第10話
チャイムが二度も鳴り、朝のホームルームが終わった頃だった。
有馬は落ち着いたのか俺から急いで離れる。
「ご、ごめん。制服、汚れちゃった」
「気にするな。それより、もう平気か?」
「うん、もう平気よ。スッキリした…ずっと悩んでて、それを誰にも言えなかった。一人で頑張らないといけないと思ってた。でも、それは間違いだった…頼れる幼馴染が私にはいたもの」
「そうか」
俺は有馬の笑顔を見て、懐かしいと感じていた。数年前から変わっていないその眩しい笑顔が、中学生の俺は好きだった。
「ところでさ、その」
「ん?」
「累、私の事が好きって」
「あ、いや、大切な幼馴染って意味で……」
有馬は顔を真赤にして俺に言う。
俺も説明に必死だったから、細かい事はあんまり考えてなかった。
今俺、男として最低な行動してないか?
現在、俺は奥野と付き合っている状態だ。その状態で有馬に好意があるような言葉を使った事実…うん、充分に腐れ外道な事をしている。
俺が言い淀んでいると有馬は腕に抱きつく。
「私のこと嫌いじゃないんでしょ?」
「いや、そのだな」
「嘘なの?」
「ぐっ!」
そんな上目遣いは反則だと思う。それと、なんだか距離が近くないですか?
数年前は、そんな距離感じゃなかった気がするんだが。
「いや嘘という訳では」
「ねぇ、前から思ってたんだけどさ。累って本当は奥野さんと……」
「はいはーい、そこまでです。それ以上は駄目ですよ?お触り禁止です!」
俺が詰められていると奥野さんが俺と有馬の間に割って入る。
「お、奥野さん!?」
「…どうしてここにいるのよ」
「どうして?それは泥棒猫の気配がしたものですから」
「どっちが泥棒猫よ」
奥野さんは俺から有馬を引き剥がして、腕に抱きつく。二人の視線が交差し、火花が散っているように見えたんだが、見間違いだろう。
それと、いつもより奥野の力が強いのは気のせいか?かなり痛い。
「あの、奥野さん?どうしてここに」
「奥野さん?ねぇ、聞きたいんだけどさ。本当に累と付き合ってるわけ?」
俺はそれを聞いてこの前に杉谷に聞かれた事を思い出した。やはり、あの噂は本当に出回っているのか。
「それはどういう意味ですか?」
「累はね、人と上手く打ち解け合うのが苦手なの。根暗で奥手だし、自分から付き合いたいなんて言うほど積極的な人間じゃないわ」
おい、罵倒の方向性が変わってないか?言葉のナイフって知っている?
「でも、一度打ち解けると優しいし、かなり親しくしてくれる。どうして、彼女である貴方が名字で呼ばれているのかしら?前々から気になっていたのよね、あんた…累を利用してるでしょ」
「なるほど…ね?」
「いや、ね?って何だよ…っておい!?」
奥野は俺の腕から離れて有馬の前に出る。何をするのか全くわからなかったが、奥野は有馬に堂々と言う。
「確かに一般的なお付き合いをしているかと言えば…それは嘘になります」
「やっぱりね、累を早く自由にさせてあげて」
「それは無理です。まだ累君には、書いてもらっていません」
「何を書いてもらってないのよ?」
「婚姻届です」
「…ん、聞き間違いかしら? 今、婚姻届って」
「いえ、間違えてないですよ」
「は、はぁ!?」
有馬は信じられないような目で俺を見る。そうだよな。信じられないって顔をするよな。でも事実なんだよ。
「じゃ、じゃあもうそんな仲になってるの?」
「因みに俺は断っているからな」
「え? 本当にどういう事なの?」
俺は有馬に屋上で起きた事を伝える。すると奥野さんを睨みつける。
「最低じゃない!累、あんたなんでそんな事を受け入れてるのよ」
「仕方がないんだ。俺にも守るべきものがある」
俺はそう言うしかない。こんな事、有馬に教えることができるわけがない。
「有馬さん、教えてあげます。その代わり、目を瞑って欲しい事がいくつかあります。これは取引ですが、いかがしますか?」
「ちょっと奥野さん? それは」
「累は黙ってて…いいわ。教えて」
奥野は全てを有馬に話した。それは、もう全部を話してしまった。
後ろで両手で顔を覆いながら、俺は羞恥心に耐えていた。
「あんた…最低ね」
「ちょっと待ってくれ。俺が悪いのか?!」
「たかがえ、えっちな本でしょ!?別に見られたって良いじゃない。そんな小さいプライドを守るためにあんたはコイツと付き合ったわけ?信じられないんだけど」
「馬鹿を言うな! あれを家族に見られるくらいなら俺は死を選ぶ! 妹に死ねと罵倒されるんだぞ? 父親からはきっと生暖かい視線が飛んでくるに違いない。そんなの今の俺には耐えられない」
「これじゃあ…私が、落ち込んだのが馬鹿みたいじゃない」
有馬は独り言で小さくそう言葉をこぼす。聞こえた俺が不思議に思って聞こうとすると奥野さんに手で止められる。
「累君?それ以上は野暮というものです。有馬さん、いじめの件ですが…それはもう片付けました。今頃は、先生たちにもお話が伝わっているでしょう。午後のホームルームにでも先生からお話があると思います。私からも、クラスの皆さんに言いますので安心してください」
「なんで、そんな事をしてくれるの?」
「累君に褒められたいからです。さあ、累君…私、頑張りましたよね?」
「え? あぁ、情報は助かった。正直に言うと俺は今回の件は何もしていない。お前と仲直りしたいと奥野さんに相談しただけなんだ」
俺は有馬にそういう。有馬は何も言わずに俺の顔を見る。どう思っているんだろうな。がっかりしたんだろうか。それとも呆れているかもしれない。
「…報酬が欲しいですね。とびっきりの報酬が欲しいです」
俺はメモの内容を思い出した。正直に言えば、渡せる報酬なんて俺は持っていない。キスなんかが報酬になるんだったら、喜んでするだろうな。だが、それ以上となると思いつかない。
いや、まさかな…流石に奥野さんでもそんな事を言うはずないだろ。
「いや、でもな…俺にできることなんか」
「あるじゃないですか。私にできること…私とできることがありますよね?」
「…いや、お前何を」
「しょうがないですね、ファーストキスでも良いですよ? ここでしてください」
奥野さんは、そう言って俺の前で目を瞑る。心臓の鼓動が加速する。
キスなんか人生でしたことがない。どうすればいいのかわからず、ただ俺は息を呑んで奥野さんの肩に手を乗せ、顔に自分の顔を近づける。
そして、唇を重ねようとした時だった、不意にネクタイを掴まれて引っ張られる。
「あ、有馬? んっ!?」
俺は有馬に唇を奪われる形でキスをした。
その時間はあまりにも長く感じ、俺はその間はずっと息を止めていた。ようやく唇が離れ、有馬は俺を抱きしめる。
「ぷはぁ、はぁ…有馬ッ!?お前何して」
「そんなの許すわけないでしょ。泥棒猫なんかに渡さない!」
奥野さんはあまり驚いた様子はなく、それどころか笑っていた。余裕そうにしているその表情を見て俺はコイツが何を考えているのかわからなくなっていた。
「ファーストキスは取られてしまいましたね、残念です。累君とのキスはまた今度にします。それと、累君?」
「は、はい」
「いくら可愛くても他の子に目移りしたら許しませんよ?」
奥野さんは、有馬に何かを言うこともなく、俺にそう言いながら校舎の中に戻って行った。帰り際に見た顔に俺は、違和感を感じずにはいられなかった。
奥野さんのその顔は怒っているわけでもなく、悲しんでいるわけでもない。
俺にはなんだか楽しんでいるように思えたからだ。
有馬は耳まで赤くなっており、顔を見ていなくても恥ずかしがっているのが、想像できる。何か、反応してやるべきなんだろうが、何を言えばいいのだろう?
キスの感想か?…それはキモいな。そんなことより、先ずは有馬の気持ちを…。
俺がそう思って聞こうとする前に有馬が顔を上げる。
「わかってると思うけど、私、累のこと好きだから!」
「え、いやちょっと待てって…」
「今は無理!」
「えぇ…」
有馬は早口で好意を伝えられ、走って逃げるように校舎の中へと行ってしまった。
一人になった俺は、青空を見ながらそっと自分の曲がったネクタイを締める。
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