19.歴史の分岐点
大垣市内 工場跡
正紀28年(西暦2004年)7月18日(日) 午後9時
暗闇に目を慣らすため明かりのない室内に、4人分の息遣いがかすかに響く。
緊張で息が詰まりそうになる暗闇の中で、時を刻む秒針の音にみなが聞き入っている。一秒一秒の進みが遅く感じられて、研ぎ澄まされた神経が鳥の声、虫の声、風の音、木々のざわめき、普段は意識しない自然の音を鮮明にとらえる。
「……もう間もなく時間だ」
沈黙を最初に破ったのは安城拓真の声だった。
かれは自分が皇国へと送ることになる3人へ問いかける。
大学教授である加賀敦、そして教え子である月島景子、藤本幸也。
「今更だな」
顔を見合わせ、頷く3人。もちろん拓真の問いかけがただの形式に過ぎないことは分かっている。
「……とはいえ、なぜこんなことになってしまったかと考えずにはいられないが」
加賀が遠い目をして語り始める。
「……私が皇国に持ち込もうとしている研究成果など、本来は何の政治的意図もないものの筈なんだ、本来は……それがこの国――日本が二つに分断されてしまったことで、全てが変化してしまったんだ……我々は、この国は何を、どこで間違えてしまったのかと、な」
「我々も、歴史を研究するものとしてどうしても考えずにはいられませんからね……分断されずに、違う歴史を歩んだ日本がもしあるのなら、と考えたことは一度ではないですよ」
藤本が加賀の言葉を引き継いだ。
――違う歴史、か。拓真とて、それは同じだ。一体なにが違えば、俺たちはあんな目に合わずにすんだのか? かれは自分たちが矯正施設へと連れ去られたあの日から問い続けていた。
かれの数少ない趣味も、そうした思考に関することだった。
「架空戦記って言葉を聞いたことは?」
「いや、聞いたことはないが……」
架空戦記は90年代頃から皇国で静かなブームになっている小説ジャンルのひとつだった。読んで字のごとく、架空の戦記であるのだが、いわゆるファンタジー作品ではなく現実の歴史でのIFを扱う作品を指す言葉だ。
戦国時代や、第二次、第三次大戦でのIFにより歴史がどう変わっていくのかを妄想することを楽しむのだ。こういった作品郡が流行になるのは、ある意味で現在の歴史への不満が、創作という分野で噴出した結果かもしれない。
「……言論の自由が許されている皇国ならではね」
説明を聞いた月島のもらした感想が、全てを物語っている。そうした小説を共和国で執筆出版しようものなら、現体制への批判ととられてしまう可能性だってあるのだから。
やはりと言うべきか、特に人気の架空戦記は第三次世界大戦――つまり太平洋戦争を題材にしたものが多かった。栄華を誇った大日本帝国がアメリカに敗れ、日本皇国として新たな道を歩むことになったその戦争で、もし勝利していたならば、と。
日本人であるなら、妄想せずにはいられないのだから。
その後の米国占領支配も、皇国と共和国に分断された国家となることもなかったのではと考えている皇国の人間は多い。
皇国に亡命した拓真は、そうした架空戦記小説にのめりこんでいった。
それが、現実逃避だとは理解していても、架空戦記の物語で描かれるIFのどれかが実現していたのならば、日本は分断せずにすんだのではないかとの妄想はかれの精神にとって都合のいいものだったのだから。
「架空戦記では日本の歴史の分岐点として様々な出来事が描かれてるんですが、その中で自分が面白いなと思ったものが、坂本龍馬に関してなんです」
「坂本龍馬? また随分とマイナーな人物を……」
「その本では、もし坂本龍馬が暗殺されていたらという歴史改変から物語がスタートしているんです」
「確か、イギリスと関係が深かった武器商人だと記憶しているが……」
記憶をたどるそぶりを見せる加賀も曖昧な言葉しか出てこない。他の二人も坂本龍馬という人物に心当たりはないようだった。
無理もない、よほど幕末から
そして、かれの名前を知る者でもその評価は毀誉褒貶が激しい。
その理由が、まさに加賀の口にした武器商人という事情だ。坂本龍馬は幕末から明慈期に英国の商会と手を組んで大量の武器を日本に売りつけたことで知られる。その過程でかれは英国の意向を日本政府に伝えるメッセンジャーと化しており、ある種明慈維新後の日本政府が英国の意向に従うことになった原因の一人であるとされているのだ。
「戦前この国がアジアにおける英国の代理人とも呼ばれるようになったのは坂本龍馬が原因であり、かれの存在がなければ日本は英国の使いっぱしりのような扱いではなく、真に独立した存在としてアジア太平洋地域に確固たる地位を築けたのだと」
「……その考えが出るということは、皇国における英国への感情は今も複雑であると言うわけだ」
坂本龍馬が英国依存の原因をつくったというのが、事実かどうかは分からない。分かっているのはかれが幕末・明慈期に英国からの武器供与を仲介することで莫大な利益を得たということだけだ。
むしろ、事実としてみれば、第三次世界大戦において米国との戦争が始まったときに米国への負債を理由に日本を半ば見捨てた英国への恨みだろうと加賀は分析する。
「坂本龍馬が暗殺されかかったというのは聞いたことがなかったが、仮に暗殺されていたのだとしても一人の人間の生死が歴史に与える影響を大きくとらえすぎでは?」
先史考古学が専攻とはいえ、歴史をよく知る加賀にとっては拓真の語るIFはにわかに受け入れがたいものだった。
とはいえ、拓真とて今の話を信じている訳ではない。かれはあくまで歴史の転換とは些細な事象で訪れる可能性を示唆したに過ぎない。
架空戦記を読み漁ってかれがたどり着いた結論は、歴史の転換点が無数にあり、その結果がどうなるかなど誰にも想像つかないというあたり前のものだった。
――ただ、それならば自分の手で今後の歴史を変えられるのでは?
そう思考できることが、安城拓真の特異性と精神の強さを表していた。
「……無駄話に付き合わせてしまいましたが――ちょうど時間です」
「いや、おかげで緊張がほぐれたよ」
4人の人間が一斉に動き始める。
「では行きましょうか、皇国に。共和国とは違う自由の国へと」
今日は新月であり、光が乏しい夜の闇の中へと亡命者たちは踏み出していった。
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