、菖蒲の声が届く。


「もしも私が狂ったら、それ以上恥を晒さぬようお前が私を殺しなさい」

「なっ……!?」

「約束よ」


――約束するよ


「オレなんかと、約束するなよ……」


 姉の声と後ろ姿が、椋伍の耳と瞼に蘇る。苦しげに吐かれた言葉は誰にも受け取って貰えないまま、ザザザザーッと大きなものが砂利を乱す音があたりに響いた。


「久しぶりだな、濡女」


 夢月は柵に腰掛けたまま、高く高くあがった女の首に向けて親しげに、だが冷え冷えと話しかけた。

 うりざね顔の女はなおもチロチロ舌を出し入れし、ぎろりと睨み、甲高い声で言い返す。


「ダレの話ゾ!!」

「ここに居たモノをどかしてやっただろう? そのおこぼれでお前はここに住むことができた訳だ。恩人に挨拶も無く、な」

「知らヌ!! 貢物も無ク場を踏み荒ラス、不届き者共メ!! 失せよ!!」

「知らぬわけがないだろうよ」


 ぐう、と夢月が凄んだ。

 濡女も怯み、糸のように細い目を見開いておろおろと体を揺らし、


「し、知らヌ。 ワラワはコの地に降り立った泉ノ神ゾ……。他に誰も居らぬ。妾のお陰で、泉ニ向け銭を投ゲるニンゲンも居るのダ……!! 土地が潤ウと、ニンゲンも口々に言うて感謝してオるわ!!」

「要らぬことを言うな。知っているだろう、俺を。山で聞かなかったか。お前が追われた海側の、西野山ニシノヤマでのことだ。俺のことを一切、本当に、その耳に入れたことはないか? ん?」


――え? マジで知り合いな感じ?


 漏れ聞こえる会話に、椋伍は濡女の次に動揺していた。

 椋伍の記憶が確かであれば、その知り合いを今から仕留める話をしていたはずである。

 「ドン引きなんですけど」と言いたげに白くした顔を、森の隠れ場所からそっと覗かせる。

 未だ気を失ったままの友人にそっくりな村人には、いつでも連れて逃げられるように肩を貸したままだ。


――駄目だ。全然見えない。夢月さん、一体どんな怖い顔してしゃべってんだろう?


 椋伍には分からないだろう。

 隠れ場所には背中を向けている夢月は、薄ら笑いを浮かべていた。

 瞳孔を開き、濡女の目をえぐり出しそうな程にじい、と見つめて。

 濡女は「西野山」と繰り返し、突如


「む……夢月ムツキ……まさか、其方が水御殿ミズゴテン夢月ムツキか!?」


 そう呻きながら、蛇のような体を仰け反らせたのだった。

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