第8話 アジサイ

「朝日さ~ん」


 舞奈さんが手を振りながら僕を呼んだ。僕はウキウキした気持ちで駅前にいる舞奈さんに向かって早歩きをする。


 昨日の憤りはスヴャトスフラ・リヒテルのピアノで癒してもらった。いや、昨日の僕が少しだけおかしかっただけだ。


 リヒテルの響きはそんな僕の怒りを覚ますように、僕の琴線を優しく震わせた。ピアノを弾くのではなく撫でるように奏でられたリヒテルの演奏は僕の狭い心を広く大きくしてくれた気がした。


 あぁ、世の中の人達、申し訳ありませんでした。僕は心が狭すぎたのだ。僕にとって意味のないモノでも、もしかしたら誰かにとっては意味のあるモノなのかもしれないじゃないか?あんな演奏が?あんな物語が?あんな映画が?おっと、またもや心の狭い僕が顔を覗かせてくる。


 だがそんな僕も、舞奈さんに近付くに従って霧散していくのがわかった。


「す、すみません……待たせてしまいましたか?」


 せっかくのデートなんだし、待たせるのはまずいと思った。だから10分前に到着したのだが、既に舞奈さんはいた。あんまり早すぎても気持ち悪がられるかもしれないと思ったのだが失敗したようだ。


「私もさっき着いたところなので、気にしなくて大丈夫ですよ?」


 僕は後頭部をかきながら照れ笑いを浮かべるだけだった。


「じゃあ行きましょうか?」


 舞奈さんは僕を先導し、歩みを進める。僕は彼女がどこへ向かおうとしているのかわからなかった。映画館やレジャー施設は反対方向だし、ショッピングにしても賑わっている所を通り過ぎてしまった。


 蝉の鳴き声と照り付ける太陽、次第に汗をじんわりとかき始める。


 とうとう閑静な住宅街へと入り、とある神社の前に差し掛かろうとしたその時、舞奈さんが言った。


「あっ、今日ここで縁日があるみたいですよ?」


「あっ、へぇ~……」


「夕方に立ち寄ってみても良いですねぇ~」


「そ、そうですね……」


「朝日さんはお祭りはお好きですか?」


「ま、まぁ……」


「私も大好きなんですよぉ、かき氷に杏飴、型抜きとかも好きでした!」


 僕は黙って話に合わせるだけで舞奈さんの言葉を聞いていた。


「だけど最近、縁日にもタピオカやケバブとか外国の食べ物が参入してきて……なんだか神社でそれって変ですよね?」


「あぁ、確かに……」


「ですよね!?」


 舞奈さんが近付いて僕の同意に反応を示す。


 ──可愛い……


 舞奈さんはまたクルリと僕から背を向けてどこだかわからない目的地へと歩く。


「暑いですよね、でももう少しで着きますから!」


 僕は頷き、彼女の後をついていく。


 一体どこへ行くのだろうか。


 ──も、もしかして、いきなり彼女の家か!?


 僕はゴクリと喉を鳴らす。


「あっ!見えてきました!」


 そこは閑静な住宅街に相応しい、大きな日本家屋だった。そこを彼女は指差している。高い塀に囲まれ、その高い塀越しでも木造の大きな日本家屋の上階部分を見ることができた。


 塀にはポスターが貼られていて『立ち上がれ日本の党』の男性がガッツポーズをしていた。駅前で演説をしていた人だと思う。


 そうだ、舞奈さんはこの政党を応援しているのだ。


「どうぞ」


 舞奈さんはそう言って門を潜った。僕も舞奈さんにならってくぐると、僕は呆気にとられた。


「凄い……」


 門をくぐると、荘厳な日本家屋が見てとれた。その玄関までの導線には日本庭園のような色とりどりの紫陽花と、群青色のキキョウ、真っ直ぐ大きく伸びる黄色いひまわり等、趣深い造りとなっていた。


 日本家屋の他には石造りの蔵とポツンと建っている離れが見える。


 僕は舞奈さんの後についていき、盆栽のような綺麗なカットの施された低木の間と導線としてか、地面に埋め込まれた滑らかに石の上を通り抜け、日本家屋へと入った。


「こんにちは~!」


 舞奈さんがそう言うと、中から上品な着物を着たおばさんがやって来た。


 ──舞奈さんのお母さん!?


 舞奈さんは僕のことを紹介した。


「こちらが、朝日さんです」


 僕は礼をして後頭部をかいた。


「まぁ、こちらの方がぁ~!あぁ、そうですかそうですか。お話は伊原いばらさんから聞いておりますよぉ」


 舞奈さんがどんな話をしていたのかわからないが、僕は不思議に思った。


 ──自分の娘を名字で呼ぶのだろうか……


 僕がそんなことを思っていると、着物を着たおばさんは、言った。


「ささ、お上がりになって?」


 舞奈さんは靴を脱いで、涼やかな茶色い木の床に上がる。


「じゃあ、朝日さん荷物を置いて講堂に行きましょうか」


 ──講堂?

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