第5話 四月一日嘘日記記憶書物

右手と左手に立ち並ぶ本棚、左手前に置かれている円形のテーブルとソファ。一見本屋かとも思ったが、右手前の棚には花瓶や遠目ではよくわからないものに値札がついていて、その薄暗い空間に立ち込める雰囲気というものはあの日記帳と同じものを感じさせた。

正面奥にカウンターがあり、そこで年老いた男性が何やら作業をしているようだった。

「クロ、お願い。」

下を向いたまま突然喋りだしたかと思ったら、「はーい」と声がして奥から十歳ほどの一人の女の子が出てきた。

黒髪に黒目、黒いワンピース。特別珍しい格好でもないのに、クロと呼ばれているのが納得できるような立ち姿だった。

女の子はこちらの顔を怪訝そうな顔で覗き込んだ。

「え、でもこの人......。」

そこまで聞くとカウンターの男性は顔を上げ、メガネを調節して目を凝らしてこちらを見た。

すると真剣だった表情が一変し、少し笑みを浮かべながら、

「なるほど。ではこちらへお座りください。」

とカウンターの前へ手招きした。

カウンターの前の木製の椅子に腰かけ、男性とカウンターを挟んで相対する形になった。

どこから話し出そうか、言葉を迷っていると、

「すみません、あまり私は仕事を好まないほうでして。ですが貴方は特別なので。」

と、何かの設計図のような紙をトントンと揃えて引き出しに戻した。

男性はこちらの顔に視点を合わせ、姿勢を向き直した。

「ようこそいらっしゃいました。ここはいりあい堂。お客様のお望みを少しだけお手伝いさせていただきます。」

どこかとても古い巻物を広げたような、時計がここだけ止まったような感覚だった。

少しだけ埃が舞っているその空間で男性は続けた。

「私はここの店主のポプラと申します。別に覚えてもらうほどの名前でもございませんが。さて、日記をお出し願いますか?」

あれ、日記のことをなぜ知っているのだろう。祖父が事前に連絡してくれていたのだろうか。

手荷物を木目の床に置いて、背負っていたリュックから日記帳をカウンターに置いた。

「かなり綺麗にご使用いただいているようですね。ありがとうございます。」

ポプラさんは日記帳を憂げな顔で見つめた。

「どれほどの方にご使用いただけたのでしょうか。まぁ、そんなの知る由もないのですがね。この日記帳は私が作ったものでして。どこからともなく現れては、不要になったら自然となくなってしまう。そんなものなのです。」

「これはポプラさんが作ったものだったんですか。」

「えぇ、私がここを始めてから最初に作ったものなんです。なので、この日記帳に関わるお客様はどんなに面倒でも丁寧にご対応させていただくと決めているんです。」

「ポプラさん、ここ迄対応してるの珍しいくらいなんですよ。」

カウンターにクロさんがお茶を出してくれた。

「別にいいんだよ、仕事ってのは好きな時に好きなだけやるんだ。好きでもないことをやるのは仕事とは言えないよ。たとえそれがここに入って来れた人だとしても、やらないと決めた時はやらないの。」

……人生とはそういうものなのだろうか。理解し難いな。

「さて、これなら少しお手伝いできそうです。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか。」

「あ、はい! どうかよろしくお願いします!」

どれだけでも、あの人に、しずくさんに会えるならば。

……なぜ僕はここまであの人に執着しているのだろう。恋でもしているのだろうか。

でも会って話をしてみたいという一心でここまで行動したのは初めてだった。

何か特別な縁のようなものを感じていたのだ。

ポプラさんは何か少し考えて口を開いた。

「……クロ、やり方は教えるからお前がやってみるか?」

「えっ? でも、いいの?」

「あぁ、お前もお客様の区別がもうついているようだしな。」

「……わかった。ありがとう。」

「お客様……いえ、宗像拓様ですね。こちら、必ず望み通りに仕上げますのでこの子にお仕事させていただいてもよろしいでしょうか。」

「全然大丈夫です。」

そうするとクロさんは満面の笑みで「よろしくお願いします。」とだけ言って、ポプラさんと奥の方へと走っていった。数分後、ポプラさんだけがこちらに出てきた。

「お客様をお待たせする間、少しお話でもしませんか。」

「あ、はい。」

どうしよう、何か話題は……。

「貴方のお祖父様、誠治様は私の初めてのお客様でした。」

ポプラさんはカップのコーヒーを口にし、語り始めた。

「誠治様はここにいらっしゃって、[気の合う人間と話してみたい]という願いを持っていらっしゃいました。それで、あの日記帳を作ることにしたのです。すると、とても喜んでくださって。誠治さんは今はお元気にしていらっしゃいますか?」

「えぇ、まぁ、祖母は四、五ヵ月前に亡くなりましたけど。」

「……そうですか。華様が……。」

ポプラさんはとても悲しそうな目をしていた。

「誠治様は日記を作成してから一年後に華様と共に此方にいらっしゃいまして。ほら、そちらにあるのが二人のお写真でございます。」

ポプラさんが手を向けた方向には古いフォトスタンドに若い頃の二人が笑顔で写っていた。

「それから、お顔を見せに来られたことはありませんでしたが。そうですか、奥様はもう既に亡くなっていらっしゃったのですね。」

そして暫しの沈黙が訪れた。どうにかそれを埋めてみようとコップの麦茶を喫する。

「……すこし、辛気臭い話をしてしまいましたね。すみません。あの方々をいまでも思い出す程、記憶に残っているものですから。」

「いえいえ。」

「しかし、不思議なものです。あの日記帳が貴方の手に渡るなんて。不思議な縁ですね。」

「そうですね、僕も祖父に日記の話をしたとき驚きました。」

「やっぱりこの世界は何が起こるかわからないものですね。」

まぁ何が起こるかわからないから僕たち人間というものは人生というものを面白いと思えるのだろう。

未来が分かってしまったらそれは人生のネタバレになってしまう。

何もわからずに、闇雲に何も知らないままに生きて時には失敗する。一度しか体験できない本のようなもの。それが人生なんだ。

「......拓様、別にこれはあなた様が決めることなのですが、あの日記帳、不要になったら処分してもいいのですが。」

「え、どうしてでしょうか。」

ポプラさんは笑みを浮かべて続ける。

「あの日記帳が今あなたの手にあるのは奇跡のようなものなのです。あの日記帳は不要になれば自分から消えて、またどこかに行ってしまうもの。あなたが処分してしまえばもう片方の日記も消失します。その場合最後の所有者は永遠に貴方だということになるのです。まぁ私の願望にすぎないのですがね。」

あの日記を?

確かにもし雫さんに会えたらあの日記は不要になる。

ポプラさんの意思もそう言っている。

......。

「いえ、あの日記帳は残しておきたいです。消えてしまうのは少し寂しいですし、僕が使った後も何人もの人に使われて、助けていくのでしょうし。そしてなにより......。」

「なにより?」

「もし僕に子供ができたりして、その子の手に日記帳が渡ったりしたら嬉しいではないですか。」

その言葉にポプラさんは心底驚いているようだった。

「どうかしましたか?」

「......いえ、何でもありません。とても素敵だと思います。」

ポプラさんはそう笑顔で言ってくれた。

「モノには付喪神というものが宿ります。その日記帳にもそうです。ここはそういう、付喪神様を宿すモノ屋なのです。貴方のような方に拾われてその日記も嬉しがっている......いや、その日記があなたを選んだのかもしれませんね。そしてあなたの子供にも受け継がれていくのかもしれませんね。」

「そうですか。嬉しい言葉をありがとうございます。」

「いえいえ、私もあなたのような方にあえてとてもうれしく思っております。」

「ポプラさん、できました。どうでしょうか。」

クロさんが奥から日記帳と一緒に一冊の本のようなものを持ってきた。

「ふむ、上出来だ。よくやったな。」

「本当? 嬉しい!」

ポプラさんはクロさんの頭を撫でていた。

「拓様、こちらが今回のモノになります。」

カウンターの上に置かれた一冊の本。それには『四月一日嘘日記記憶書物』と書かれていた。

「この本の使い方をご説明いたします。と言っても、とても簡単。この本にはこの世界に存在する四月一日嘘日記の内容が記録されています。」

ポプラさんが開いたページには四月一日に交わした日記の数々が記録されていた。

「このように、消えてしまった日の日記の内容もこの本には記憶されています。ですが気をつけて欲しい点が二つ。」

人差し指と中指を立てて続ける。

「一つ目、この本も日記帳と同様、カメラなどの記憶媒体で保存することはできません。そして二つ目、この本は日記の内容が増えれば増えるほど厚くなります。ですが、所有者が日記帳を手放した場合、所有者が残した日記の内容も全て消失します。」

「つまり……。」

「お相手の方が日記を手放す前に、見つける必要があります。」

制限時間付きの手がかり、リミットはあの人が日記を捨てるまで。

「すみません、もう読んでみてもいいでしょうか。」

「勿論です。どうぞ。」

手早にページを捲る。さっき開いていた四月一日のページを超え、昨日自分がつけたページも超える。

……あった。

どうやら彼女は僕が日記を手に入れる半年ほど前から少しずつ日記をつけているようだった。

流れるように文字を目で追っていく。

『10/14,この日記帳を見つけた。病院の談話室の本棚で見つけた。看護師さんに聞いてみたら、この病院のものではないらしい。使っていいとのことなのでちょっとずつ日記でもつけていこうかな。』

病院? しずくさんは入院中なのか?

『10/16,なんで見つけた時に気がつかなかったんだろう。一ページ目に何か書いてある。四月一日嘘日記? 変梃な名前だな、でも面白そうだ。四月一日を楽しみにしておこうっと。まぁでもその時まで生きているかはわからないけどね。』

そこまで酷い病気なのだろうか。

『11/5,今日は雪が降った。病院の窓から見える一面の雪景色は綺麗だったな。あとで雪だるまでも作りに行こうかな。』

『11/6,昨日作った雪だるまを窓辺に置いていたら溶けてしまった。まぁ、雪はいつか溶けるもの。またいつか雪が降ったら作ろうっと。』

『11/13,来月軽い手術をするらしい。病気の進行を抑える手術なんだそうだ。成功するといいな。』

『11/27,私の誕生日だからと両親が水色の雫が描かれた栞をくれた。人にとっては栞より良いものがあるという人もいるかもしれないが、本が大好きな私にとってはとても嬉しかった。それと看護婦さんがケーキを一切れ持ってきてくれた。来年も何かもらえたらいいな。』

雫か......。名前にちなんでプレゼントしたのだろうか。

『12/11,手術は無事に終わった。これからも数か月に一回のペースで手術をすることになるそうだ。少しずつよくなるといいな。』

......なんだろう、この感じ。

「......なんか、これを読んでいると人の中身をのぞいているような気がして罪悪感がありますね。」

「そうですね、でも、貴方はこれの使い方を間違ったりはしないと信じていますから。」

ポプラさんは僕の目を見て微笑んだ。

......そのまま何も考えず読み続けよう。

『12/25,今日はクリスマスだ。起きたら枕元にプレゼントが置かれていた。中身は前々から欲しかった本だった。とても嬉しい。少しずつ読もうっと。今日はご飯も少し豪華だった。』

『12/31,大みそか。年越しそばを食べた。と言っても他に何もすることが無い。強いて言うなら特番を見ることくらい。来年はどんな年になるんだろう。今年よりいい事があるといいな。』

『1/1,年が変わった。明けましておめでとう。みんなが行くであろう初詣にもこの体では行けない。病気が治りますようにと神様にお願いすることもできない。おとなしくお餅でも食べてゆっくり過ごそう。』

......?少し日付が離れているようだ。

『3/14,また手術を受けた。これからは薬での治療も増えていくだろう。薬、あまり好きじゃないな。』

『3/21,日に日に体調が悪くなっていくのを感じる。薬のせいなのか病気のせいなのかは分からない。辛い。』

『3/31、日記を書く気力さえなくなってきた。そういえば明日はエイプリルフール、この日記帳の内容もリセットされて一日限定の交換日記ができるんだっけ。明日は日記を開いてみようかな。』

僕たちが日記を交わしたあの日、しずくさんの容体は良くなかったんだ。

そんなの、日記には現れてなかったのに。

『4/2,交換日記はとても面白かった。この病室にはあまり人が来ないから、久しぶりに友達ができたみたいでとても楽しかったな。来年もーー。』

『来年も』の横には水で濡れたようなシミが出来ていた。

……。

『4/3,病室から見える大きな桜の木が満開だった。丁度この時期が見頃みたい。看護婦さんに桜の花びらを一枚取ってきてもらった。しばらくは枕元に置いておこう。』

日記はここで途切れていた。


「桜の木のある病院……?」

「少しはお手伝い出来たでしょうか。」

「はい! ありがとうございます!」

ここからは僕が頑張らないと。

「えーっと、お代は?」

「あぁ、構いませんよ。此処はそういう所なので。」

「え、でも……。」

「いいのです。」

何かを与えてもらったのに、此方からは何も与えないなんて。

「……せめて、何かお礼だけでも。」

ポプラさんは目を見開いて少し考えてから口を開いた。

「……では、もしお相手の方とお会いしたら、可能であればで良いので此処にまた二人でいらっしゃってください。歓迎いたします。」

「……わかりました! 絶対にまた此処に来ます!」

帰る準備をしている時、ポプラさんは再び口を開いた。

「……拓様は、誠治様……お祖父様のことは好きですか?」

「そうですね。あの人は色んな人に信頼されているので。そういうところは尊敬しています。僕にとって、将来こういう人になりたいっていう目標が祖父です。」

「そうですか。なれると思いますよ。きっと。」

「本当ですか? ありがとうございます!」

日記帳と記憶書物をリュックに入れる。

「書物は定期的に確認することをお勧めします。まだその記録が消えていないということはまだ日記が手元にあるということ。また新しく日記の項目が増えることも予想されますので。」

「分かりました。」

荷物をもって扉に手をかける。

「あ、さっき、名前なんて覚えなくていいっておっしゃってましたが、絶対に忘れません!」

彼は眼を瞑って笑った。

「本当に同じことをおっしゃられますね。」

「え? なんですか?」

「いえ、何でもございません。しがない老人の独り言です。誠治様によろしくお伝えください。」

「わかりました。ありがとうございました。」

扉を力いっぱいに開ける。

オレンジ色の光が店に差し込んだ。

時間が止まったように感じられていた空間に再び時が流れ始めた。そんな気がした。

「またのご来店を心よりお待ちしております。」

ポプラさんに手を振って扉を閉めた。

時刻は既に日の入り。いりあい堂は夕日に照らされ、とても輝いて見えた。

時間が止まっていたような体験に思いを馳せながら少し進んで振り返るとそこにはいりあい堂の姿はなく、売地の看板だけが残っていた。

夢だったのだろうか。そんな考えは手元にある記憶書物が否定してくれた。

夢だと思えるほどの体験を心に記憶して、ホテルへと戻った。

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