5 ルームシェアその1(現在)
「ただいまぁー」
「お帰り。お土産は?」
「廃棄になったチーズケーキ。今食べるの?」
「食べる」
玄関を開けると、ふてくされた顔をした那都希が廊下の向こう、開け放した扉の前で寝転がっていた。ヘアバンドと三点セットのもこもこパジャマ姿、ソファの横にはヨガマットが置かれている。やっている途中で疲れて止めたんだろう。
「何ふてくされてんの?」
「侑李は今ごろ美味しいコーヒーとケーキを食べてるのかと思うと猛然と悔しくなって」
「仕事してたんだけど」
ごろん、と寝返りを打ちながら文句を言う那都希に言い返しながら、まあ確かにいつもお相伴にはあずかっているんだけどと、心の内で付け加える。とはいえ、それは店長による夜間手当の一部で、別に贅沢をしているというわけでもないのだから、当たり前のことを悔しがられても困る。
「いいでしょ、ちゃんとお土産もらってきてるんだから。と言うか、血液パックの味を改善してもらうのはどうなってるの? 要望は出してるんでしょう」
「検討中、の回答しか未だ返ってこないわね。賛同する同病者も多いんだけど。まあ、宇宙食と同じで一定の制限があるから、あんまり上手くはいってないみたいかなぁ」
「ふぅん」
「ちょっと、もっと聞いてきなさい」
「話したいんでしょ、どうぞ」
チーズケーキの入った箱をリビングのローテーブルの上に開けて、フォークを二本、台所から持ってくる。促すように手のひらを向けると、那都希は寝そべっていた身体を勢いよく起こして「こんな連絡が来たんだけどぉ!」と、眉を顰めながら携帯の画面を私に見せてきた。
チャット画面が開かれていて、その一番下に私は目を向ける。
〈今度の飲み会、樋野宮さんどうする? 個室だから、血液パック持参でも構わないよ〉
「……」
これは。
メッセージのあとに付け加えられた、テンション高めの犬のイラストが絶妙に腹立たしい。
「鹿能さん?」
「そう。こいつほんとやだ」
那都希が苦々しげに言うのに、私は溜息をつきながら那都希の隣に座った。
「鹿能さん、悪気はないんだよねぇ……この犬も、来てくれたら嬉しい! てくらいの意味合いでつけてるっぽいし」
「だからこそいや」
「なっちゃん、はっきり言うともっと嫌になるよ」
那都希は、同じゼミの鹿能将志を、毛嫌いしている。
麻見ゼミは総勢八名だ。その内六人は女子で、那都希は彼女たちとはそこそこ良好な関係を築いている。残り二名の男子のうち、一人は後輩で那都希には萎縮しており、そしてもう一人、同級の鹿能将志という人は、何というか、気を遣っているようで微妙に気遣えていない、那都希の地雷を踏んでいくタイプだった。いっそ、真っ正面から無神経な奴であれば、よほど那都希的にはましだったんだろう。
血食症患者のほとんどが、当然だけれど食事を人前ですることを避けている。周囲の偏見は勿論、本人達にとっても、食事はさほど楽しいものではないからだ。
――家族や友人達が彩り豊かな食事をとる中、自分だけ、無機質な銀色パッケージの、他人にとっては食物になり得ないドリンクでお腹を満たしている。
非血食症者が九割を占める社会で生きている彼ら自身、この違和感が拭えない人は多い。そのうえ、血液パックは那都希のいうところの「栄養補完食みたいな味」で、世の美味しいものは、たくさん食べるとお腹を壊す。当然、食事そのものが楽しくなくなる――とはいえ、だからといって那都希のように生の血を食べたがる血食症者も、それこそ社会的、衛生的忌避感からほとんどいないのだけれど。
ただ、那都希は、別に食事を人前でとるのが嫌なわけではない。
私の血の味について麻見先生と談笑しているくらいだ。血液を食べていることによる疎外感など、那都希にとってはどうでも良いことらしい。研究室で血液パックを飲んでいる姿も見たことがあるし、お腹を壊すよと注意するほどには、先ほどのように普通の食事にも貪欲である。当然、鹿能将志はそれを知っているから誘いのメッセージを送っている。
しかし、根本的に、那都希は人付き合いが好きではなかった。
「すごーい、そうなんだー、分かるー、で形成される会話の何が楽しいのよ。そこに自分なりの哲学披露してくれるんなら、他人の悪口だろうが自慢話だろうが私も楽しく聞くところだけれど、考察が浅くて議論にもならないような不平や苦労話ばっかり聞かされて、私に何のメリットがあるっていうの?」
同居を初めて半年くらい経った頃、大学の飲み会を全て断っている那都希に、どうして行かないの、と訊いたことがある。那都希は私とお茶をするのは好きだし、大学の友人達と買い物に出かけたり、そのまま一緒にランチをしていることもあった。当時はまだお酒は飲めなかったけれど、二十歳の誕生日を迎えてからは冷蔵庫にお酒を切らした日がない。けれど、ゼミの集まりとか、新歓とか、大人数の飲み会だけは、いつも必ず断っていた。曰く、少人数で気心の知れた相手とだけならともかく、大人数になると、たとえ見知った相手でも会話の内容が浅くなる、あの空気が嫌い、とのことだ。
「鹿能さん、那都希が飲み会好きじゃないの知ってるから、絶対来ないって分かってて誘ってきてるんだよねぇ……誘わなくていい、て言えば?」
「言ったわよ、最初の頃に。でも飲み会あるのに最初から誘わないのも失礼、とか思ってるみたい。だったらもう少し丁寧に誘えってのよ。どうする? て、来ないこと分かりきった文面じゃない」
「それはなっちゃんの言い過ぎだと思うけど。まあ、来ないだろうことが分かっててメッセージ送ってきてるだろうことには同意するし、そのうえでこの犬のイラストが絶妙に苛つくとは、私も思うよ」
でしょお、と、那都希はチーズケーキにフォークを突き立てた。ケーキに罪はないのに、ケーキが痛そう。
「でも、あくまで印象の話だから。来ないと分かってて、毎度律儀に誘ってくれるまめさを、無碍にするのも良くないよ」
「……まじめぇ」
机の天板と頬を仲良くさせて那都希は呟く。私はチーズケーキにフォークを入れた。こんがりムラなく焼き色のついた表面から、しっとりとしたレモンクリーム色の生地へと、す、とフォークは入っていく。柔らかくて滑らかな舌触り。うちのバイト先はケーキも美味しい。
「あ、そうだ」
身体を起こして、行儀よくケーキを食べ出していた那都希が、ふと腰を上げた。ソファの後ろから、発砲スチロールの箱を引きずり寄せてくる。通販? と私は首を傾げた。
「るかさんからイタリアのお土産届いてたわよ。ジャムとお野菜」
「え、お母さんからメッセージ来たの、今日なのに」
「連絡し忘れてたんじゃない?」
忙しいとぎりぎりの連絡になるわよね、るかさん、と那都希はくすくす笑った。
「ジャムは多分ビルベリーでしょ、チーズケーキに合うわよ。ほら、早く開けて」
「那都希、ちょっとは自分のお腹を気にして」
「なっちゃんって呼んでぇ」
わくわくというべきか、にやにやというべきか、とにかく楽しそうに私を促す那都希に呆れながら、私は発砲スチロールの、頑丈な包装をほどきにかかった。恐らく、那都希のために、食べ物じゃないお土産も入っているだろう。
三年前、ホテルのラウンジで、初めて母と那都希と三人で対面した日を思い出す。
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