第113話山口での正月
翌日、山田が昨日のことについて話をしてきた。
「T君はあんなやからいじめられても仕方がない。俺はてっきりリンダが喜ぶと思って誘っただけ」
などと言っていたが、私はきっぱりと
「お前とはもう話すことはない。俺に近づくな」
そう言って一切のかかわりを拒んだ。T君とは、1年の時はクラスが都が打ということもあって、顔を合わせることもなかったが、2年生になって一緒のクラスになり、1年間を共に過ごすことになる。T君の件があってから、たびたび私は自分がいじめられている夢を頻繁に見るようになった。きっとあの光景を見て、前の学校では比較的穏やかに過ごせていたため、私の心も次第に落ち着きを取り戻していったのであるが、少しずつ回復してきた心の傷が一気に開いてしまったような感じであった。
やがて年末を迎え、次第にあわただしさが増してきた。年賀状を書きながら大阪に残祖てきた友人や親せきのことを思い出していた。
「今頃何してるんかなぁ…」
「元気にしてるかなぁ…」
そんなことを考えていた。星田や永井・柳井や今田・福田たちとは手紙のやり取りはしていたが、やはりできるものなら会いたい。会っていろいろと話がしたい。そう思っていた私である。
そして2学期の終業式が終わって、私たちは冬休みに入った。初めて迎える山口県民としての冬。こちらは大阪に比べると冬の寒さが厳しく、私たちが引っ越しした冬もかなり冷え込んで、雪も積もった。私たちは大阪ではめったに雪が積もることなどないので、雪が積もれば積もるほど童心に返ったようにはしゃいでいたが、仕事がある両親は大変だと言っていた。母は市内にある山口に引っ越ししてきたときにお世話になったおばさんが経営しているブティックでの仕事があったし、父は建設会社で溶接の仕事をしており、雪が降ると鉄板が滑りやすくなって危ないのだという。そんなことはお構いなしに私たちは降り積もる雪を楽しんでいた。そしてクリスマスのころに降った雪は、10センチ以上は積もって、交通機関にも大きな影響が出ていた。道路は大渋滞が起きており、家の前の道路も全く車が進む様子はなかった。これを見て両親も仕事を休むという決断をした。休むと給料に響くので、できれば休みたくないと言っていたが、命はかえられないと思ったのであろう。
雪の影響でどこにも出られない私たちは家の中でテレビを観たり、姉とカードゲームをしたりして時間を過ごしていた。今ならインターネットを閲覧したり、ラインやFacebookなどで、いろいろと発信したりできるが、この時代はインターネットはおろか、パソコン自体が一般には普及していない時代であった。
降り続いた雪もやんで迎えたクリスマス。雪はやんだが、気温が上がらないため、降った雪が解けずに残って、山口で迎えた最初のクリスマスはホワイトクリスマスとなった。幻想的な雪明りの中、イルミネーションが華やかに彩りを添える。1年前のクリスマスはいじめとの戦いに明け暮れて、大阪から山口に引っ越すことが決まっていて、何もかも失うということが分かっていたため、とてもクリスマスを楽しむというような雰囲気ではなかったし、そんな気分にもなれなかったが、この年のクリスマスは、少しではあるが家族みんなで質素ではあるが楽しむことが出来た。そんな時、ふと大阪の友達の声が聞きたくなって、星田の家に電話してみた。
「久しぶりやなぁ~。元気にしてるか?」
「おぉ。ごっつい久しぶりやんけ。そっちこそ元気にやってるか?」
「俺は元気にしてるわ。大阪と違ってこっちはめっちゃ寒いで。ホワイトクリスマスになってるわ」
「そうなんや。大阪にはいつ頃遊びに来れそうなんや?」
「まだわからへんわ。ようやく転校先の学校にも慣れて落ち着いてきたところやからな」
声からの感じでは、星田も元気にしているようであった。大阪の友人の声を聞くと、どうしても望郷の念がわいてくる。いつか大阪の皆に会いに行きたい…。そう思っている私であった。
中学生ともなると、クリスマスプレゼントが欲しいとかは思わなくなったが、家族みんなで楽しみたいという思いはやはりあって、それがかなえられただけでも嬉しかった。1年前のクリスマスとは雲泥の差であった。
そのクリスマスも終わって、新年を迎える準備が慌ただしくなってきた。大晦日を前にして、家では正月用の鏡餅をついて、そのほかの餡餅や雑煮用のもちをついて木箱の中にしまって、正月用品の買い出しや料理の準備も着々と進められて、大晦日を迎えた。昭和50年代最後の大晦日。そして大阪から山口に引っ越ししてきて、最初に迎えた年の瀬。私は紅白歌合戦を見た後、近くの神社に初詣に行くつもりであったが、いつの間にか爆睡していて、除夜の鐘を聞きながらの初詣はできなかった。できれば除夜の鐘をききながら、私が抱えているいじめ加害者に対する激しい怒りの感情や恨み・憎しみといった負の感情を取り去ってもらいたかったが…。朝起きて新年の挨拶を済ませて、父から
「大阪から引っ越ししてきて最初の正月を無事に迎えられた。今年はお姉ちゃんが中3で、受験に向けた大事な年になるけど、皆で協力していこう」
そんな話があった。
「そうかぁ。お姉ちゃんは今年中3になって、受験に向けた大事な1年になるのかぁ…」
その次は私が受験する番であるが、そっと私は姉にどこを受験するのか聞いてみた。「う~ん。Y高校かC高校にしようと思ってる。市立はN高校かなぁ」
どちらも進学校であり、なかなか難関ではあるが、私も受験に向けた情報もいろいろと聞きたいので、時々高校受験に関して教えてもらうことも多くなった。
昭和60年最初の日は高校受験の話でスタートして、朝食を済ませたら、母の実家に挨拶しに行くことになっていた。スバルレックスには4人しか乗れないので、私は家の近くの駅から電車に乗って実家に向かうことになった。私は正月早々電車に乗れるので上機嫌であった。この当時、山口県を東西に走る大動脈である山陽道は開通しておらず、一般道を使っての移動になるわけで、電車で向かった私の方が早く実家に着いた。叔父に迎えに来てもらって、実家に着いて新年の挨拶を済ませた後、さっそくまるちゃんの散歩へ。相変わらず盛大な出迎えをしてくれて、私のほっぺたをぺろぺろと舐め回してくれた。散歩に行っている間に両親と姉と妹も家に着いていた。父が運転してきたらしく
「はぁ、ごっつい疲れたわ~」
と言っていた。まだ車の免許を取って1年たっていないため、県内の移動でもかなり長距離を運転したような感じなんだろうと思う。妹はまだ体が小さかったためあまり苦痛には感じなかったようであるが、姉は中学2年生ということで、身長もあるのでかなり窮屈だったらしい。軽自動車の規格が改正されるはるか前に作られた車であり、おまけに丸っこい車体であったためにデッドスペースが多く、中学生が乗るにしてはかなり狭い車内であった。
そうこうしてるうちのほかの親せきも集まってきて、賑やかなお正月となった。皆でお正月料理を食べて、お年玉をもらって、そのあとは子供たちは皆でトランプしたり、外に出て凧あげをしたり、寒さなど気にせずに駆けずりまわして遊んでいた。このときは祖父もまだ家にいて比較的元気な姿を見せていたが、着実に肺がんは祖父の体を蝕んでいた。このときも時々せき込んでいた。痰が絡むような咳をしていた。私は
「じいちゃん、体は大丈夫なん?」
と聞くと
「あぁ、ちょっと具合が悪いけど大丈夫じゃよ」
と話していた。そして夜遅くならないうちに帰ろうということで、夕方に実家を出て、再び私は電車で、他の家族はあの狭いスバルレックスに乗って帰った。駅から家に歩いて帰ると、今度はほかの家族の方が早く家に着いていた。家に帰ってから初詣に近くの神社に行った。こじんまりとした神社なので、人でごった返すようなことはなかったが、この神社には鐘があって、時々鐘を突く音が聞こええるこの神社は小高いところにあるため、鳥居をくぐると本殿まではかなり急な階段を上っていかなくてはならないので、かなりの運動になる。神社に着いてお賽銭を投入して、家内安全を祈ってきた。穏やかな一年が過ごせるように…。それが私の願いであった。
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