〇新井薬師にあるフリースペースのオーナーが教えてくれたのだった。
考えてみると当たり前のことだが、Dの奥さんは中野に住んでいた。新井薬師にあるフリースペースのオーナーが教えてくれたのだった。
「彼女ならよく来るよ。」とその老オーナーは言った。
「ほんとですか。」とオレは驚いて言った。それまでDの奥さんについて情報は全然得られなかったのだ。
「そうさな。」と飄々としたオーナーは答える。
「では今度来られたら、ここに電話もらえるように言ってもらえますか。Dの相棒といえばわかると思います。」と言ってオレは連絡先をオーナーに渡した。
「わかった。」と老オーナーは言って、タバコをおいしそうに吸った。オレはそのフリースペースから歩いてすぐの新井薬師の寺に寄った。そこには新鮮な湧水が出ており、オレはそれで口を潤した。
「しかし。」まさかこんな近くにDの奥さんがいるとは。中野はオレとDがよく行く所で、馴染みのバーも居酒屋もあった。そりゃ確かにDは歩いてやってきていたが、オレは奴が一人で住んでいるような気がしていた。昔の印象かもしれない。
「とりあえず帰るとするか。」とオレ行こうとすると、寺の鐘がゴーンと鳴った。そして向こうからさっきのオーナーが歩いてくる。しかも女を連れて。
「やや。いたいた。」とオーナーは言って声をかけてくる。
「え、はい。」とオレが答えると、女の人が挨拶をした。
「いつもDがお世話になっております。」わりと品のある顔立ちと口調だ。
「いえ、あ、奥さんですね。こちらこそ。」とオレは頭を下げた。
「運が良かったですな。」とオーナーは言った。
「ありがとうございます。」とオレは感謝を述べて、商店街へと歩いて戻った。
「少し聞きたいことがありまして。」とオレは奥さんに言った。彼女はうなずく。二人で近くのカフェに入った。老オーナーには感謝を述べて。
「よく話しは聞いてます。」と奥さんはオレに言った。
「は、はい。」と答えながら、オレは自分が何て言われているのか想像もできない。
「家に呼んだらって言ったけど。」と奥さんは紅茶を飲みながら言った。
「全然知らなかったです。」とオレはコーヒーに口をつけて言う。
「ええ。あの人はシャイですから。」と奥さんが言うのを聞いて妙な気がした。オレが知らないDがそこにはいるようだ。長い付き合いとはいえ、奴が奥さんのことを話すのはクリスマスケーキを買ったときくらいのものだ。
オレたちはクリスマスケーキを食べながら、ワインを飲んだ。
「泣きたかったら、泣いてもいいんだぞ。」とオレが言っても、Dは涙を見せない。
「クリスマスに泣く奴があるか。」とDは強気の発言をした。
「奥さんに逃げられた奴がよく言うね。」とオレは笑ってやることにする。それが友情というものだ。
「逃げられたわけじゃない。気分転換だ。」あくまでDはそう言って、タバコに火をつける。
「じゃ、その離婚用紙は?」とオレは残酷な用紙を突き付ける。
「笑いの種。」と言うと、Dはその用紙を破いた。
「やっぱり稼いでないからじゃないのか。」とオレは冷静に言った。
「かもな。」とDも平静を装って答える。
「別れちまったらどうだ。」と悪魔のようにオレは囁いた。
「娘もいるんだぞ。」しかしDは首を縦に振らない。
「その気持ち、オレには分からないね。執着じゃないのか。」とオレは言った。
「一生分からないよ。」とDはタバコを吹かす。
「分かりたくもない。」とオレもワインを飲んだ。
「少し作戦を考えなくちゃな。」とDは言った。
「作戦って?」とオレは残りのケーキを切り刻む。
「嫁さん、ご機嫌作戦。」とDは平気で言ってのける。
「なんとも恥ずかしいかぎりだな。」とオレは笑った。
「笑いたかったら笑え。」とDは言う。
「ああ。」と答えて、もうオレは笑うことはできない。不憫に思えてきたのだ。
「どうしたら奥さんのご機嫌がなおるか。」とDは言って、タバコを吹かし続ける。
「働くしかないだろ。」とオレはまともなことを言った。
「ああ。」とDは黙り込む。
「それかプレゼントだな。サンタクロースみたいに。」とオレは適当なことを言う。
「金があれば、最初からそうする。」とDはのたまう。
「少しくらい何とかなるだろ。」とオレは言った。
「かもな。」とDは言って、残りのクリスマスケーキを食べつくした。
「もちろんDが失踪したことはご存じですね。」とオレが言うと、奥さんは軽くうなずいた。
「ええ。あの人は時々家に帰らないこともあるけど、これだけ長くなると。」彼女はそう言ったが、悲しそうには見えなかった。
「警察に届出を出したのは奥さんですか。」とオレは言った。彼女は再びうなずくと、紅茶に口をつける。
「警察から色々と事情を聞かれまして。話すのはちょっとあれでしたけど。」あれ?とはどういうことだ、とオレは思った。
「難しかったということですか。ま、警察も役立たずですからね。」とオレは言った。
「探偵、でしたっけ。」と彼女は少し軽んじるような口調で言った。
「はい。Dと一緒に始めたところで。」とオレは目をつむった。ロクな稼ぎになっていないのは知っている。だからと言って、言い訳するつもりはない。
「一応聞いてますが、詳細は知らなくて。」と彼女は言って、疎ましそうな目つきをした。もしかして女の嫉妬だろうか。オレがDと奥さんのことを知らないように、彼女もまたオレとDのことを知らないのかもしれない。
「まだまだこれからって時で。」とオレは話を濁した。何も探偵の話しをしたいわけじゃない。
「そうですか。」と奥さんは残念そうに言った。
「はい。それより、Dが行きそうな所はわかりますか。」とオレは一応聞いてみた。分かっていれば、警察にも話しをしているだろうが。
「どうですかね。」と奥さんは言った。
「なるほど。」とオレは言ってコーヒーを飲んだ。しばらく沈黙が続く。
「主人と出会ったのは、飛行機でした。」と唐突に彼女は言った。飛行機?
「それは初耳です。Dが飛行機に乗ってるのも想像できないな。」と言ってオレは笑った。実際空港や飛行機とDがつながる気がしなかったのだ。
「ええ、あたしスチュワーデスでしたの。今はキャビンアテンダントって言うのですか。」と彼女は言って上品そうに笑った。
「そうですね。」と言いつつオレは、まさかDの奥さんがキャビンアテンダントだとは思わなかった。空飛ぶウェイトレス。
「昔ですが。」どれくらい昔なのだろう。オレはDが結婚する前からの知り合いのはずだ。正確には奴がいつ結婚したのかオレは知らないが。もしかして、Dのことをマブダチだと思っていたのはオレの方だけだったのだろうか。
「なるほど。そして今は娘さんもいる。」とオレは話しを振ってみた。
「ええ。娘は小学生です。」と奥さんは答えた。
「Dのこと、娘さんは何か言っていますか。」とオレは言いながら、Dが家で父親をやっているのがうまく想像できなかった。
「何も。」と言って奥さんは目を伏せた。娘のことになると、それほど答えたくはないのだ。オレはコーヒーを飲んで、じっと彼女が顔を上げるのを待った。
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