6 ルームシェアその2(三年前)
血食症患者である樋野宮那都希のことを、母は知っていた。
父の失踪直後に、足繁く警察にも病院にも通って、父の行方を捜していたのだ。当時まだ入院患者であった那都希とも、面識ぐらいあったのかも知れない。
ただ、それが、あくまで父の失踪時に起きていた事件の、そして父の勤務先の関係者としてだったのか、それとも、私が気付いたように、あの置き手紙の片恋相手としてだったのかは、母の態度からはさっぱり分からなかった。
「樋野宮……て、敷島病院の?」
ルームシェアの件を持ち出したとき、母は目を瞬かせ、首を傾げた。
「うん……今は退院してて、この春から大学生なんだけど」
私からその名前が出たとき、母は驚くように目を見開いたけれど、それは唐突に出た、知っている名前のせい、にも思えた。私が緊張しながら話をすると、考え込むように、眉を寄せる。
「侑李、樋野宮さんと知り合いだったの?」
「うん。……一年くらい前に、ちょっと、偶然会って」
私が咄嗟についた嘘に、母が気付いたかどうかさえ、私には分からなかった。リビングテーブルで仕事用の資料を開いたまま、考え込む母の向かいに私は腰を下ろす。
「……樋野宮さんの身体のことは?」
「知ってるよ。血食症――欠血症って言った方が良いのかな。本人が血食症って言ってたけど。でも、退院して三年経ってるし、春からは一人暮らしする予定だったんだって。それで、ルームシェアはどうですかって」
「ルームシェア……」
敷島病院に長期入院していた那都希の実家は、私たち秦野家が暮らす家とそう離れてはいなかった。那都希はそのまま地元の高校に進学し、大学もそこから電車で行ける範囲で考えていた。今でもかかりつけが敷島病院なのだから、その方が色々と便利ではあるだろう。一人暮らしは那都希のたっての希望で、しかし、そこに私が転がり込むことは、全く構わない、とのことだった。
「お互いのことはお互いでちゃんとする。どちらが世話を焼くとかじゃないけれど、助け合える部分は助け合う。そういう形でよければって。私も高校生になるし、バイトとかもしたいし、どうかな」
「……とりあえず、待って。まずはその、樋野宮さんに会いたいんだけれど」
那都希との待ち合わせはその週末、ホテルのラウンジでとなった。指定してきたのは那都希だ。お気に入りのラウンジカフェらしく、おすすめのケーキセットとドリンクまでメッセージに添えてきた。私と母は迷わずそれを頼む。
「少し早く来すぎたね」
「そうね」
那都希がまだ来ていないようだったので、先に席に向かい合って座った私と母は、ウェイターにメニューを返してラウンジを見渡した。
大窓から燦々と降る日差しは、三月とは思えないほど陽気だった。街路樹の芽吹きだした緑が陽光に照らされて、窓辺のソファ席に柔らかな影を落としている。しばらくして運ばれてきたカモミールティーは、陽気に馴染むような優しい香りがした。
ラウンジカフェの入り口にじっと目を向けていると、那都希が姿を現した。
細い手足に真っ黒な長い髪。中学生にも見紛うような小顔に、薄くチークをのせている。
血食症者は、貧血で顔色が悪いことが多い。学校でも、特例で化粧を許可することが多いそうだった。那都希自身は、面倒だし別にしなくても良いんだけど、時と場合にはね、と以前言っていた。
今日は、時と場合、らしい。
「お待たせしました、樋野宮です」
「侑李の母です、どうも、娘がお世話になっているみたいで」
全然、そんなことないですよと微笑みながら、那都希は私の隣に腰掛けた。すぐに先ほどのウェイターがメニューを持ってきて、しかし那都希はメニューを見ることなく、水と季節のカットフルーツを、と注文する。
「いいの?」
私は首を傾げた。おすすめできるくらい、メニューを制覇しているカフェなのに。
「一応、万全を期してね。時と場合よ」
ピッチャーから注がれたお水を受け取って、那都希はそれで、と母に向かった。
「侑李さんとのルームシェアのことなんですけれど」
那都希は、完全によそ行きの声をつくって、朗らかに微笑んだ。
「私のような血食症の人間、それも、まだ十八という年齢では、お母様がご心配になるのも分かります。ただ、病気のほうに関しては、自分で十分対処できますので、ご安心いただきたいです」
初めて会ったとき以来に見た、完璧な美少女然とした笑顔だった。普段の少し意地悪そうな雰囲気が、かけらもない。
「侑李さんとももう一年も親しくさせていただいていて、お互いの距離感も大体分かっているつもりです。何かあれば私の実家も近いですし、というか、両親はむしろうちで侑李さんを受け入れても良いと言ってるんですけれど」
「あ、え、それは」
寝耳に水の話に私が思わず声を上げる。と、那都希が苦笑した。分かってるって、と私に向けて口調を砕けさせる。多分、これは、私との親しさを母にアピールするための演出。
「侑李さんがひとりで樋野宮家にお世話になるのは、侑李さんが気にしてしまうんじゃないかと思って、私のほうで断りました。私も大学生の間は家を出たいと前から言っていましたし、侑李さんもそれを知っていますから、私が実家に残っても気にさせてしまうでしょうし。けれど、入院中には色々とお世話にもなった秦野先生の娘さんですから、いつでも頼ってくださいねと、うちの両親は言っています」
私は、ぎゅ、と膝の上で拳を握る。
「勿論、侑李さんに何かあったときは、お母様とお祖父様お祖母様に、すぐに報告させていただきます。それでもご心配でしたら仕方がありませんけれど……どうでしょうか」
言って、那都希は丁寧に、頭を下げた。
「……」
母は、ずっと静かに、那都希の話を聞いていた。頼んだ紅茶に手をつけることもなく、那都希の顔を、じっ、と、観察するように。
私はここにきて、胃が痛くなるのを感じた。
那都希の口から秦野先生、という言葉が出たとき、私は思わず母を凝視してしまった。母と那都希に面識があるのか、そんな口ぶりは二人ともしなかったけれど、二人が私に隠している可能性はあった。母に、大きな反応は特に見られなかったけれど。
こういう、さりげなく嫌な単語を交ぜるのが、那都希は上手い。
かちゃり、と食器の鳴る音がした。
気がつくと横にウェイターが立っていて、フランボワーズとホワイトモカのケーキと、季節のカットフルーツです、と私たちの前にそれぞれケーキを置いていく。
那都希のおすすめだというケーキは、白茶の生地に淡いピンク色のムースが重なっていて、上にはミントの葉とブルーベリーや木イチゴがいくつか飾られていた。季節のフルーツは八朔、苺、キウイ、オレンジ。
ちぐはぐなほど、綺麗だな、と思う。
那都希を見遣った。細い手足、指先、うっすらと塗られたピンクのネイル、艶出しした赤い唇、チークでほんのり色づいた雪肌、軽く上向いた長い睫。
那都希は、綺麗なものが好きだ。手が込み、洗練されていればいるほど、良い。
「……樋野宮さん、とっても、大人っぽくなったわね」
ふ、と、息をつくように、母が背をソファにもたれさせて言った。
「五年前、病院で見かけた時は、可愛らしいなと思ったけれど。まだ十八歳なのに、すごくしっかりしていて、びっくりした」
「ありがとうございます」
那都希が微笑む。否定しないのが彼女らしい。ような。
「侑李さんも、すごくしっかりなさってると思います。私が中学生の時は、もっと我が儘でしたよ。秦野先生にはよく叱られました」
思わず、唾を飲み込んだ。
那都希。
ここで、そんな話をするの。
ぐ、と手を握りしめてしまう。那都希は半分にカットされた苺にフォークを伸ばす。刺さった瞬間、薄紅色の果肉から、じわりと透明な液体が染み出した。
これまでの、完璧な美少女然とした態度を、少し崩している。片手で刺したフォークを、あ、と首を伸ばして、その小さな口に含む。
「……やっぱり、こういうのの方がちゃんと甘くて美味しいですね。侑李も、早く食べて。そのケーキ絶対好みの味だから」
うん、と頷いて、のろのろとケーキの端をフォークに引っかけた。
美味しかった。
甘さがきつくなく、ホワイトモカのほのかな苦みと、フランボワーズの酸味が舌に染み渡る。那都希がおすすめするもので、私の好みを外したことは、ない。
「普段は血液パックと、量的に補えない分をサプリやエナジードリンクとかで補っているんです。けど、あれ、あんまり美味しくなくて。こうして時々、普通の食事もしているんですよ……今日はちょっと、気をつけて果物だけにしましたけれど。軽食くらいなら全然平気なんです」
にこ、という効果音でも聞こえてきそうなほど、隣から発される柔らかで明るい声音は、もう、礼儀正しいご令嬢の雰囲気を取り戻していた。
私はそっと、握っていた拳を開く。
呆れるほど、那都希は意地が悪く、そして、それは――もしかしたら、那都希自身にとっても。
母がどう思ったのかは分からない。
ただ、お互いに注文した品を完食し、一息ついてお水を飲んでいると、母は、改めて確認するように那都希を見据えた。
「本当に、お邪魔じゃない? もしあなたの負担になるようなら、許可できません」
那都希は。
その時、ふ、と肩から力を抜いて。
「……勿論。私の方から、是非にと思っているんです。侑李さんといるのは、楽しいから」
そう言って、窓から降る木漏れ日に融けるように、那都希は目を細めて笑った。
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