2章

●女から電話があったのは、一週間もたってからだった。



 女から電話があったのは、一週間もたってからだった。

「もしもし、寧々です。」と相手は名乗った。

「はい。」と答えるオレは、バーテンとやりかけのオセロから目を離した。

「面接のことですが。」と寧々は静かに言った。

「はい。」とオレは口調を変えないように答える。

「ひそかに、だったら行けるかも。」と少しくだけた口調になって相手は言った。

「ひそかに、ですか。」とオレは相手の言葉を繰り返す。もちろん信頼を得るために。

「そう、公になってほしくないの。」と寧々は言う。電話越しにも、彼女の心配が伝わってきそうだ。

「なるほど。」とオレはシンプルに答えて、オセロの白と黒をじっと見た。

「もちろん、名前を変えることができたらそれが一番だけど。」変名まで使うとなると、少し手間がかかる。

「不可能ではありません。手間とお金さえ用意できれば。」とオレはあえて金銭のことを持ち出した。相手がどこまで用意があるのかも知っておきたかった。

「多少は。」と言いながら寧々は少し口ごもった。

「依頼の件も、忘れてはいません。」とオレはそこで以前に依頼されたことを持ち出した。

「ああ、あのことね。」と相手は少し躊躇した。心変わりがあったのかもしれない。それはいつでも起こりえることだ。

「こちらとしましては、それも金銭次第ということです。」シビアにビジネスとして提案すれば、相手が何を考えているのかわかる場合がある。

「そう、お金はなんとかするわ。」と相手は観念したように言った。何が一番重要なのかを考えてみることだ。

「ありがとうございます。じゃあ、依頼も含めて、面接の日に。」とオレはクールに言いながら、目の前の白と黒をひっくり返す。

「ええ。」と女は言って、電話を切った。オレもバーの受話機を置いた。バーテンはニヤっと笑って、最後の白を置く。すると、今まで黒だったところが一斉に白に変わった。

「まいった。」とオレはつぶやいて、ジントニックを飲み干した。しかしあの寧々という女、本当に××という男に惚れているのだろうか。一週間という時間がそれを物語っている。悩むには十分の時間だし、お金に関してもそれは言えた。いくらでも断ることはできたというのに。

「もう一度やろう。」と言って、オレはオセロをすべて板の上から取り去った。


 勝者には報酬がつきものだ。勝ち馬に乗りたい奴はたくさんいる。特に賭け事に秀でた女というやつは。男は馬鹿だから、負け犬にでも吠えられたいと願うものだ。もっと言えば、負け犬にほえ面をかかされるのも快感と知っている。

「そんなの、男の戯言。」と女は言った。

「そうですか。」とタクシーの中でオレは答えた。寧々はシックな装いをして、軽く香水の匂いまでさせている。それがどの程度功を奏すのか、オレには分からない。

「刑務所って、やってられないんでしょ。」と彼女は男のことを聞いた。

「刑務所ではなく、留置所です。」とオレは訂正したが、女は気にも留めないようだ。

「誰だって、嫌になるよね。」と女は外のうらびれた風景を見ながら言った。

「そうですね。」それだったらさっさと裁判に出て証言すればいい、とオレは思った。だが少なくとも彼女が新しい依頼人になるかもしれないうちは言わないでおいた。

「寒い。」と女は言った。それが季節外れの寒さからなのか、心理的な影響なのかオレには分からない。

「暖房を。」とオレはタクシーの運転手に言う。運転手は寡黙に、それを行動に移してみせた。

「遠い?」と女は黙ることなく、聞き続けた。少なくとも彼女が持っているクールさは保ちながら。

「そうですね。少しかかります。」とオレは答えた。

「なんで、捕まったのか。知ってる?」と彼女は初めて××の逮捕について触れた。

「いえ、細かいことまでは。」とオレは答えた。どう答えてもよかったが、彼女に喋らせるほうが得策だろう。

「そう。」と期待外れの、短い回答しかこないのでオレは内心がっかりした。

「企業とのカルテルですか?」と今度はオレの方から話しをふってみる。

「そうね。それと。」と彼女は言った。

「それと?」とオレは話しの続きを待つ。少なくともオレは敵ではないのだ。

「それと、内部密告者がいたってこと。」と彼女はため息をつきながら言った。女に似合うため息の仕方だった。

「密告者。」とオレは繰り返す。密告を行っていたのは××自身のはずではないのか。それをさらにスパイしていたものがいる。

「あたしよ。」と女は額に手をやりながら言った。オレはなんて答えていいのか分からない。

「そうだったのですね。」という無難な答え方をした。

「ええ。」と言う女の声は震えていた。それでタクシーの運転手がバックミラー越しに、こちらを覗いた。

「なるほど。」と言いながら、オレはタクシーの運転手に向かって首を振る。こっちを見るなという合図だ。タクシーはそのまま走り続けた。荒野とまでは言わないが、田舎町を通り過ぎる。野良犬も尻尾を巻くような風景だった。オレはフーっとため息をついて、窓の外を見た。外は今にも雨が降りそうだった。


「降ろして。」と寧々が途中で言い出した。

「どうしました。」とオレは彼女の表情を探る。

「いいから。」と彼女が言うので、オレは運転手に合図をする。

「ちょっと待っててくれ。」と言うと、オレは一人で降りた寧々を追った。

「やっぱり行けないわ。」と寧々は言った。

「ここまで来て?」とオレは聞く。風が彼女の髪の毛をなびかせる。

「はぁ。」と彼女はため息をつく。

「××さんが待っていますよ。」とオレは言った。

「わかってる、それは。」と寧々は答える。

「企業のことが怖くなったのですか。」とオレは挑戦的に言った。

「企業?」と聞く彼女の目は曇り空のように冷たかった。

「ええ、密告者であるあなたが××と会うことは許されないはず。」とオレは言った。

「そういう問題じゃないの。」そう言うと寧々は目をつむった。

「ではなにが。」と言いかけて、オレはしばし黙った。

「なにからなにまで。」と彼女は言って、天を仰いだ。

「混乱は、誰もがします。」とオレはなるべく平静を装って言った。

「ええ。」寧々は立ち尽くす。とうとう小雨が降ってきた。

「雨です。」とオレはあえてそう口に出した。

「ふぅ。」と彼女はまだためらいの中にいるようだ。

「もし、どうしてもと言うのなら、途中で帰ってもいいのです。」とオレは妥協案を出した。

「わかってる。」とだけ寧々は言った。

「どちらにしても、車内へどうぞ。」とオレは強くなる雨に向かって言った。

「そうね。」ようやく彼女は背中をひるがえした。

「わかりますよ、気持ちは。」とオレは同情してみせた。

「ありがとう。」と言いながら彼女はタクシーに乗り込む。

「どうします?」と運転手が聞くので、オレは手で制した。

「どちらでもいいのです、こちらとしては。」ともう一度確認のため言った。

「行きましょう。」と寧々はシンプルに答えた。


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