オフィスラブ、スタート! ③

 ――僕は絢乃会長と加奈子さんのお二人をステージ側面のドアからホール内へ誘導し、バッグとコートをお預かりした。

 スピーチの原稿は「この内容で大丈夫」とすぐにOKを頂いたが、絢乃さんはカーテンで仕切られた向こう側にズラズラと詰めかけていた大勢のメディア関係者に緊張されているようで、制服のスカートの裾をギュッと握りしめられていた。


「――絢乃さん? もしかして緊張されてます?」


 僕はあえて「会長」とはお呼びせずにお名前で呼び、彼女に声をかけた。会長としてのプレッシャーと必死に戦っておられる人を追い詰めてしまうようなことはしたくなかったのだ。

 すると、彼女は会場にあるカメラの向こうにいるであろう何万人、何十万人という人たちのことを気にされているようだった。元々人前に出ることがあまり得意ではなく、パーティーの締めの挨拶で少しは克服できたものの、さすがにあの時とケタ違いの人々から注目されている状況は怖くてたまらなかったのだろう。


「う~ん、なるほど……。僕、こういう時によく効くおまじないを知ってますよ。よろしければお教えしましょうか?」


 子供の頃から極度のあがり症だった僕にも彼女の気持ちはよく理解できたので、僕は彼女に母直伝のおまじないを伝授して差し上げようと思い立った。大人になった今では、ちょっとバカバカしいとも思っているので少々恥ずかしくもあったが。


「はい。子供の頃に、母から教わったベタなおまじないなんですけど。『目の前にいるのは人間じゃなく、カボチャだと思え』だそうです」


「カボチャ……。確かにベタだね」


 それを聞いた途端、彼女はほがらかに笑い出した。母さん、やっぱりこのおまじない、ベタベタすぎるって……。でも、絢乃さんが笑って下さったからいいか。

 そして多分、彼女の中で僕の好感度は爆上がりしたはずだ。別に計算したわけじゃないが。


「ありがと、桐島さん。もう大丈夫! 貴方のおかげで、おまじないなしでもやれそうな気がしてきた」


 僕の想定とは違う形ではあるものの、彼女の緊張を解すことができたので、僕の秘書としてのスタートは上々と言っていいだろう。特別何をしたというわけでもないが。


 司会進行を務める久保の呼びかけを受け、加奈子さんとお二人でステージへ向われる新会長の背中はすごく頼もしく見えた。



 絢乃新会長の就任スピーチを、僕はステージ横で見守っていた。

 時に原稿どおりに、時にはご自身の言葉で語られる彼女の姿は本当に凛々しく、それは彼女だけでなく僕も待ち焦がれていた瞬間だった。彼女はまさに、この瞬間のために生まれてきた人なんだと思えた。


 僕が驚いたのは、亡き源一氏が絢乃さん個人に宛てた(後から知ったことだが加奈子さん宛てのもあったそうだ)遺書を遺されていたことで、その存在については僕も知らされていなかった。

 そこには、絢乃さんのご意志で会長の職を誰かに譲ってもいいと書かれており、まだ高校生だった彼女が会長としての重責に縛られることを源一氏は望んでいなかったのだと僕も初めて知った。彼女はそれでも会長としての責務を立派に果たしていくと明言され、加奈子さんも母親としてそんなお嬢さんを全力で支えていきたいと語られていた。

 その後の質疑応答でも、絢乃会長は一つ一つの質問に――時には少々意地の悪い質問もあったが――丁寧に受け答えされていた。その姿からは、二刀流を果たしていくことへの覚悟がポーズだけではないことをひしひしと感じ取れた。

 そんな彼女に、僕は「お疲れさまでした」の気持ちを込めて心からの拍手を送った。



   * * * *



 ――会見が終わった後、加奈子さんは「今後の打ち合わせがあるから」と、先に村上社長とご一緒に重役フロアーである三十四階へ上がって行かれ、僕と絢乃さんは二階にしばらく留まっていたのだが。絢乃さんは無事に司会の任務を終えた久保のところへ駆け寄って行った。

 ……一体、ヤツに何をおっしゃる気だろうか。僕は彼女が他の男に声をかけに行ったのが正直面白くなかったので、半ばイヤイヤながら彼女について行った。


「――あ、久保さん。司会進行お疲れさまでした!」


「会長! お疲れさまです。桐島も。わざわざどうされたんですか?」


 突然雲の上の人から声をかけられた久保は、普段の彼からは想像もつかないくらいピンと姿勢を正していた。お前、普段はそんなんじゃないだろ。っていうか桐島「も」って何なんだ。人をオマケみたいに言いやがって。


「貴方の進行がよかったおかげで、記者会見がスムーズにできました。ありがとうございました。父もよくこうして社員の頑張りをねぎらっていたそうなんで、わたしもそれにならってみたんです」


 彼女がどうしてコイツに声をかけたのか疑問だったが、何のことはない。ただお父さまの葬儀に続いて司会を頑張ってくれた(少なくとも彼女の中では)この男に、労いの言葉をかけたかっただけだったのだ。今は亡きお父さまも生前そうされていたように。……嫉妬心き出しだった俺、なんかみっともない。


「ところで、どうして広報の人間じゃなくて総務の僕が司会をやってたんだ、って思ったでしょう? 桐島、お前もそう思ったよな?」


 久保がそこで、僕と彼女もいちばん疑問に思っていたポイントを話題にした。

 僕の認識でも広報活動の一環である記者会見の司会進行は広報部の人間がやるものだと思っていたし、その点は絢乃会長も同様だった。そこへきて、どうして総務課所属のこの男がわざわざしゃしゃり出てくるんだと、僕にはそこが引っかかっていたのだが。


「俺は、が広報から手柄を横取りしたんじゃないかって思ったけど……。違うのか、久保?」


 彼も絢乃会長には言いづらい理由でも、僕になら同期のよしみではなしやすかろうと思い、その可能性をぶつけてみた。……そういえば、絢乃さんの前で初めて「俺」って言ったかもしれない。

 すると、返ってきた答えはこうだった。当初司会を務める予定だった広報部にいる僕たちの同期が急に体調を崩してしまい、久保は本人から個人的にピンチヒッターを頼まれたのだと。久保は元々イベントごとなどで司会をやることに慣れているので打ってつけだと思われたのだろう。……つまり、島谷氏は何の関係もなかったわけである。


 僕と久保は絢乃さんそっちのけで、つい同期のノリで盛り上がってしまったが、彼女は「あなたは司会に向いている」と久保のことを褒めちぎっておられた。本当に、この男が総務にいるなんてもったいないと僕も思う。

 彼は別れ際に会長の前で僕のことを絶賛し、「桐島のことをよろしくお願いします」と頭を下げていた。僕にとっては付き合いの長い同期からの、このうえないはなむけの言葉だった。


 久保と別れてから、絢乃さんは会長として部署ごとに仕事が割り振られる会社のシステムを見直さなければ、とおっしゃった。社員一人一人が部署の括りにとらわれることなく、やりたい仕事ができるようにしたい、と。


「桐島さんだって、入社前にはこの会社でやってみたいと思った仕事があったでしょ? 総務課に配属されたのは貴方の意志じゃないはずだよね」


 そう訊ねられた時、僕は初めて入社当時のことを彼女に打ち明けた。本当はコーヒーに関わる部署で働きたかったのだと。

 そこで「今はもう未練はないの?」と訊かれたが、「秘書としてなら望んでいた形ではないけれどコーヒーに関わる仕事もできるので、それはそれで満足です」と僕は答えた。

 今は大好きな絢乃さんのために働きたい、というのが僕のウソいつわりない本心である。

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