10 斜陽
「侑李さん」
大学構内の廊下を歩いていると、名前を呼ばれた。呼び名と声で相手に察しをつけて振り返れば、案の定、そこにはシルバーグレーの髪と髭を蓄えた、白衣の教授が立っていた。
「藤堂先生」
こんにちは、と私は頭を下げる。
藤堂先生は、七十過ぎのおじいちゃん先生である。敷島病院での那都希の担当医、木島先生の先輩で、血食症の生物学的研究における、権威の一人だ。
「お呼び止めして済みませんね。平日に大学にいらっしゃるのは珍しいですが、お時間大丈夫ですか?」
「はい、今日はもう帰るだけなので」
大学の廊下には斜陽が差している。短い冬の夕暮れは、日の当たるところ以外は冷えたまま、この時間の太陽の色だけが濃い。
学校帰り、家にある資料を持って大学に来て欲しい、と那都希から連絡が来て、それを届けたばかりだった。バイトは入っていないし、那都希が今日、帰りが遅くなるということは事前に聞いていたので、夕飯は久しぶりに外で食べようかなと考えていたところだ。
「僕の研究室に寄っていただいて良いですか。お貸ししようと思ってた本があって」
「ありがとうございます、是非」
藤堂先生の研究室は、雑然と資料が積み上がっていた。実験用に一つだけ何も置いていない机があるが、それ以外の机は紙の束と本が山を作っている。一ヶ月に一度、学生と手分けして綺麗にするらしいのだが、今月はまだ手をつけていないらしかった。机の上とは反対に、壁に置かれた棚の中は几帳面に整理されていて、顕微鏡とフラスコとシャーレで埋められた棚が一角を占めている。
その奥、教授机の背後に置かれた本棚から、藤堂先生はひょいひょいと二冊を取り出した。
「これ、欠血症の腸内細菌と細胞の研究の最新版ね。樋野宮さんが被検体に入っていないもの。こっちは、欠血症の初期研究の歴史とその手法と結果について。研究史だけど、侑李さんは興味あるかと思って。どっちも僕がちょっと手伝ったから、献本いただいたの。あ、受験勉強がありますね、返却は来年の春以降で構いません」
「ご配慮ありがとうございます。でも、できるだけ早くお返ししますね」
「ご無理はなさらずに」
ゆっくり喋っているのに、口を挟む隙があまりない藤堂先生は、私にとっては心地よい相手だった。待っていればちゃんとこちらを振り向いてくれるし、言葉には気遣いが溢れている。それでいて、簡潔で分かりやすい言葉選びは、生物学という、文系の私にはとっつきにくい分野の公開講義でも、問題なく理解できる理由の一つだ。
「お母様はご息災ですか?」
「はい、先月イタリアのお土産を送ってくれました。なっちゃんがラディッキオのサラダを食べてましたけど」
「はい、ご報告受けています。初めての食材でしたからね。やはりお肉よりお野菜の方がお腹を壊しにくいのに変わりはないようです。海外植生のものを地元の欠血症者ではなく、日本の欠血症者が試す機会はあまりないので、お母様には感謝しています」
「いえ。あの、この前、なっちゃん猪肉食べてましたけど」
「ちゃんと量をセーブしたみたいですよ、木島君からも君からも本人からも、特別体調不良の報告を受けていません」
慢性的な栄養不足は勿論ありますが、と、藤堂先生はゆっくり瞼を伏せた。
藤堂先生も、麻見先生と同じくらい、表情のあまり変わらない人だ。けれどそこに、切なさと言うべきか、痛ましさと言うべきか、欠血症者――藤堂先生は生物学専門なので、医学的正式名称の方を用いている――の抱える不便、不調に、心を寄せているのが、感じ取れる。
――研究とは興味から始まり、好意で続いていくんです。
そう、以前、公開講義の冒頭で仰っていたのを思い出す。
「なっちゃん、大きな不調は、夏に熱中症で倒れて以来、私の知る限りはないみたいです」
「あの時は、侑李さんが木島君に電話をしたと」
「はい。珍しく油断したみたいで。家に帰り着いたときにはもう、携帯を持ち上げる気力もなさそうだったので私が」
その時のことを思い出して、私は眉を顰めた。
那都希は普段、自分の体調不良に敏感だ。これは血食症患者のほとんどにとって常識で、放置すれば、造血機能が低い人は即入院、下手をすれば命に関わるからだ。生の血液を頻繁に飲んだり、血液以外の食事にも貪欲な那都希の携帯は、短縮で敷島病院に繋がるようになっている。定期検診をおろそかにしたこともない。
「夏バテは毎年辛そうですけど……急な目眩で、あっという間に悪化したらしいです」
あの日、那都希は午前中に出かけていて、昼少し前に玄関の開く音がした。私は夏休みでバイトもなく、部屋で課題をしながらのんびり過ごしていたのだけれど、那都希が玄関から一向にやってこないので不審に思って廊下に出た。電気もつけない暗い廊下で、那都希は、浅い息をしてうずくまっていた。
体を縮こまらせ、大して冷たくもないぬるい床に頭をこすりつけながら、貧血と脱水症状による頭痛で呻く。そのくせ、ちょっと落ち着いたら自分で病院に電話する、と言った那都希に、私はすぐに自分の携帯を取って、敷島病院に電話した。私の携帯の短縮にも、敷島病院が設定されている。
基本的に面倒くさがりで甘え上手な那都希が、自分で病院に電話するからと、あの状態で言ったことに驚いていた。
「後で聞いたら、油断して倒れたのが格好悪かったから、て言ってて」
「侑李さんがいつもご心配下さっているからでしょうね」
「え?」
私は目を瞬かせた。藤堂先生はこちらを見ずに本棚を見ている。思いついたように二、三冊手にとって、ぱらぱらと開いたページに、薄青い影が落ちていた。日が落ち始めている。
「君が不衛生だと、血液の提供を拒み続けているので。樋野宮さん自身も自己管理への意識が高まっているのだと思います。入学当初には無茶なことに平気で飛び込むような行動が多々見られましたが、この三年で随分減りました。夏は、それが良くない方向に働いたようですが、一年の頃の彼女であれば、猪肉の量のセーブなんてしなかったんじゃないかな。学食で手に取ったお菓子の袋を、君が眉を顰めるからとご友人に言って棚に戻している姿を、見かけたことがあります」
どきりと、心臓が小さく跳ねた。
どこからか学生の声がする。シェードの下りた窓の向こう、薄暮はすでに影と同じ色をしている。
埃と古い紙の匂いに、少しだけ錆びたスチール棚の――血と同じ、鉄の匂い。
「……那都希が、やりたいことを諦めるのは、本意ではないです」
「諦めているのではないです、多分。大事にしているのだと」
そうだろうか。
それは、良いことなんだろうか。
私は受け取った本をぎゅ、と抱き締めた。どういう顔をしたら良いのか分からず、俯く。
私は、那都希にそんな風に影響してしまって、良いのだろうか。
不衛生だからと言うのは本当。
私は那都希に対して、何となくで対応したくない。那都希に対する全てのことに、私はちゃんと、納得をして応えたい。
けれど、「それ」を頑なに拒み続けているのは。
あの日の言葉が、ずっと耳に残っているからだ。
――啓高先生の血は、飲ませてもらおうと思ってた。
那都希が、父の血の味を知らないことに、何度安堵の息をついたか知れない。苦しくなるたびにその事を思い出して、胸をなで下ろして、そうして、私は最低だ、と、吐きそうになる。
那都希の心は、那都希だけのものだ。
父の心も父だけのもの。
私の気持ちなんて、本当は那都希には、何一つ関係が、ない。
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