2章 花の蜜の色
7 マカロンの毒
久しぶりに何の予定もない休日がやってきたので、ショッピングセンターに出かけることにした。気になる珈琲屋が近くにできていたし、そろそろ冬物が売り出されている。スカートかセーターか、一着新調したいなと思っていた。
「あ、」
「あれ、」
思わず上げた声に、向こうもすぐに反応してくれた。チャコールグレイっぽく染めた髪、高身長に似合う細めのジャケットとパーカー。目は甘い切れ長だけれど、人懐っこそうな表情が気さくさを演出している。
「鹿能さん」
「侑李ちゃんだよね、久しぶりー! 夏前にゼミで会った以来?」
「ですね」
その程度の関係値でも、旧知のように話しかけられることに、内心で驚いていた。
「鹿能さんも買い物ですか」
「そう、ちょっと冬物を見に。あ、侑李ちゃん、ちょっと待ってもらって良い?」
私の返事を待たずに、鹿能将志は私たちの真横にあったコーヒーチェーン店へ入っていく。カウンターで何か注文して、ものの数分で戻ってきた。
「はいこれ、ハッピーハロウィン」
「え、」
紙袋の中に入っていたのは、店の定番人気スイーツであるマカロンだった。コーヒー味とバニラ、苺、ヘーゼルナッツの四つセット。
「そんな、」
今日がハロウィンだということは分かっていた。けれど、特にそのイベントに乗ろうとは思っていなかったため、突然のことに戸惑う。断ろうにも返しが咄嗟に思いつかなかった。どうしたら良いのだろう、これ。
「いーからいーから、俺、イベントに乗っかるの好きなんだよね。三十一日に会ったのが縁だと思ってさ。あとちょっと聞いてみたいことがあって」
「聞いてみたいこと」
「そう、あの、あんまり変に思わないで欲しいんだけど。樋野宮さんのことで……、ちょっとだけ」
そう、片手を詫びるように立てながら歯切れ悪く言う鹿能将志は。
視線を僅かに俯けていて、普段ゼミで見かける人懐っこさや気安さを、ほんの少し陰らせていた。
いや、難しいなら良いんだけど、とすぐに彼は安全策を呟く。何となく、本当に困っていそうな気配を察して、私はとりあえず「はあ」と頷いた。
マカロン、このままもらってしまうのも申し訳ないし。
「分かりました。私の分かる範囲で良ければ。行きたい珈琲屋さんあるので、そこ、ご一緒しませんか」
「……侑李ちゃん、ほんと丁寧な子だよね」
私も、鹿能将志が、こんな風に私に対して遠慮がちになる人とは、思わなかった。
ショッピングセンターの裏路地にある、小さなコーヒーショップで私たちは向かい合って座った。店内にはシンプルなコの字型の机と、背もたれが低い木製ベンチが配されていて、コーヒーの他に焼き菓子とチョコレートが販売されている。微かな音量でクラシックがかかっているのが、あまり馴染みのない人との相席にちょうど良かった。騒がしいコーヒーチェーン店でも、私のバイト先のように雰囲気のありすぎる喫茶店でも気まずかっただろう。
注文したオリジナルブレンドが来るのを待ってから、鹿能将志が口を開く。
「あの、樋野宮さん、多分俺のこと嫌ってると思うんだけどさ」
「……」
「一回で良いから、ゼミの飲み会来ないかなって思ってんだよね」
来ないの分かってるんだけどね、と、鹿能将志は苦笑した。
私はブレンドコーヒーをすする。まだ熱い。けれど適度に焙煎したまろやかな香りが、鼻の奥を満たしていった。
「侑李ちゃんに相談するのも変だなとは思うんだけど、樋野宮さん、君のこと大好きだから」
「大好きかどうかは、判断しかねますけど」
「いや、好きでしょ、絶対。麻見先生のことも好きって感じするけど。潔癖じゃん彼女、そういう感情に対してさ」
「……まあ」
私は内心、彼の鋭い指摘に驚いていた。同時に、何か苦いものを飲まされたような心地もしていた。美味しいコーヒーを飲んでいるはずなのに。
――そこまで分かっていて、どうして毎回、律儀に那都希を誘うのだろう。
――どうして、大好きなどという率直な言葉を、あっさり使えてしまうのだろう。
好かれている自覚は、一応、ある。
好意としての純粋さを、私がいちいち考えてしまうのが、良くないのだということも。
「俺の勝手な話で悪いとは思ってるんだよ」
「え」
ぽつん、と落とされた言葉に、私は思わず顔を上げた。
やけに小さな声だった。
鹿能将志は左手を惑うように首の後ろに当てる。その手首に、さりげないシルバーのバングルをしていた。それが微かにチリチリと鳴って、こういう人も、古代ギリシアに興味を持つんだな、と偏見の塊でしかない感想を持つ。思えば那都希も、外見だけを見れば古代ギリシアに興味を持ちそうな感じはしない。
鹿能将志は、コーヒーを飲みながら続けた。
「十一月に麻見ゼミと、もう一つ、別のゼミの奴とで合同の研究発表があんのね。総勢二十名。打ち上げしようぜって話してて。樋野宮さん、麻見ゼミの飲み会すら人数が多いって来ないけど、今度のは先生も参加するから。わりと、研究室のノリと変わらずに行けると思うんだ」
「……そう、誘ってみたら良いんじゃないかと」
「俺が誘ったら来なさそうでさ?」
「私から話を出すのも不自然ですよ。ゼミの他の人に頼めば」
「いや、それはもう頼んでて。いやー、いつも自分で誘うのに、言い訳すんの、難しかった!」
あはは、と笑って、鹿能将志は肩を竦める。
じゃあ、何を私に頼むのか、と首を捻った。
絶妙に気が遣えて、絶妙に無神経。
メッセージを見て、ゼミで見かけて、感じていたものをやはり肌でも感じていた。話の運び方、仕草、口調。けれど、思っていたほど嫌みには感じない。
「侑李ちゃんには、できれば、ちょっとだけ背中を押すようなことを言ってもらえると」
「どうしてですか?」
「えっ」
鹿能将志が、固まった。私は、ああ、と首を振る。
「いえ、やるだけはやってみようと思います、そのくらいなら。ただ、どうしてそんなにお膳立てするのかなって。今回は特に」
来ないのが分かっていて、嫌われているのも分かっていて。どうして毎回、事務手続きのようにメッセージを送るのだろう。本当に来て欲しいなら、今回みたいに、もっと違う誘い方が、この人ならできたように思う。
この短時間で見た姿を思い返して、私はそう考える。鹿能将志は、決して無神経なわけじゃない。明るく気さくで、でもほんのちょっと引くことを知っている。けれどその引き方が、那都希の神経を逆なでしているのだった。引くなら完全に引くか、いっそ引き方を知らないゴーイングマイウェイの方がマシ、とは、先日チーズケーキをビルベリージャムで食べていた那都希の言だ。
「那都希、少人数の飲み会とか食事会なら行くじゃないですか。でも鹿能さん、大人数の飲み会にも毎回誘うから。那都希は、行かないからもう誘わなくて良いって、言ったんですよね?」
「大人数の中じゃないと得られないものって、あると思ってんだよね」
鹿能将志は即答した。押しつけで申し訳ないんだけどさ、とも呟いて。
押しつけだって分かっていてなお。
そこで、まるで惰性のように引かなかったのは。
背もたれのほぼない椅子に、彼が姿勢を正して座り直す。俺の勝手な話ね、と笑った。
「その機会を、俺が彼女を誘わないことで奪っちゃったらって、思うのが怖いんだよ。傲慢っていうか、小心者だよね。俺以外の誰かが連絡してるならしないと思う。でも他の皆は、一回はっきりそう断られたら、もうやんない方が良いって感じで。分かるんだけど、どうしても、とりあえず情報だけでも、渡しとこうかな、て」
迷いが文面に出ちゃってんだよなぁ、と、鹿能将志は俯いた。
本当に驚く。やり方に、少しばかり苛立たしい部分があるのも事実として、彼は、自分が苛立たれているだろうことも理解している。
こんなに、思い悩んで意気消沈する人だとは思っていなかった。いや、それは、私の傲慢だった。
人間なんだから落ち込むことぐらいあって当たり前で、馬が合わないこともあって当たり前なのだ。生身の人間の感情を、分かった気になっていることは、傲慢だ。
那都希に対して私が慎重になるのは、だからなのに。
「……だから、一回でも?」
私は訊ねる。
「そう。一回来てくれたら、それ以降はもう樋野宮さん自身の問題にできるかなって。機会を奪い続けることにはならないかなって。俺の中の話で悪いんだけどさぁー」
最後に、誤魔化すように伸ばした語尾が、那都希的にはイラッとするんだろうな、と思いつつ。
彼のそういった誤魔化し方に慣れてきていた私は、そうですか、とただ相槌を打った。誤魔化さない方が、那都希は鹿能さんのこと見直すかも知れないけれど、それも、私の思い上がりかも知れない。那都希や鹿能さんが、本気で互いのことを知りたくなったら、その時に分かることだ。
だから、一回くらい、ちゃんと説得してみようか。
決心して、私が頷いたのを見ると、鹿能さんはありがとね、と笑った。
お会計を済ませてコーヒーショップを出る。マカロンをいただいたことを引き合いに、奢ってもらうのを固辞して私が会計を終えると、ドアをくぐったところで、ふいに、鹿能さんが呟いた。
「中学の時、クラスでいじめがあってさ」
ありがとうございましたー、という明るい店員の声が、背中に届く。ひゅぅ、と晩秋の乾いた風が頬を撫でた。
「俺は、気がつかなかったから、後で聞いたんだけど。とある女子がとある女子を、休みの日に絶対に遊びに誘わないのね。同じグループで、教室だといつも一緒にいるのに、休みの日にその子だけ誘わないで、グループの他の子とその子の悪口言ってるらしいの。たまたまカラオケで出くわした俺の友達が聞いたって」
卒業式の日にそれ聞いて、すげぇやな気分になったよね、と、彼は苦笑した。
「そういうつもりって訳じゃないけど。だからつい、メッセージ送ってるとこはあると思う」
樋野宮さんには特殊な事情もあるけど、これは一応、俺の話のつもり、と。
鹿能将志はもう一度、念押しするように呟いて私にひらひらと手を振った。もらったマカロンの袋から、やけに甘ったるい香りが、漂っているような気がした。
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