13 クリスマスイブ


 喫茶店の前には小ぶりなモミの木が飾られていた。暖色系の電飾と銀のボール飾りで彩られ、てっぺんには星ではなく大きなまつぼっくりが載っている。北欧のまつぼっくりだ。パステル色の壁に重い木戸の外観も、那都希の好きな北欧風だった。


 中にはサイフォン式とドリップ式の器具を並べたコーヒーカウンター、それを中心に両サイドにテーブル席が並んでいる。私たちは、トナカイのタイルシールが貼られた壁のすぐ傍の席に座って、それぞれの注文をした。事前にメニューをネットで見ていたので、どのコーヒーにするかもケーキの種類も、決めてきている。


「じゃ、メリークリスマス」

「メリークリスマス」


 私と那都希はお冷で乾杯した。

 そもそも那都希はコーヒーを頼んでいない。ここのお冷はミント水で、那都希はセーブのためにケーキのみを注文していた。


「明日からようやく冬休みね。ほんと、毎朝毎朝凍えるかと」

「なっちゃんはもっと着込んだ方がいいと思う」

「可愛くないから嫌。この青白い顔で着込んでたら病人に間違えられるし」


 お店のカウンターからコーヒーが運ばれてくる。酸味の強い、ベリーのような香りだ。冬は、こういう香りの強いコーヒーをつい選んでしまう。


「るかさんが帰ってくるの、明後日だっけ」

「うん。三が日までいるって。那都希の家にも挨拶に行くけど、何日が都合良さそう?」

「元旦以外ならいつでも。元旦は日の出前から初詣に行くつもりだから、下手すると家に誰もいないかも」

「分かった、日にちが決まったら連絡する」


 ウェイトレスが軽く頭を下げて、ケーキを持ってきた。那都希は最初に言っていた通りにブッシュ・ド・ノエル、私はルビーチョコとフルーツのショートケーキを、それぞれの前に置いてもらう。お皿にはシーズンの特別仕様なのか、ココアパウダーでサンタのシルエットが描かれていた。


 那都希と過ごすクリスマスも、もう四回目だ。四年間、毎年こうしてお茶をして、夕方からイルミネーションを見て、夕飯はデパートでオードブルとエナジードリンクを買って、帰る。今まで那都希に恋人ができたり、私以外の友達とクリスマスの予定を立てたりする様子は、一度もなかった。恋人に関しては隠している可能性も否定できなかったけれど、少なくとも、私の前でそういった雰囲気は、微塵も感じさせたことがない。


 父のことがあるからだろうか。


 身体が重くなる。那都希のことで、安易な想像はしたくなかった。配慮とか、遠慮とか、悪意とか、好意とかの。


「ねえ、那都希」

「何?」


 なっちゃん、と呼ばなくても、那都希は返事をしてくれた。


「クリスマスは、何かお父さんから、プレゼントあったの?」


 ケーキで喉を誤魔化しながらそう訊ねれば、那都希は、驚いたようにこちらを見返した。


「……久し振りね。侑李がそういうこと訊いてくるの」

「なっちゃんがいつもはぐらかすからでしょ」

「まあそうだけど」


 那都希はふふ、と笑って、片眉を下げた。

 知り合ってからの半年間、何度も父のことを訊こうとし、そのたびにはぐらかされ、そのたびに私は、胃の痺れるような、臓腑を真綿で絞められるような心地がしていた。私の唇に霜が降りて、凍っていくようだった。それを今は、少し噛んで湿らすことで、堪える。


「それで、どうだったの? 誕生日はハンドクリームとハンカチって、前に言ってたけど」

「クリスマスはねぇ、長期入院の小児患者には院内でパーティーがあるから」


 那都希は、ブッシュ・ド・ノエルの端をフォークで削りながら言う。


「そこで編み物とか折り紙とか、手作り品のプレゼント交換があったのよね。啓高先生のには、残念ながら当たったことはないのよねぇ」


 ――ああ、そういえば、と思い出す。

 父は手芸が得意だった。外科医だからね、とおどけるように言って、毎年、私にも何かしら手作りのものをくれていた。手編みの手袋だったり、靴下だったり、パッチワークのバッグだったり。

 確か、敷島病院で聞き込みをしていた時期に、看護師さんから聞いたことがある。

 クリスマス会用の編み物を那都希が編むのに、父が、編み方を教えていたことがある、と。

 ケーキを飲み込んで、コーヒーで流す。湯気が少し目にかかる。


「……那都希は、あげなかったの、何か」


 お父さんに。

 侑李はクリスマスに何かあげたの、と訊き返されることを予想して、訊いた。


「あげようとして、断られたことならあるわよ」

「え」

「患者から受け取れないって」


 私が、目を瞬かせている間に、那都希は小さく溜息をついた。

 そんなに厳しい規則でもなかったし、クリスマス会ついでの手作り品なんだから別に受け取っても問題はなかったでしょうに、と。

 何か、悼むような、祈るような、そんな声で。


 那都希が、ブッシュ・ド・ノエルの年輪を、ほんのちょっとずつ切り崩していく。血食症者は、血液以外の食事はゆっくり食べないと、消化器官の消化作用が追いつかない。


「ハンドクリーム、いつも、病院推奨の薬用のだったわ」


 臓腑が絞まる思いをしているのは、きっと、私だけじゃない。






 大学横の大通りには、左右に欅の木が植えられている。背が高く、冬にはすっかり落葉するこの木に毎年、色とりどりの電飾が取り付けられていた。木と木の間には花や鳥を模したイルミネーションのオブジェが置かれ、クリスマスイブともなれば、人通りはいつもの二倍になる。大通りを那都希と二人で歩いていると、ちょうど真ん中付近で、鹿能さんを見つけた。


「あ、樋野宮さん、侑李ちゃん」


 鹿能さんが軽く手を上げる。那都希はあからさまに眉を顰め、私は手を振り返した。


「こんばんは」

「メリークリスマス! イルミネーション見に来たんだ?」

「はい、帰るついでですけど」


 半歩後ろに下がる那都希を無視して、私は鹿能さんに近寄った。那都希が驚いたような顔で私を見たけれど、私は那都希に目配せをして、ちょっと待っててとお願いをする。

 鹿能さんは、黒のモッズコートにパールグレイのブーツで、それがよく似合っていた。相変わらず、人なつっこそうな明るい笑顔を浮かべている。


「すみません、あの、先日私のバイト先にいらっしゃいましたか? 知り合いが訪ねて来たって聞いたんですけど、誰か分からなくって」


 私を見かけたからと言って、わざわざバイト先に来そうな人ではないけれど――とも思いつつ、私は一応訊ねてみた。


「え、いや、俺じゃないよ。……心当たりもないかな。男性ってこと?」

「みたいです」

「……大丈夫?」


 鹿能さんが、言おうかどうか迷った、というような、弱々しい声で言うので、私は苦笑する。


「訪ねてきた人がいるって聞いただけです。まだ、心配するような何かはないです」

「そう? 一応気をつけなよ」

「はい、ありがとうございます」


 言われて、ふと思った。杞憂とは思うけれど、私の問題が、那都希に降りかかることはあるだろうか。

 一緒に住んでいるのだから、ないとは言い切れない。


「ちゃんと、気をつけます」

「何もないとは思うけどね。じゃあまた、良いお年を」


 樋野宮さんもまた、と、鹿能さんが声を少し張って言い、私も会釈を返して那都希のところに戻ろうとした。

 近くで大きな声がした。


「え、樋野宮さん!? マジだ!」


 人混みの喧噪では、それほど響く声ではなかった。けれど、存外近くで叫ばれたので、驚いて身体が一瞬跳ねた。


 那都希がこちらを一瞥する。すぐに、盛大に顔を背けた。表情は凪いでいた。けれど、視線が一気に冷えたのが分かった。

 橋田、と呟く鹿能さんの声が聞こえた。


「え、この子お前の知り合い? 樋野宮さんの友達?」

「そう、樋野宮さんの知り合い。二人とも帰るところだって」

「へぇー」


 鹿能さんの友人らしい、二人組の男子が鹿能さんの隣に立っていた。私は見たことのない顔だ。それぞれ手に焼き鳥とペットボトルを持っていて、その内の一人が、指で私を差している。襟足で刈り込んだ髪が、寝癖のようにところどころで跳ねていた。もう片方の手にはすぐ隣にあるコンビニの袋を下げている。今買って、出てきたところなのだろうか。

 焼き鳥を持った手で私を指差したまま、その橋田という人は鹿能さんに言った。


「いいよねーお前、樋野宮さんと関われる機会があって」


 俺も麻見ゼミ入ればよかったぁ、と、もう一人の男子と笑い含みで告げられる。その言葉に。

 私は、空気が薄くなっていくような、気がした。

 那都希の顔が見られない。

 私は鹿能さんたちの方を向いたまま、何とか、愛想笑いだけを貼り付ける。


 那都希に、女性として好意を抱いている、というような言い方ではなかった。大体、当の那都希が私のすぐ後ろにいて、この声の大きさなら絶対に聞こえている。なのに、芸能人を遠巻きにするような――動物園の動物を見て感想を言うような、そんな、記号的な物言い。

 物珍しさへの、好奇心。


「麻見ゼミの特権だからな。じゃあまた、樋野宮さんにもよろしくね」


 鹿能さんが、会話を切り上げるようにこちらを向いて言った。


「あ、はい」


 言葉と同時に、くるりと歩き出していた鹿能さんに、私もすぐに頭を下げて、踵を返す。わざと、私たちと反対の方向に足を向けてくれたのが分かった。友人らしい二人組が、「え、戻んの?」と鹿能さんを追いかけていく。元々三人できていたのか。こういう気遣いができるんだから、他の人が一緒なら、最初から声をかけないでくれた方が良かったのに。


 ――違うな、と否定した。鹿能さんのせいじゃない。鹿能さんはすれ違う程度のつもりで声をかけたのかも知れないし、私も聞きたいことがあった。運が悪かっただけで、お互い様だ。


「ごめんねなっちゃん、お待たせ」

「んーん」


 那都希の白い顔を覗き込む。那都希は、背けていた顔を元に戻すと、微かに首を横に振って歩き出した。さっきまでより、歩調が早い。私もそれに合わせて歩く。半歩も遅れたくはなかった。那都希が浅く息を吐く。頬にかかる白いそれが、不釣り合いに見えるほど、那都希は徹底して無表情だった。まるで人形のように。


 麻見ゼミの人たちには、もうあまりないけれど。

 十畑ゼミや、藤堂ゼミの人たちでもまだ、あれほどあからさまではなくとも感じることがある――憧憬、謙遜、そして、「区別」。


 鹿能さんたちが確実に見えなくなるほど離れると、ようやく那都希が、歩調を緩めた。私の腕を引いてくる。軽く腕を握るようにして、隣に寄りかかってくる。

 私は欅の木々に絡まる、夥しいイルミネーションを見上げた。

 電飾の向こうは、真っ暗だ。

 高さも、深さも、分からない闇。

 血食症者に向けられる目。

 十畑先生の講義でも何度も頭をよぎるそれが、那都希に今までどういう風に刺さってきたのか。那都希のどこを刺して、その傷は、どのくらい深いのか。

 私も持っているだろうその凶器は、那都希にどんな風に届いているのか。


 どこかには月が出ているはずの空は、けれどあまりに暗くて、イルミネーションで目が眩んで、見通せなかった。





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