4 きっかけ


 バイトに入る前に、思い出して携帯の電源を入れた。

 店のロッカールームで制服に着替えながら、通知のチェックをする。メッセージが一件、届いていた。


〈お疲れさま。ビルベリージャムと、ラディッキオを送りました。届いたら食べてね。〉


 母からだ。

 イタリアの、ミラノに今は住んでいて、こうして時々、イタリアの特産物を送ってくれる。ありがとう、と返して、ギャルソンエプロンの紐を縛った。携帯をロッカーの中に入れて鍵を閉める。

 ロッカールームを出てお店に出ると、カウンターでコーヒー豆を調合していた店長が振り返った。


「秦野さん。よろしくー」

「お疲れさまです」


 言いながら、カウンターに貼られた注文表を確認する。オレンジティーとチーズケーキのセットが一つ、ブレンドコーヒーが二つ、終わっていないのは、レモネード。


「レモネード作ります」

「おねがいしまぁす」


 豆を挽きながら店長がのんびり答える。ショートヘアに紅い口紅、金色のリングピアスは、いかにもキャリアウーマンといった雰囲気だけれど、この店長は、存外のんびり屋だ。妥協ができないんだよねぇ、だから喫茶店の店長やってるんだけど、といつだったか苦笑しながら言っていたが、ここのコーヒーは彼女でないと淹れられないので、キャリアウーマンという言葉は、あながち間違ってはいないのだけれども。


「店長、今日のブレンドなんですか?」

「ブルボン中心の甘い系だよ。飲む?」

「飲みたいです」


 挽いた豆から立ち昇る、芳醇なコーヒーの香りを嗅ぎながら、私はカウンターの中からレモネードシロップと蜂蜜を取り出す。計量カップでマニュアル通りの分量をグラスに注ぎ、冷蔵庫から冷水を取り出してマドラーを使って割る。最後に檸檬のくし切りをグラスに添えて完成だ。


 木目調で整えられた店内には、上半分のみに設置された窓から、朱色の夕日がたっぷりと差し込んでいる。入り口のドアガラスにはステンドグラスが入っていて、私はこのステンドグラスが好きだ。西洋アンティーク調の室内と対をなすように、葛飾北斎の富嶽三十六景の一つが元絵になっている。


「お待たせしました」


 レモネードのお客さんにグラスと伝票を渡してカウンターに戻ると、隣から、じぅ、と耳に心地良いドリップ音が響いた。

 私は手を拭いて、コーヒーカップとソーサーを用意する。


「ありがと」


 二回、三回と、丁寧にドリップし終わったコーヒーをカップに注ぎ、店長はそれを客席に持って行った。


 店は夜の十時までやっているが、喫茶店なので夕方からは客足が減る。夜遅くまでやっているのはただの店長の趣味で、今日のお昼はほかのバイトが三人くらい来ていたはずだけれど、この時間からは、私と店長、二人だけのシフトだった。


「秦野さん、コーヒー今飲む? お客さん落ち着いてるし」


 カウンターに戻ってきた店長が、私にそう問いかけた。店内をざっと見渡す。お客さんが座っている席はカウンターからほどよく離れているので、小声でおしゃべりする分には問題ないだろう。


「はい、ありがとうございます」


 店長は一つ頷くと、今日のブレンドを再び作り出した。棚から豆を持ってきて、計量カップで重さを量る。


「受験、どーお? バイトのシフト、もっと減らしても良いよ」

「まだ大丈夫です。さすがに十二月とかは追い込みでバイトどころじゃないかも知れないですけど」

「推薦は受けてないんだよね」

「第一志望がいつも講義を聴きに行っているところなので。顔見知りになっちゃった先生が結構いるから、万が一顔を合わせたら落ち着かないというか」


 なるほどねぇ、と言いながら店長が豆を挽いていく。以前、休日は何してるの、という雑談で、大学の講義をたまに聴きに行くことは話したことがあった。何の講義かまでは話していない。


「お母さんは? 受験の時には帰ってくるの?」

「ちょうどさっき、今月のお土産連絡に返信したところですけど……まだ受験の話はしてないですね。とりあえず年末には一度帰ってくるんじゃないかと思いますけど」

「その時は、家族水入らず? 実家に帰るの?」

「いえ、毎年ホテルです。前住んでた家は引き払ってて、今住んでるとこは同居人もいるし、学生向けなんで、三人はちょっと狭くて」


 私が苦笑しながら言うと、ホテルで年越しなんてちょっと良いね、と店長は笑った。

 確かに、ホテルの整頓された清潔な部屋で、生活感から離れたところで年越蕎麦を食べるのは、一年溜めた何かを、綺麗さっぱり清算しているような気持ちになる。同時に、何かを置き忘れたような気にも。


「イタリアと日本を行き来するのも大変そうだねぇ。インテリア関係のお仕事だっけ?」

「はい。イタリアに行くことになったのは、本人も寝耳に水だったみたいですけど」


 じぅ、と、泡立ちながらお湯の沁みていく、店長のゆっくりとしたドリップを眺めながら、私は一昨年の春を思い出した。


 高校に入学する少し前のことだ。

 夕飯のシチューをつつきながら、母が、随分申し訳なさそうに、引っ越しを提案してきた。何でも、今いる会社で部署異動があって、異動先では転勤の可能性があるとのことだった。母は、父が失踪した後、資格を取って大手建築会社のインテリアコーディネーターをしていた。元々大学はそういった専攻だったそうで、前職も事務だったとはいえ、住宅関連の会社だった。


 高校入学を間近に控えて、半年後には転校というのは忍びない。とはいえ、私を一人にはできないし、一緒についてくるか、もしくは入学予定の高校からは少し距離があるが、母方の実家に身を寄せるか。


 どうしても難しければ部署異動を断る、と言ってくれたけれど、私はできればそれは選択したくないんだろうなと、とろけた人参をスプーンで掬いながら思った。

 と言うより、どっちにしろいつか引っ越しはしたかったんだろうな、ということが分かっていた。早朝のリビングを見るたびに、父の失踪した日のことを思い出すのは、私も同じだった。タイミングが来たのだ。


 でも高校はかえたくないしな。


 これでも受験はそこそこ頑張ったのだ。祖父母の家は、高校まで片道二時間かかる。早起きで通えない距離ではないけれど。

 考えさせて、と言ってから、私は自分の部屋に籠もって、ベッドの上でしばらく考えた。考えて、携帯を取りだす。

 もしかしたら会えなくなるかも。会いにくくなるかも。

 一応、連絡しておこうかな。

 思って、ひ、の連絡先を表示する。


 樋野宮那都希。

 一年ほど前に交換した連絡先だった。


 メッセージを送信し、完了を見届けたところで、こんな不確定な話を聞かされたところでどうしろと、と自分で思った。せめて春からどうするか確定してから送れば良かったのに。

 携帯が振動する。

 相変わらず返信が早い。

 当然、詳しい事情の説明を促された。私はそれに返信し、さらに訊かれ、返し、それを繰り返し――しばらくのやりとりの末、私は母に、那都希との同居を申し出ることになったのだった。






 父は、手紙の中で、片恋相手の名前を書いていなかった。恐らくは勤務先の入院患者なのだろうことだけが辛うじて分かったが、心変わりの謝罪文に、相手のことが事細かに書かれているはずもない。

 それが、例の樋野宮那都希その人であることに辿り着くには、あの冬の日からさらに数ヶ月を要した。


 地道な病院での聞き込みの結果だった。

 失踪の時期的に、失血事件が関係ないはずがない。病院の方でもそれはまことしやかに囁かれていたようで、私は自分の立場を最大限活用し、何度も病院に話を聞きにいった。

 父の当時の動向、雰囲気、勤務状況。交わした会話で覚えているもの。病院内でのイベント。失血事件の詳しい経緯。父の四件におけるアリバイに関しても、できる限りの情報を教えてもらった。

 そうして色んな人の話を聞いていく中で、樋野宮那都希の名前が、事件に関することだけでなく、父に関する話にも頻繁に登場することに気付いた。


 父は小児外科医だ。中学生だった那都希との関わりは当然あったはずで、最初はあまり気にとめていなかった。あれ、と思ったのは、那都希の担当が父ではないことを知ったときだ。病院スタッフの口ぶりからは、父が那都希も担当しているように思えていた。しかし実際には別の小児科医が担当で、思えば血食症の治療は、基本的に内科治療だ。そのうえ那都希は個室にいたことを、当時の病院スタッフの一人――数ヶ月かけて、退職した人や転勤した人にも話を聞きにいっていた――から、教えられたのだ。


 担当ではなかったのか。

 ただそれだけのことに思おうとした。

 たまたま親しくなるきっかけがあって、それだけの関係だったのかも知れない。


 だって那都希は当時中学生だ。


 何度もそう考え、それでも払えなかった疑念は、ある種の勘のようなものだったと思う。

 病院スタッフから聞いて自分が想像していた父と那都希の親しさは、何か、たとえば担当医だったとか、そういう強いきっかけを必要とするように思えたのだ。大部屋でもなく、個室に入院していた那都希と、一体どこで。


 もしかして。

 もしかして――父が恋をした相手は、樋野宮那都希なのだろうか。


 その妄想は、私の中で、急速に現実感を持った。

 湧き上がる動揺を何度も飲み込んで。

 飲み込んで、飲み込んで、飲み込みきれずに。

 本人に、聞いてみよう。

 そう決心したのは、冬も終わりを告げる、三月の初めのことだった。





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