3章 痛いところはどこですか

11 誕生日


 樋野宮家の玄関はいつ来ても綺麗に掃除されていて、整頓された大容量のシューズクローゼットも、揃えられたふかふかのスリッパも、清潔で温かな空気に満ちていた。


「いらっしゃい、侑李ちゃん」

「お邪魔します、ゆかりさん」


 出迎えてくれた那都希のお母さんは、那都希とよく似た、少女のような顔で微笑んだ。

 小顔を縁取る長い黒髪も、細く伸びた長い手足も那都希とそっくりだが、刻まれた深いえくぼには相応の歳を感じる。


 十二月一日。那都希の誕生日だ。


 この日を樋野宮家で過ごすのも、今年で三回目だった。今年は土曜日と重なったので、お昼からの食事会に呼ばれていた。

 最初は勿論、家族水入らずで祝われてきたらと断った。だが、樋野宮家からの熱烈な勧誘もあり、結局、毎年こうしてお相伴にあずかっている。


 樋野宮家にとって、私はたいそうな興味関心の対象なのだった。何せ、繊細で意地の悪いところのある那都希が、ルームシェアを申し出るほどの友人など私が初めて、だから。

 いつものからかい気味の那都希が言ったことなので、言い過ぎの可能性もある。ただ、人生の大半が入院生活だった那都希の交友関係が、そう広くないことは事実だろう。毎回、主役である那都希と同じくらい、私は樋野宮家から歓待されていた。


 私と那都希が紫さんにコートを渡していると、二階に続く階段から、中学生の男の子が顔を出す。


「お帰り姉ちゃん。こんにちは、侑李さん」

「こんにちは満弦みつる君、お邪魔します」

「ただいまぁ、何あんた今起きたの? 寝癖」

「うるさい、まだ昼前じゃん」


 那都希の七つ下の弟、満弦君は、私に丁寧に頭を下げた後で、そそくさと二階に引っ込んでいった。思春期だの反抗期だの、さんざん姉にからかわれているので、食事の準備が整うまでは部屋から出てこないのが彼の常だ。満弦君に対するからかいは、普段の那都希の態度からすると、正直かなり柔らかい方ではある。


「別に仲は悪くないもの。毎年ちゃんとプレゼントのリクエスト訊いてくるし。今年もちゃんと用意してるでしょ、駅前の百貨店にあるジャンヌアルテス」

「微妙に男子中学生が買いにくい」


 比較的安価とは言え、香水のブランドをリクエストするのは、意地悪で間違いなかった。


 通されたリビングは、グレーを基調としたクラシックモダンの家具で統一されている。ガラスの食器棚には那都希の好きなウェッジ・ウッドの食器が一組飾ってあり、本革のソファに腰を下ろすと、目の前のローテーブルにはすでにごちそうが用意されていた。

 クラッカーに載った八朔のサラダにローストビーフ。コーンクリームのパンナコッタにトマトのゼリー。どれも小さく分けてあり、少量ずつ取ることができるようになっている。グラスには葡萄ジュースとオレンジジュース、それとお水。誕生日であっても血液パックが基本の、那都希のための料理だ。


「ケーキは桃のショートケーキにしたからね、那都希は食べたかったら他のを食べ過ぎないようにね」

「はあーい」

「あ、紫さん、これうちの母から」


 台所に引っ込もうとする紫さんに、私は慌てて鞄からビルベリーのジャムを取り出した。


「あら、今年もありがとう。お母様によろしくお伝えしてね」

「いえ、こちらこそいつも呼んでいただいて」

「うちの子の方が侑李ちゃんにはお世話になってるんだから、いいのいいの」


 朗らかに笑って、紫さんは台所に引っ込んでいった。いつもにこにこしている彼女は、那都希によれば、人前であればあるほど、努めて笑う人だそうだ。


 血食症は、ほぼ突然変異として生まれてくる。遺伝した例はごく僅かで、兄弟や親子でも、血食症同士ではないのが普通だ。那都希の家族も、那都希以外全員が非血食症者だ。

 幼い頃からほとんどを病院で過ごし、同じものを同じようには食べられない。

 それが、どれほどのすれ違いや苦しみを生むか、私には、想像しきれない。


「お父さん、今日は休日出勤でお昼はいないみたい。お祖母ちゃんもまだ散歩から帰ってないみたいだし、侑李、先に何か摘まむ?」


 オレンジジュースのグラスを渡してくれながら、那都希が問う。私はグラスを受け取って、首を横に振った。


「ううん、待つよ。それより、はいこれ」


 鞄の中から、ラッピングされた細長い小箱を取り出す。金のリボンで飾られた、ペールブルーの箱だ。縁に小さく黒字で店名が入っている。ショッピングセンターに入っている雑貨屋さんで、先月から目をつけていた、ハンドメイドのお店だった。


「誕生日おめでとう、那都希」


 箱を取り落とさないように気をつけながら、那都希に手渡す。


「ありがと。……わ、かんざし?」


 箱を開けた那都希が、頬を綻ばせた。

 金の軸がU字に曲がっている、バチ型の簪だった。扇のような面には鳥の透かし彫りと、ローズマリーの花のディップアートがあしらわれている。脚が短めの簪にしたのは、那都希がいつか髪を短くしても使えるようにと思って。


「なっちゃんの黒髪には、似合うと思って。初詣には着物着るでしょ?」

「嬉しい。お正月はこれつけるわね」


 那都希は、その細い指でしばらく簪の柄を撫でた後、そっと箱を閉じて、自身の鞄の底に丁寧に収めた。


 ――良かった、気に入ってくれたようだ。


 私は、オレンジジュースのグラスを傾けながら、ほっと息をついた。毎年、この瞬間までが、とても緊張するのだ。

 肩の荷が下りたところで玄関の開く音がする。那都希のお祖母さんが、散歩から帰ってきたらしい。私や那都希がソファから立つ前に、二階から満弦君が下りてきたのか、お帰り、と応対する男の子の声が聞こえた。紫さんの方も、もう準備は終わっているようで、いそいそとエプロンを脱いでいる。

 浮かせた腰を再び落ち着けて、ふと横を見遣ると、那都希は、お腹がすいたのか手持ち無沙汰だったのか、先にクラッカーを食べ始めていた。






 那都希と知り合って最初の誕生日は、何をあげたら良いのか分からなくて、那都希に何が欲しいかを直接訊いた。出会ってすぐの四月の私の誕生日には、良い匂いのマニキュアをもらっていたから、あげないという選択肢はなかった。那都希は、少しだけ悩むように首を傾げた後、口の端を吊り上げて、


「侑李の選んだものがいい」

「それに困ったから訊いてる」


 私が呆れて溜息をつくのを、楽しむようににっこり笑った。

 まだ、春にはルームシェアすることになるとは思っていなかった頃だ。最初に待ち合わせた公園のベンチで、私は時々、那都希の愚痴を聞かされていた。体調のこと、高校でのこと、血液パックへの多大な不満、時と場合にはつけるリップの新色について、など。


 私が父のことを訊こうにも、口を挟ませない勢いで喋り、どうにか遮るとにこりと笑って、侑李はどう思う? などとはぐらかされた。それを半年繰り返すうち、私は、那都希の話を遮るのをやめた。意地悪をされると分かっている問答を繰り返すのは、やるせなくて、疲れる。


 その代わりのように、那都希の話を追いかけることに集中すると、那都希は、愚痴をまくし立てることをやめた。ゆっくり話すようになって、私にも近況や趣味のことなどを訊くようになった。それでも私はもう、父のことを訊く気にはならなかった。私は那都希との会話のテンポを覚え、父のこと以外なら、那都希に質問することも増えた。

 ――父のこと以外でも、こうやってからかうように返されることは多いのだけれど。

 私は苦虫を噛み潰しながら、でも、四月にもらったマニキュアはとても良いものだったので、苦心の末、ボタニカルキャンドルを贈った。気に入ろうが気に入らなかろうが、燃焼時間が十時間ほどしかないものを選ぶのが、精一杯の意趣返しだった。


 日に日に風が冷たくなっていく公園のベンチで、マフラーに顎を埋めながらキャンドルを渡すと、那都希は寒さに赤らんだ頬でゆっくり目を細めて、


「――啓高先生は、毎年、ハンカチとハンドクリームだった」


 私は、ただ、凍てついた息をマフラーの内側に吐き出すことしかできなかった。


 その日以来、時々、ふと零すように、那都希は父のことを話すようになった。

 そのほとんどは、私を凍りつかせるような意地悪なもので、事件や失踪に関連するものは全くなかったけれど。

 渡したキャンドルは、しっかり十時間使い切られ、残ったドライフラワー入りの外殻に那都希は、自分で蝋燭を買い足した。今も、たまに使っている。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る