8 冷気と信号
「それで、なんで私が同席することになるかな……」
「だぁって、侑李が、行ってきなよって言ったんじゃない?」
べったりと私の左腕に寄りつきながら、那都希がふて腐れた顔でぼやいた。赤く塗った唇をつんと尖らせ、腕に頬を寄せてくるくせに、視線は拗ねてそっぽを向いている。
大学にほど近い駅前の商店街は、週末の飲み屋街らしく賑わっていた。日もとっくに暮れたというのに会社員や学生達が多く行き交い、呼び込みの声と漏れ聞こえる店内ミュージック、乾杯などで騒ぐ客の声が、煉瓦調の歩道に溢れている。先日から強くなった北風が、重いダッフルコートを大きくはためかせた。車が進入しかけている十字路で足を止め、私は溜息をつく。
「私、完全に部外者じゃん」
「みんな侑李のこと知ってるわよ。もう一つのゼミ、十畑先生だもの」
「十畑ゼミの人とは、あんまり会ってないんだけど……」
十畑ゼミはそもそも、十人以上の大所帯ゼミなのだ。文化人類学は、先生の若さも手伝って文系ではたいそうな人気で、毎年多くの学生が希望を出しているらしい。血食症に関する公開講義を行う回数が、藤堂先生に次いで多いのも、恐らく理由の一つだ。
「まだ藤堂ゼミの方が面識あるよ……」
「生物学と歴史文化学の共同研究って、何の研究よ」
関係ないわけじゃないけれど、連名で出すほどの研究テーマとなるとねぇ、と首を傾げた那都希は、そこであ、と指をさす。
「あそこ、牡丹鍋の看板があるところ」
「ああ」
艶めいた暗紅色の肉の断面に、踊るような筆文字で牡丹鍋、と書かれた看板が、ビルの入り口に置かれている。エレベーターで二階に昇る。扉が開いたところに、すでに麻見ゼミと十畑ゼミの人たちが待っていた。
「わ、樋野宮さんだ!」
「わー! ほんとに来てくれたんだ~」
「侑李ちゃん、こんばんは~」
「お邪魔します、済みません」
扉が開いた直後に、す、と那都希が表情を消したのを横目で見つつ、私は軽く会釈をした。那都希のこれは半分ポーズだ。しぶしぶ来たのだと、最初に提示しておきたいのだろう。研究室では普通に会話をする仲の人ばかりだ。那都希は私の腕から身体を離しはしたが、手は掴んだままだった。
「あ、樋野宮さん」
集団の中から、鹿能将志が手を振ってくる。
「来てくれてありがと! 侑李ちゃんも。個室だし、コースだから、気兼ねなく食べてって」
後半、少し声を落としながら、に、と笑う彼に、先日の臆病さは感じなかった。今までと変わらず、適度に軽薄で、適度に気遣いができ、そして少し、余計。私は軽く頭を下げ、那都希は一言、どうも、とだけ答えた。
宴会用の座敷に通され、障子で締め切られた中、入り口から一番遠い場所に二人で座る。コートを脱ぎ、那都希は水を、私は烏龍茶を頼んで、机上のコンロに火が入れられたところで、乾杯となった。
目の前には麻見先生と十畑先生、ゼミ生を挟んで、入り口付近には幹事の鹿能さんがいる。私を気遣ってか、那都希を気遣っての配置か。とりあえず手にした烏龍茶をちびちび飲んだ。
「侑李、それ一口」
「催促が早い」
私の前に置いてあるレバーのお通しを指さす那都希に、私は首を横に振った。そもそも、那都希、レバーはあまり好きじゃないはずだから、これもただの意地悪だ。
「秦野さん、お疲れさま。今日も模試だったって聞いたけど、大丈夫だった?」
麻見先生が、ビールを片手に聞いてくる。もう片方の手で、樋野宮さんこれ食べる、と自分のお通しを那都希に示してくれたけれど、那都希はにっこり微笑んで、侑李のが欲しいので、と断っていた。
「じゃあ秦野さんが私の食べる?」
「那都希にはあげないので、大丈夫です。あと、受験もご心配いただいてありがとうございます。今のところは順調です」
「秦野さん、こつこつ派だもんね。私は学生の頃、この時期は結構かりかりしてたけど」
「麻見先生が?」
「この人、理数からっきしだから」
斜め前から、十畑先生が少し赤い顔で口を挟んだ。少量でも顔に出てしまうタイプらしい。口調ははっきりしているが、耳はすでに真っ赤だ。
「大学の同期なんだよね、麻見先生とは。学生時代はたまに一緒に飲んだけど」
「お互い飲みサークルに入ってたからね」
「今回はお世話になりました」
「こちらこそ、今後もどうぞよろしく」
二人はお互いに頭を下げ合う。それから私に、現在の高校の授業内容を聞いてきた。私がそれらに答えると、二人が自分たちの頃の話をしてくれる。お酒の席に高校生が付き合っていることに、かなり気を遣ってくれているようで、二人は適度に私に質問を振ってきてくれた。本当に私、邪魔なんじゃ。
それにしても、十畑先生も麻見先生も、飲みサークルに入っていたことは意外だった。那都希が、二人ともお酒が強い、と言っていたのは覚えていたけれど。那都希を見遣れば、私をここに連れてきた張本人だというのに、涼しい顔で血液パックを取り出し、ワインレッドに塗った爪で銀色のそれを緩く押して吸っている。二百ミリリットル五パック。それが、血食症患者が一食で必要とする、血液の量だ。
そろそろ煮えてきたね、と麻見先生が鍋の中を覗いた。
「樋野宮さん、食べる? 猪肉大丈夫?」
すっかり泡立った鍋の具を小皿に取り分けながら、そう言った麻見先生に、那都希はにこ、と笑った。
「ちょっとだけいただきます。猪肉は一度挑戦してますから」
さすが。猪肉も食べたことあるのか。
鹿能さんは、そういうことも確認してお店を選んでいるかも、と思った。
麻見先生が、秦野さんもどうぞ、と、取り分けた小皿を渡してくれる。白菜の甘い香りと、猪肉の脂の溶ける匂い、それに、部屋に充満しつつある麦酒の苦い香りが、同時に鼻腔に迫る。
「あ、ねえ侑李ちゃん」
那都希が猪肉を食べるのにほんの少し俯いたタイミングで、十畑先生の隣から、十畑ゼミの人が話しかけてきた。ベビーピンクのリップの女性。十畑ゼミの中ではあまり知らない人で、一、二度、十畑先生とのお喋り中に顔を合わせたことがあるくらいだ。
「侑李ちゃんの味って、何だった?」
かつ、と、持っていた箸が取り皿の底に当たった。
「あ、血の味ね。そういえば聞いたことないなって。樋野宮さんから侑李ちゃんの話は結構聞いてるんだけど……あ、私、甘めのフルーツ牛乳だって」
「奏木さん、侑李ちゃん、まだ飲んでもらってないんだよー。那都希、そのことでいつも拗ねてるよ」
「そうなんだ? 三年近く一緒に住んでるから、もうとっくだと思ってた」
「侑李ちゃんめちゃくちゃきっちりしてるんだよ~。私たちは藤堂先生のお墨付きで提供したけど、やっぱりリスクがないわけじゃないし」
当の那都希がねだってんのに、偉いよねぇ。
那都希の隣にいた、顔なじみの先輩が私の代わりに答えてくれる。私は、偉いわけじゃ、と言い挟むのが、精一杯だった。会話はすぐに別の話題に移っていく。
自分の血の味は何だったか。
麻見ゼミは勿論、十畑ゼミでも半分以上が、那都希に生の血液を提供したことがある。
那都希自身が、ゼミ会合の初っぱなで協力のお願いをしているからだ。麻見先生は貧血持ちで、断ったそうだけど。
私が断り続けているのは、偉いからでは、ない。
不衛生だといつも言っているのは、本心だった。那都希も那都希で、わざと杜撰な形で噛んで良いかとか、舐めようかとか言うけれど、感染症のリスクを考慮した上で、藤堂先生や那都希のかかりつけ医の許可の下で提供されているそれまで、私は否定する気はなかった。ただ、それ以上に、私自身がずっと、線を引き続けているだけで。
その線が、果たして那都希のためなのか――自分のためなのか。
少なくとも、藤堂先生の許可のもと、血を提供している先輩達が「偉くない」訳では、ない。だからそこは、ちゃんと否定したかったけれど、そんな話題はもうとっくに流れていて、私は口を閉ざすしかなかった。那都希が猪肉を食べながら、つまらなそうに横目で私を見ている。
ほらね。
ふぅ、と、肉を冷ますためにすぼめた唇が、そう言ったように見えた。肯定しか許されない、聞き流しの会話。那都希の嫌いなそれだ。
私は眉を下げて、笑う。
学校でも、こういうことはある。家族の間でも、こういうことはある。那都希との間でだって、強く触れないまま流すことなど、山ほどある。
でも、そう、確かに。
充満するお酒の匂いが、上滑りした会話を宙に投げて、酒気の上でもてあそんでいるように思えた。
ああ。
私も、好きじゃないかも。大人数のお酒の席。
「侑李ぃ、助けて」
「え?」
突然、那都希が渋い声で私を呼んだ。
取り分けてもらった猪鍋の具はとうに食べ終えたらしい。血液パックも合間に飲んでいたのか、すでに空で、那都希は二パック目を取り出していた。
「開かない」
二パック目の入ったポリ袋の端を、ぐに、と伸ばして、那都希は眉を寄せている。
血液パックは、二パック単位でポリ袋にパッケージングされて売られている。一回五パックが必要量だが、実際には毎食で確保できるほど血液パックは流通していない。そのため、二パックから三パックの血液と普通の食事やサプリを足して補完をはかることが、血食症者の常だった。それでも血液四百ミリリットル以上の不足は、血食症者に慢性的な栄養不足を引き起こしているが。
那都希は三パック分を持ってきていたようで、残り二つ分のパックが入った外装のポリ袋が、開けられないようだった。私もよくやるけれど、マジックカットのはずなのにたまに開かないあれは、いったいどういう不具合なのだろう。
「貸してなっちゃん、私ハサミ持ってる」
「頼んだ」
びろびろに伸びた袋の端を、苛立たしそうに睨んで、那都希がそれを渡してくる。私は筆箱の中からハサミをとりだしてそれを受け取った。
ち、とハサミの刃を袋に当てる。
「あ、そうそう、侑李ちゃんのお父さんって、樋野宮さんが入院してた病院の先生だったんだって?」
今度こそ本当に、手元が狂った。
あ、と思ったときには、指先に痛みが走っている。
不意に声を上げた先輩は、鹿能さんの二つ隣に座っていて、私や那都希とは席が遠かった。
「えーっ、初耳! そうなの? 今までそんな話聞いたことなかった。どこで知り合ったんだろうって、不思議には思ってたけど」
「この前樋野宮さんが藤堂先生とね、秦野先生が~って話してて。先生? て不思議に思って樋野宮さんに訊ねたの。ね、樋野宮さん」
「え、ああ……うん。そう言えば話したわね」
何それ。聞いてない。
いや、聞いてなくて当たり前だろう、と口を引き結んだ。那都希は事実を話したに過ぎないし、聞かれて答えただけだ。私に了解をとるようなことでもない。知ってる人は知っている、ただそれだけの情報だ。
藤堂先生は、那都希のかかりつけ医、つまり、敷島病院における那都希の担当医の、先輩に当たる人だった。那都希と交流を持ったのは大学に入ってからだけれど、敷島病院とつながりを持っている人だから、二人で父の話をしていても、おかしくはない。
「秦野さん、血」
「え」
「あ」
麻見先生が、じ、と私の手元を見ていた。
かすっただけだと思っていたのに、切れていたらしい。袋を摘まんでいた左手人差し指の、一センチほどの赤い線から、じわりと血がにじみ出していた。
先生の声に、私と同時に振り返っていた那都希が、きょとんとした目でこちらを見ている。
「あ、大丈夫、絆創膏持ってるんで」
那都希が、いつものように何かを言う前に、と、牽制のように告げて私は鞄からポーチを出そうとした。
「そうだ、ね、匂いは?」
それは、先ほどの斜め前から発された。
奏木さんだ。ベビーピンクの口紅の。
「え?」
「料理と一緒で、血液に匂いもあるんでしょ? 鉄とは別の」
話しかけられた那都希が、そちらに顔を向けて、小首を傾げながら頷く。
「ええ。一般の食品と違ってめちゃくちゃ微かだけど。そもそも血液に味を感じるって言うのは、同時に匂いも感じてるってことだから」
それは、私も聞いたことはあった。ただ、それは本当に微かで、かなり鼻を近づけないと分からない。さすがに遠距離で分かったら、いろいろと女子としては気まずい問題もあるから良かった、と思った記憶がある。
「匂いだけでも結構味の予想つくんじゃない? それならリスクもないし」
「……そうね、侑李、ちょっと」
いい、と那都希が顔を近づける前に。
私は、身を引いて立ち上がった。
持っていたハサミと血液パックが落ちて、あ、ごめん、と思わず謝る。
「ごめん、那都希、自分で切って」
「……うん」
「あと私、絆創膏貼る前にトイレで洗ってくるから」
「……分かった」
ぱた、と脚が震えないように注意しながら、早足で座敷を抜けて、個室を出た。あらー駄目かー、まあさすがに突然だったしね、なんて、冗談めかす声が聞こえてくる。部屋を出る一瞬、鹿能さんと目が合った。ちょっと驚きつつ、私を心配するように眉を下げてこちらを見ていた。
そんなの、勘違いかも。
私がこの前、ちょっと、鹿能さんの印象を良くしたからそう見えているだけで。
お店のトイレに駆け込んで、ああ、嫌だな、と思いつつ――吐いた。
お店に迷惑かけないように、ちゃんと綺麗に片付けなきゃ。膝、床につけられないから、体勢が苦しい。
幸いお腹にあまり食べ物が入っていなかった。模試の後だったので、お昼をコンビニのサンドイッチで済ませていたし、猪鍋もまだほとんど食べていない。
それでも、咽せるような饐えた匂いが、トイレの個室に広がる。
匂い、外に漏れてないかな。
私の体内から出る匂いなんて。
全部、こんな匂いなんじゃないか。
「侑李」
吐いたものを水で流して、手洗い用の洗面台で軽く口をゆすいだところで、トイレの外から声がかかった。
那都希だ。
「大丈夫?」
「大丈夫。戻れるよ。ごめん」
「いいわよ。お酒の匂い、慣れてないときついしね。ちょっと早めに切り上げましょ」
それも見越して侑李を誘ったんだし、とあっさり言う那都希に苦笑して、私は座敷の席に戻る。麻見先生からは、少し気遣うような顔をされたけれど(多分私の挙動を那都希の次に間近で見ていた)、私が済みません、といつもの顔で指に絆創膏を巻くのを見ると、一つ頷いて「秦野さんサラダ食べる?」とお皿を取ってくれた。
吐き気はもうすっかり消えていたけれど、それでも少しセーブして、私と那都希は猪鍋が三分の二ほど消えたあたりで、帰ることにした。六時半から始めて約一時間半、八時も過ぎれば、高校生を家に帰すという言い訳に、丁度良い時間だ。
お店を出て、エレベーターで階下に下りる。
外に出ると、今までいた場所が、どれほど暑かったのかを知った。
冷えた空気が顔と膝に当たって、痛い。ダッフルコートの表面も急速に冷えて、染みこむように届いた冷気が、肩を震わせた。体内に残っていた熱気を逃がすように、白い息を吐く。
体の中の酸素を、入れ替えようとする。
依然明るい飲み屋街の街路に足を踏み出しながら、那都希が言った。
「ごめん。匂いくらい、良いかと思った」
「……ううん。私自身、匂いについては考えたことなかった。びっくりさせてごめん」
「侑李」
那都希が、私の腕をとった。
華奢な腕。鶏ガラみたい、と以前呟いたら、失礼ねぇ、と拗ねた。
――もっと良い表現してよ、薔薇の茎みたい、とか。
那都希が細いのは、血食症である他に遺伝の関係がある。那都希のお母さんもお祖母さんも、とても線の細い美人だ。
――内臓はほとんど別物らしいけど、ちゃんと血は繋がってるのよね。
那都希はそれを、夏休みを楽しみにするような、弾んだ声で言っていた。
那都希にとってそれは、悲しみを含むようなことでは、ないのだ。
細い指が私の手を包む。
「もし、侑李が許してくれることがあっても、人前で侑李の血は飲まない。侑李の前で人の血を飲むことも、しない」
「……うん」
ねえ、那都希。
私は足を止める。私の手を握っていた那都希が、振り返る。
「――――――――」
ざわつく人通りと、飲み屋から漏れる雑音の中。
横断歩道の信号機が、那都希の白い頬の向こうで、点滅していた。
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