14 靴と簪その1(年末)
父からもらったもので最も良く覚えているのは、八歳の誕生日プレゼントだ。
家族三人で、遊園地に行った。
県外の大きな遊園地で、見所の一つである花畑がちょうど見頃になっており、何度もテレビでコマーシャルが流れていたのだ。お人形や玩具よりも、今年はここがいい、とねだった。
人生初の遊園地だったから、ひどく興奮したのを覚えている。
「お父さんとお出かけするのひさしぶり。ねむくない?」
「大丈夫。昨日は十時に帰ってきて、しっかり寝たよ」
ぽんぽん、と、私の頭を撫でてくれる父は、襟の立ったシャツにスラックスという、あとはネクタイを締めればそのまま白衣を着られそうな格好だった。仕事が忙しくて、休日用の服をあまり持っていなかったのだ。けれど線が細くて背の高い父には、その格好が何より似合っていて、私はその姿の父が好きだった。
「侑李、何に乗りたい?」
「観覧車! あと、ジェットコースター」
ジェットコースターも、ゴンドラでのウォーターアトラクションも、ブランコで宙をグルグル回るやつも、コーヒーカップも。
父と手を繋いでまわるのは楽しかった。
これまでの誕生日やクリスマスにくれた、手袋やポーチを生み出す手。
私みたいな歳の子たちの、病気を治すために、手術をする手。
指が長くて、爪が厚くて、お母さんよりちょっと骨が硬い。
メリーゴーランドで馬に乗る私を、後ろから支えてくれる父の手が、ふいに不思議なものに思えて、しげしげと眺めていた。
その時撮った家族写真は、見返すことはなくなってしまったが、父の顔も、父の手も、その左手の結婚指輪の太さや、いつもさせていた消毒液の匂いまで、まだ覚えている。思い出せる。父からもらった他の多くのプレゼントたちよりも、遙かに、鮮明に。
那都希から父の名を聞くたびに、その全てを思い出して、喉が焼けるように、もしくは凍るように、痛い。
――それは、那都希が持っている凶器だ。
父からもらったプレゼントは、家を引き払うとき、不透明のプラスチックケースに入れて祖父母の元へ預けていた。捨てはしなくとも新生活に必要のないものは、私も母も全て祖父母に預け、保管してもらっている。この三年間、そこから何かを取り寄せたことは、一度もない。
勉強道具と服と日用品をキャリーケースに詰め込んで、私は那都希と共有しているクローゼットの、自分に割り当てられている棚を開けた。服や鞄が詰まった一番端に、アールヌーボー調の柄がデザインされた、一抱えほどの箱がある。
一年目は、ジャスミンの香りのするマニキュア。
二年目は、金木犀のオードトワレ。
三年目は、銀細工のイヤリング。
那都希からもらった誕生日プレゼントを、全てここに入れてあった。今年もらったものが予想以上に大きくて、箱の半分を占めている。これは多分、今後は別の場所に保管することになるだろうと、思いながら、それを取り出す。
那都希は私より一時間早く、この部屋を出ていた。家族で年末のショッピングに出かけるそうだ。私のあげた簪は、那都希の荷物の中に入っているだろうか。
一年目は、ボタニカルキャンドル。
二年目は、入浴剤。
三年目は、シャンパングラス。
私がこれまで贈ってきた誕生日プレゼントだ。そういえば、持ち歩けるものを贈ったのは、今年が初めてかも知れない。入浴剤とか、持ち歩けても持ち歩かなかっただろうし。
マニキュア、トワレ、イヤリングはポーチに詰めて、キャリーケースに入れる。今年の四月にもらって、今の今まで使っていなかった四年目の誕生日プレゼントは、手に持ったまま玄関に向かった。
そろそろ、空港に行くバスの時間だ。
空港で出迎えた母は、私を見つけると早足でこちらに近づいた。
「侑李、元気してた?」
「うん、インフルの予防接種もしたし、風邪も引いてないよ」
「共通テストまでいられなくってごめんね、二次試験から入学まではいられるようにしてるから」
「ありがと、ちゃんとどこかには合格してみせる」
会った途端、心配そうに私の顔を覗き込んでくる母に、私は苦笑しながら答えた。
正直、手間を考えれば、那都希の大学に合格するのが第一希望だ。遠い大学だと引っ越ししも視野に入れなければならないし、そうなると、母や那都希にも手間をかけることになる。私自身、まだ、那都希とのルームシェアという状況を手放したくはなかった。那都希の事情が変われば我が儘は言えないけれど。
「あ、それやっぱり似合ってる。今年の那都希ちゃんからの誕生日プレゼントよね?」
母が、私の足元を指して言った。私は頷く。
ボルドーの、革製の紐靴だ。母にも写真を見せてはいたけれど、実際に履くのはこれが初めてだった。踵はいつも私が履いているものより少し高い。着慣れたベージュのニットと、この冬買ったオーキッドのシフォンスカートには、暗めの赤がよく映えた。
「フラットもいいけど、いいところに行くならヒールは少しある方がいいって、なっちゃんが。似合ってるなら良かった」
靴底がすり減るのを躊躇って、つい今の今まで履くタイミングを見失っていたのだ。那都希にも無事プレゼントを贈り返せたし、ホテルでの年越しに合わせて靴を下ろすのは、良いきっかけのように思えた。
「やっぱり那都希ちゃん、センスいいよね。将来はアパレル系?」
「とりあえず院に行くって言ってるけど。業種はともかく、体力的に厳しいから職種に関しては吟味してるみたい」
「そう。侑李も大学生になったら色々調べてみなね」
「気が早いなぁ」
言いたくなるのは分かるけれど、まだ、入試を受けてもいないのに。
空港からタクシーで市街地のホテルに向かう。お互い数日間宿泊するために、大きめの荷物を抱えていた。母はそれにプラスして、樋野宮家へのお土産と、祖父母へのお土産を抱えている。明日は樋野宮家に、明後日は祖父母の家へ行き、年越しはホテルでゆっくりとする予定だった。
自宅や祖父母宅のような、縁故、というものが全くない場所での年越しは、やってみると案外気楽で楽しい。一年の垢を落とすように美味しいものを食べ、広いお風呂に入り、二十四時間空調の効いた部屋で過ごして、ルームサービスで頼んだ年越しそばを食べる。深夜までやっているお風呂があるところなら、お風呂につかりながら年を越すのもありだ。
全部さっぱりする代わり、何かを、置き残してきた気にもなる。
それは単に、私に、もうその何かを拾いに帰れる場所がないから、というだけかもしれなかったけれど。
部屋で荷物を開けて一息入れると、とりあえずお風呂に行こうという話になった。今回のホテルは大浴場に露天風呂が付いていて、大晦日が晴れているようなら、年越しは露天風呂でしようかと話す。近くに大きめのお寺があるから、除夜の鐘も聞こえるかもしれない。
「那都希ちゃんは、元旦から初詣?」
「日の出前から行くって。私たちも初詣行く?」
「それは勿論。合格祈願しに行かなきゃ」
イタリアのお守りも買ってきたわよ、と、母はポケットから、金のチャームがついた裸のネックレスを取り出した。こういうところで、少しぞんざいなのが母だ。那都希なら、少なくとも必ず袋に入れている。
チャームは装飾の一切ない、シンプルな造形のものだった。少し曲がった、大根か人参のような形をしている。
「コルノって言うの。動物の角をかたどってるんだって」
もらったネックレスをありがたく受け取って、着替え用の鞄の奥に仕舞った。髪をまとめ上げて露天風呂に向かえば、産毛が逆立ちそうなほど冷えた空気が、肌を取り巻く。
年の瀬の日の入りは早い。時刻はまだ五時半だったが、辺りはもうすっかり日が落ちていた。市街の灯りに照らされながら、ホテルの屋上、開けた藍色の夜空には、いくつか星も見えている。震えるほどの寒さに肩を竦めながら、お湯につかる。
「すごい、結構星が見えるのね」
母が背中を伸ばして言うのに、私も頷いた。
大きめの明るい星が、シンチレーションで揺らめいている。遠くで月がくっきりとした輪郭を浮かびあがらせて、皓皓と輝いていた。僅かな薄い雲が、上空の強い風に足早に流されていく。
この前は、電飾ばかりで何も見えなかったのに。
那都希に見せたかったな、と思った。
「お母さん、」
「なあに」
母の声がまろい。
「……何でもない」
母に、父のことを、七年前のことを。
今更訊くのは、やめようと思った。
父が、本当はどうして失踪したのか。
母が、その答えを知っていても、知らなかったとしても。せめて、私の中で答えが出るまでは、訊かないでいようと口を引き結んだ。
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