9 四年前


 樋野宮那都希は中学卒業と同時に敷島病院を退院していたが、血食症患者の常として、定期的な通院を続けていた。

 だから、四年前、本人に会ってみようと決めてすぐ、私は顔なじみの受付の人に、伝言を頼むことにした。

 秦野啓高の娘で、できれば当時の話が聞きたい、と。

 直球にもほどがあったけれど、父と仲が良かったと、病院関係者が口を揃えて言うくらいなのだから、私の申し出もそう不自然ではないはずだった。


 返事は意外と早く来た。一週間後、受付の人から、カードを渡されたのだ。淡いピンクの封筒に入った薔薇色のカード。内容は簡潔で、日時と場所と電話番号、そして、樋野宮那都希の名が、流麗で整った字で綴られていた。ペン習字か書道でもやっているのだろうか。


「電話番号……」

「この日で難しいなら連絡を下さいって。樋野宮さんはこの日、高校の終業式らしいわよ」

「大丈夫です、私はもう春休みに入ってます」

「そう、話、聞けるみたいで良かったわね」


 何の疑いもなく、受付の人は笑ってくれた。ただ当時の父の話が聞きたいだけだと、この数ヶ月、病院関係者に私が何度も話を聞きに来たように。

 嘘をついたようで、少し心苦しかった。それは、樋野宮那都希に対してもだった。私の勘違いだったら――否、勘違いでなくとも、樋野宮那都希自身は、父の片想いなど知らないだろう。父は想いを告げていない。

 本人に会って、話を聞いて、それで何か確信が得られる保証はない。


 ――それでも、樋野宮那都希自身の口から、父のことを聞いてみたい。


 指定された場所は、私の家から二駅分離れた公園だった。運動公園のようで、地図で見ると遊歩道を挟んでいくつかの敷地に分かれている。テニスや野球もできるような高いフェンスで囲まれたエリア、遊具が設置されたアスレチック広場のようなエリア。その端、水飲み場とベンチと砂場だけがある、こぢんまりとした休憩場所のようなところを、指定されていた。


 真っ先に目に入ったのは、その白い頬だった。

 血色が悪く、青白くさえ見えた。砂場のすぐ横に設置された木製のベンチに腰掛け、視線を俯けている。長い睫と紅色の唇、真っ直ぐ背中に流れる黒い髪。小柄で華奢な手足は、私より三つも年上だと思えなかった。膝にはスピンの垂れた文庫本、ベンチの横には口の開いた学校鞄が無造作に置かれている。ベンチのすぐ後ろが遊歩道の植え込みになっていて、人目につきにくい区画だった。

 ほとんど黒に近いセーラー服の裾を揺らして、白い膝がもぞりと動く。寒さを感じたのか、鞄と一緒に脇に置いていた上着を取ろうと上体を動かしたところで、彼女は私に気付いた。


「秦野、侑李さん?」

「っ、はい」


 あ、唾飲んじゃった。

 動揺が、思わず詰まらせた声に表れた。気を悪くしただろうか。


「初めまして、樋野宮那都希です」

「秦野侑李です。このたびはお時間頂き、ありがとうございます」

「……やぁだ、何、その就活生みたいな台詞」


 私が頭を下げると同時に、那都希は、呆れたような声音で言った。

 突然砕けた口調に、私は顔を上げる。


「中学生よね? 社会人でもあるまいに、たかが高校生相手にそんな畏まらなくっても。私別にあなたの先輩でもないし……あ、もしかしてそれが素なの? 普段通り?」


 矢継ぎ早に訊ねる声に、棘は感じない。純粋に私の反応を待っている、もしくは私の態度を観察している――のだろうか。


「いえ、素ではないですけど」


 私がそう返すと、樋野宮那都希は、そこで初めて、にっこりと――棘を含んで、微笑んだ。


「今の、啓高先生に似てた」


 鼓動が、跳ねた。

 父の名前。

 普段聞くことのない、父の下の名。


「啓高先生のことを聞きに来たのよね。担当ではなかったけど、長期入院だったし、随分気にかけてもらってたわ……何が、聞きたい?」


 スカートを軽く持ち上げ、足を組み、その太腿に両の肘をついて樋野宮那都希は私を見上げる。

 薄く塗った紅い唇が、いっそ、優しく見える角度で上がっている。


「例えば――キスしたことはあったのか、とか?」


 ざわ、と、肌が粟立った。

 嫌悪か、羞恥か。

 その両方か。

 薄曇りの空がにわかに陰る。生温い春の空気が、首筋に張り付いた。

 彼女は、知っている。父の気持ちを。

 私が、何を聞きに来たのかを。

 樋野宮那都希は、口許に小枝のような指を当てて、目を細めた。


「それとも、啓高先生のことは口実だったかしら。事件のことを聞きに来た? 生の人間の血は美味しかったか、とか?」


 ふふ、と少女のような顔で笑う。私と同じか、もっと下に見えそうないたいけな顔で。薄暗がりの中、白い頬に、血色の悪い白っぽい爪先を当て。


「美味しいわよ、人間に限らず、概ねはね。高校になってから口にしたものの感想だけれど」


 凩が枯れ葉を巻き上げて、私の靴の横っ面を叩いていく。耳鳴りのような風の音が煩い。


「父が、したとは思えませんが」

「ん?」


 風が落ち着くのを待って発した言葉に、彼女は首を傾げた。

 私は、慎重に息を吸って、吐く。

 痛い。どこが痛いのか分からない。胸か、喉か、胃か、背中か。


「……キス。告白もしていないだろうに、そんなこと、父ができたとは思えませんが」


 刺されているのは、私か――彼女の方か。


「……」


 那都希は、少しの間、私の顔を見て。

 その間、私は、肌が真っ赤だったかも知れない。

 何せ、息が上手く吸えていなかった。体が火照っている自覚はあった。黙っていても、唇が震えている。足がぐらつきそうだった。

 やがて、ぽつりと。

 那都希は、瞼を半分伏せて、頷いた。


「……勿論。啓高先生、私が気付いてるって、知らなかったもの」


 ――高校生になったら、先生の血は飲ませてもらおうと思ってた。


 そう、樋野宮那都希は言った。

 組んでいた足を下ろし、脇に置いていた黒のカーディガンを羽織ってベンチから立ち上がる。文庫本と学校鞄はベンチに置いたまま、その身一つで、彼女は私の前までゆっくりと歩いてきた。


「仲の良い看護師さんとか、担当医の木島先生にもお願いしてたけど。高校生になったら絶対に飲むって決めてたから、協力してくれそうな人には全員にね。この二年間で百人は飲んだ。啓高先生は、危険だよってあんまりいい顔してなかったけど、頼み込んだら絶対折れてくれるって、分かってたから」

「お父さんの気持ちを、知ってたから?」

「啓高先生をお父さんって呼ぶの、何だか新鮮」

「私もです」


 父を下の名前で呼ぶ人なんて、祖父母くらいしか、知らない。

 那都希は、うっそりと目を細めた。

 その細い指が、私の頬に伸ばされる。私が思わず足を後ろに動かす前に、指は肩から私の髪を一房掬った。

 細い首が、撓垂れるように傾けられる。


「何が、聞きたい?」


 同じ言葉だったけれど――甘えるような、毒を含んだ、声だった。

 那都希が私の髪を弄ぶ。砂場とベンチがあるだけの、酷く殺風景な公園で、そこだけ色づくように、那都希の肌理の細かな白い頬に、光が差す。


「……父のこと、どう思ってましたか」


 彼女は。

 樋野宮那都希は、父の失踪理由を、知っているだろうか。

 私は、バス停で震えながら読み返した手紙のことを思い出す。

 それが、彼女への想いのせいでは、ないかも知れないことを。

 本当の理由を。

 私の問いに、那都希は紅い――今ではそれが、彼女なりの戦闘着なのだと知っている――唇を、愉しそうに吊り上げて。


「さあ、どう思ってたと、思う?」


 意地悪く、そう聞き返してきたのだった。




 ――この日の問いの答えを、四年経った今も、私は那都希からもらっていない。





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