第九章 少女の決断
「く、こんなところまで!」
海斗の足元を銃弾がかすめる。ふくらはぎや踵、小さな音と共に襲いかかる銃弾の軌跡。
周囲の床や壁が弾け、天井のLEDが粉々になって散っていった。
消音器(サプレッサー)による銃撃は恐ろしく静かだったが、破壊は激しく残酷なまでに執拗だった。
海斗の息が荒くなる。体が痛い。すでに海斗は、限界近くまで走り続けている。胸は苦しく。汗と震えが止まらない。全身にだるさを感じる。けれど止まることは危険だった。
「被験者Kを確認」「これより確保します」
「――第四隊は側面へ。逃がすなよ」
銃撃がより激しくなってくる。後ろ、ほんの十数メートル足らずのところに、さらに武装集団が現れた。恐ろしく静かな銃弾だ、その度に壁や床の一部が破壊されていく。
「海斗くん、急いで! この先に防衛隊がいるはず!」
大牟田が手を引きながら急いで走っている。
しかし医師と被験者の走力と、装甲服のテロリストでは圧倒的に後者が有利だ。無線式のドローンや各種防衛機構がなければ、とっくに捕まっていただろう。
「急いで! あと少しだから――あっ!?」
大牟田の右肩に銃撃が当たる。彼の体が揺れる。さらに右腿、左足、右脇腹に、銃弾が命中する。白い衣服が血に染まっていく。
「大牟田さん!」
彼の体に見る見る血が広がっていく。真っ白だった服は、今や半部が血で斑模様になった。このまま銃撃が続かなくとも、危うい状態だ。大牟田が呻き、腕を伸ばす。
「くっ、やらせるか……っ! 緊急用のっ!」
大牟田がある壁の縁に手をかざし、端末を認識させる。すると、手元の端末のIDが検出される。壁から淡々とした自動音声が流れた。
『緊急用防火・防水シャッターを稼働します。付近の職員は退避してください』
天井の溝から、勢いよく合金製のシャッターが降りてくる。まるで障壁のように、それは海斗たちとテロリストたちの間に落ちて人工の要塞となる。敵の経路を遮断する。
ガンガンガンッ、と、武装集団の放つ銃撃がシャッターの合金板を勢いよく叩いていく。
「はあ……はあ……これで数分は保つはずだ。あとは防衛隊が何とかしてくれれば……」
大牟田は特に酷い右肩の傷を左手で抑えながら呟く。
白衣のポケットから簡易型の血止めのスプレーとテープを使う。すぐに血が止まる。息の荒さまでは戻らないが、急場しのぎとしては上々だった。
「大牟田さん……大丈夫ですか?」
「なんとかね。医療の進化はすごいんだよ。……君は?」
海斗は汗が目に入るのを鬱陶しそうに払った。
「俺は平気です。でも……何か、不自然が。俺への銃撃が消極的だったような……」
「……おそらく連中は、君だけは生かして捕らえるつもりだ。だから手加減した」
「え、なぜ?」
大牟田は息切れする寸前のまま呟く。
「被験者の一人だからだろう。君はVR世界に長くいた経験を持つ。『殺人自販機』という、遠隔でどんな人物をも倒せる『被験創造物』。人の精神を破壊するあれを使える君は――奴らにとって確保すべき人材なのだろう」
「そんな……」
ぞっとする。それでは家畜の人生だ。テロリストに飼われる? そんなの冗談ではない。
銃撃音がさらに激しくなる。相手側はシャッターを力づくで破壊する気だ。
いつまでも保つはずがない。大牟田は痛む体に鞭を打つように前を向いて、海斗の手を引いて前へ振り返った。
「行こう……シェルターにたどり着ければ、連中も手は出せないはず……」
「――それはない。お前たちはここで捕縛される」
防火シャッターが、一瞬で吹き飛ばされた。爆炎と爆風が跋扈し、衝撃で海斗も大牟田も床に叩きつけられる。
烈風が赤々とした炎の舌と共に鎌首をもたげ、まるで大蛇のようにのたうち回った。猛烈な爆炎の最中、黒い装甲服の男が悠然と前に出てくる。
死神(リーパー)。敵の首魁の一角。襲撃の中核の一人だ。
「……ぐ、あ、お前は……?」大牟田が咳き込み、誰何する。
「《死神(リーパー)》と呼ばれている。まあ、お前たちを殺しはしないが」
フルヘルメットの変声器越しに、リーパーが淡々と言った。氷のような口調だ。死神は右手に持っていた携帯型ロケットランチャーを投げ捨てると、部下に命じた。
「医者の方を撃て。頭と胸は狙うな。手足を狙え。彼の知識は、我々にとって有益になる」
『了解』
大牟田の足や手に銃口が向けられた。海斗は何を言うことも出来なかった。
消音器による静かな銃撃が、大牟田の腕や足を撃った。大牟田の呻くような声。彼は持っていた端末を取り落し、倒れる。痛みに体をうつむかせる。
「大牟田さん!」
「――楠木海斗。お前は俺が直々に捕縛してやろう」
リーパーは腰に下げていた拳銃を取り出すと、彼の脚に狙いをつけた。
その声音に躊躇いはなかった。人を物としか思わない響きだった。人を撃つのが日常の声。
「お前の『殺人自販機』はじつに有益だ。その力を以って、我々に協力しろ」
「ふざけるな……っ!」
海斗は本能で悟った。このままじっとしていては駄目だ。柚葉との生活が途絶えてしまう。大切な、かけがいのない、宝石のような毎日が途切れる。
それは嫌だった。絶対に阻止すべき光景。海斗は、大牟田が取り落した端末を拾って、駆け出した。リーパーが失笑する。
「逃げられんよ」
途中、海斗は大牟田の端末を使って、防火シャッターを起動させた。重々しい音。リーパーたちテロリストと海斗の間に、再び断絶の障壁がいくつも舞い降りる。
「逃げる人間を追うのは気分がいい。猛獣にでもなった気分に到れるからな」
リーパーは左腰に下げていた、警棒のようなものを取り出した。
機器を起動させる。瞬間――ヴヴヴと短い振動音と共に、警棒のようなものから金属の刃が飛び出した。即座に赤熱していく。
「防火シャッターは意味がない。高熱切断刃(ヒートブレード)の前には無力だ」
装備した準最新鋭の武器を振り下ろすと、防火シャッターはバターのように解けて寸断された。無意味ではないが、時間稼ぎとしてはあまりに乏しい時間だった。重々しく切り落とされたシャッターの一部分が床に落ちていく。
「VR世界で死を刻むことが出来る少年、楠木海斗。お前は俺が、必ず捕縛する」
海斗の背中が、五十メートル先に見えていた。海斗は大牟田を置いて走っていった。
――三八階層の管理室は、悲痛な沈黙で満ちていた。
「そんな事態が……」
祇園司令は思わず呻きを上げた。通信の発信元は大牟田。肩で息をしているところを、必至に端末でメッセージを打ち込んでいた。
『間違いありません。月島礼愛は、共犯者でした。今思えば、礼愛ははじめからこの施設に送り込まれた工作員だったのかと……』
海斗が降ろした防火シャッターは、偶然にも複数降ろされていた。
そのうちリーパーたちがブレードで斬り裂く寸前に、かろうじてそのメッセージを送ることが出来たのだ。
「確証はあるのか? 彼のメッセージは」
騒然とする管理室で、光学モニターを読み上げるオペレーターが叫ぶ。
「大牟田医師のメッセージは、おそらく真実でしょう。彼の話を総合した場合、モニターしていた楠木海斗や、妹の柚葉さんのVR世界には、月島礼愛は映っていなかったはず。――ダミー映像でも見せられていたのでしょう。やり方は各階層を攻略されたときと同じ。礼愛がハッキングし、ダミー映像で誤認させた」
「……私も焼きが回ったものだな、少女相手にこれとは」
祇園司令は狼狽の声音を隠せなかった。全てが油断。あるいは傲慢から始まった。自分たちの技術が相手を上回っている。所詮は烏合の衆が相手。そう見下していた。
大牟田が送ってくれたメッセージ、その続く部分を見る。
『私も全部を把握できたわけではありません。しかし、そう考えるのが妥当と思っています。月島礼愛を阻害しない限り、我々に勝ち目はありません』
それで大牟田の送ってくれたメッセージは終わりだった。祇園司令は急いで他の医師や逃げている柚葉、各所の人々へ同様の内容を伝えた。
時間だけが勝負だ。一秒の無駄も許されない事態と言えた。
――第三十六階層。
〈大丈夫か、海斗くん〉
海斗は、現状を祇園司令に伝えていた。連絡は大牟田の持っていた端末からだ。
祇園司令の声は固かったが、気遣いも感じさせるものだ。緊急用のコードで、通信が繋がっている。
「はい、なんとか。……あいつらは、俺のことを狙っています! VR世界での体験があるから。利用出来るから。捕縛を目論んでいると、自分で言っていました!」
〈――っ、あり得る話だ。賊共には人材が不足している。VR研究のな〉
努めて冷静に言葉を選んでるようだ。しかし祇園司令の声は重々しい。打開策は打ち出せていない。彼も必死に足掻いてはいるようだが。
〈君の体験は貴重なものだ。現状、『被験創造物』を最も操れるのは君だ。殺人自販機で他者を葬ってきた経験は、彼らにとって最高の武器となるだろう〉
「それですけど……疑問が。大牟田さんから話を聞いたときも思ったんですけど、敵はどうやってVR世界に、要人を呼ぶんですか? 不可能でしょう?」
VR世界なら精神を破壊出来るのはわかる。その人材に海斗を選ぶ理由もわかる。だがVR世界はそもそも仮想空間だ、メイヴTP5やスタッフが必要なはず。
あれは大型の装置が必須で、おいそれと要人を奇襲できる代物ではない。
〈……これは部外秘の話だが、聞いてくれ。この施設には現在、『次世代型』のメイヴシリーズが開発中だ。元々は対テロ用に考案した、『携帯可能なVR』による制圧兵器だ〉
「……っ!」
祇園司令の言葉に、海斗は体が強張った。次世代のメイヴシリーズ? 携帯可能な兵器。嫌な響きだった。
「それは……」
〈精神をVRで治療出来るなら、反対に精神へダメージを与えることも可能。その発想は何もERUDENだけが考えたものではない。この施設の研究者は、同じように『VRによる対テロ用の精神攻撃』を考案していた。――第37階層。君がいるすぐ下の階層では、その試作品が保管されている〉
「試作品……そんなものまで」
すぐ下に兵器がある。使い方次第で人類を脅かす試作品が。それらが武装集団の床の下に?
「どういうもの、なんですか? それは。もし壊せるなら、破壊した方が……」
〈破壊は無理だ。ハッキングでロックされている。海斗くん、アロマセラピーを知っているかね? またはヒーリングミュージックは? それを発展させた理論が、新型のメイヴシリーズでは応用されている。あれは匂いや音、光、振動――様々な外的要因により、人の精神に作用する。つまり『五感によって人を昏睡させる』兵器だ〉
「そんな……っ」
〈彼らは、我々が作った次世代メイヴシリーズ――
海斗は震えながらそれを聞き入っていた。背後でリーパーが次々と防火シャッターを斬り裂く轟音が聞こえてくる。
〈《ヒュプノスシリーズ》、あれは小型化を目指して開発された兵器だ。何しろ暴徒鎮圧のために、複数の人間を制圧するために考案されたものだからな。――ペン型、イヤホン型、USB型、タトゥー型など、日常的に存在し、かつ携帯性に優れた物を筆頭に発明された。私服警官でも使用は容易だ〉
「ペンやUSB!? そんな小さく……!?」
〈ああ、技術の進歩が逆にテロ集団の標的となるのは皮肉だがな。だがこれもまだ試作段階だ。持続時間に難があり、なおかつ効果範囲も二メートル以下。コストも膨大だ。とても現状では量産は出来ないはずだが〉
「じゃあ……」
しかし、と祇園司令は続けた。
〈奴らはたとえ試作品でも、計画には十分だと思っているのだろう。独自の開発チームを所持している可能性もある。それで完成させればいい。奴らの手に《ヒュプノスシリーズ》が渡れば、各国の大統領、首相、大企業の社長、その他CEOなどが強制的にVR世界に引きずり込まれる。集会などで。議事堂などで。彼らの精神は破壊される。――楠木海斗くん。君の『殺人自販機』――あの被験創造物は、奴らにとって切り札なのだよ。理想を現実にさせる、何より強力なパーツと成り得る〉
兵器のパーツ、それも生きた部品としての価値。そんな物として捕まえられたら駄目だ。もはや普通の生活なんて期待できなかった。
「ど、どうすれば……俺は……」
〈ひとまず、応援の部隊がそちらに向かっている。可能な限り防衛機構も再稼働――さ――よう。そう――て君――ER――DENの――〉
通信の具合が、急に悪くなった。海斗は焦る。何度も端末を確かめる。
端末の故障ではない。雑音が混じる。酷くなる。声が正常に届かなくなっていく。
〈通信――妨害 ? 海斗 ん、急 そこ 逃――〉
ブヅンッと。不吉な音を立てて、通信が遮断された。
祇園司令の声がまったく聞こえなくなる。再度通信を試みても不通。ERRORの文字。数度試しても端末は息を吹き返すことはなかった。急激な恐怖が海斗の背を這い上がる。
「やはり……まだここにいましたか」
「っ!?」
その直後、海斗は思わず振り向いた。
見知った顔の少女が、静かな様子で立っていた。――緩めの髪に華奢な体。白磁のようでいて、しなやかさも併せ持つ少女。何度も笑顔を見た相手。仮想世界での恩人。
「礼愛……?」
「はじめまして――と言うべきなんですかね、現実(ここ)では。海斗さん」
夏祭りの光景。ハッキングの光景。家庭教師の光景。柚葉も交えての団欒。その後の、大牟田の言っていた分析や、自身の言った推測を思い返し、海斗は身構える。
「礼愛……お前が、共犯者? やっぱり、この事件の……」
「そうです。――こっちでの呼び名は《ジョーカー》と言います。切り札ですって。ふふ、ダサいし最悪な役割ですよね。笑ってしまいますよ」
礼愛の笑顔は仮想世界と変わらないように見えた。しかし実際は全てを諦めた声音。それは彼女が紛れもない敵側の一員であることを示していた。
その手には、大牟田が使っていたのと同じ端末がある。施設の機器を操れる端末だ。
「すみませんが、任務を続行させてもらいます」
礼愛が手元に持っている端末を操作した。すると通路に降りていた防火シャッターが、次々と解除されていく。
重々しい音を奏で、天井の溝に戻ってしまう。死神との距離が縮まっていく。
海斗は様々な感情を押し込めて尋ねた。
「どうして……こんなことを」
「簡単な話です。養父があいつらに捕まりました。わたしは脅されています。養父を失いたくなければ、協力しろと」
礼愛は悲しそうな表情を浮かべつつ首を振った。それはすでに色々と諦めた表情だった。
「……礼愛の事情には同情する。でも、この施設を追い詰めたことは……っ!」
「そうです。何を言って所詮は共犯者です。でも海斗さん。あなたとの養父の救助劇は、最高でした。わたしは束の間の安息を得られ、養父も助けられた。さらには柚葉さんとも仲良くされた。――嬉しかった。ほんとうに、充実した毎日(VR)でした」
「あのときの……君の行動は、全部演技だったのか?」
礼愛は悲しそうな顔を見せ、首を横に振った。
「違います。VR世界には、現実の記憶は持ち越せません。正確には、任意ですけど。少なくとも、あなたや柚葉さんとの日々は、『ただの月島礼愛』としての経験です。犯罪者のジョーカーではなく、素のままのわたしでした」
けれど、それは偽りの光景だった。現実に戻れば彼女は記憶を取り戻し、共犯者としての任務を真っ当する。しなければならない。
礼愛は手元の端末を突きつけて言う。
「わたしは記憶が戻り、今はERUDENの協力員としての立場があります。これから、あなたを組織へ引きずり込まなければなりません」
「――」
海斗は身構えたまま礼愛と、後方を見渡した。まだ後方のシャッターは全て上がってしまったわけではない。つまり、今なら礼愛さえやり過ごせば打開策はある。
「……駄目だ、それは認められない。俺が諦めれば終わりだ。仮想世界は悪用される。乱暴な手段で要人の精神を破壊するテロリストがのさばるなんて許せない。それだけは絶対に拒否する!」
礼愛は優しい笑みを浮かべた。
「補填はありますよ。わたしが補佐として専属のパートナーになります。強制された共犯者として、女ならではの慰めもしてあげられます」
「なおさら御免だ! 君にも、俺にも、誰にとっても、良い結末になるとは思えない!」
礼愛は目を数秒だけ瞑った。そして優しい、けれどどこか突き放した声音を作る。
「……残念です。あなたのこと、無理にでも連れていきます」
一瞬、悲しげに礼愛は瞳を向けた。けれどその直後には、冷徹な視線でもって気持ちを振り切っている。
「ごめんなさい、海斗さん。次に目覚めたときは――」
そうして、手元の端末を、操作しようとして――。
ふと、羽が舞った。
「――?」
礼愛は、一瞬だけ怪訝な顔して目を細めて視界を狭めた。白い羽が一瞬だけ、意識と、視界を限定させていた。
それは明らかな隙だ。すぐさま彼女は気を取り直し、端末を操作しようとしたが。
直後。
横合いから『ペン型』の何かを投げつけられる。
――礼愛は思わず怯んだ。わずかに手に違和感。血が出ている。運悪く先端が刺さったらしい。
「……っ、誰が。何を」
すぐに態勢を立て直して、礼愛が硬直する。目を見張って、目の前の光景に唖然とする。
「……柚葉、さん……」
それは、いつも朗らかで。いつも笑顔を努めて。ずっと優しい顔を浮かべていた少女。
「――兄さんに、手は出させない!」
柚葉が、担当の医師と共に迫っていた。手元にはいくつものペン、イヤホン、タトゥー。
いや、本物ではない。それは最新鋭の技術の塊だ。次世代メイヴシリーズ、《ヒュプノス》。それを手に駆けつけていた。
思わず礼愛が下がりつつ怯む。動揺と困惑、初めて敵意をこの少女から向けられた罪悪感。
――礼愛は知らない。祇園司令が、可能な限り抵抗したことを。逃げている医師や、職員――患者にも今回の件を報告したことを。
そしてその中に、37階層に向かい、『暴徒鎮圧用』に作られた、試作型ヒュプノスを持ち出した者たちがいることを。
その一人に――『柚葉』がいたことを。礼愛は知らない。
「兄さんに手は出させない。礼愛さんがそれをしようとするのなら、わたしが邪魔をする」
手にあった物を投げつける。イヤホンを。タトゥーを、UBSを。それを邪魔そうな顔つきで手で打ち払った礼愛は、一瞬後、ぎょっとして目を見開いた。
「――っ、これはっ、次世代の――」
「今です! 起動を!」
柚葉が大きく叫ぶ。背後にいた、担当医師が、手元の端末を操作する。
礼愛が端末で阻害を試みようとする。しかし一瞬、宙に舞っていた羽が視界の中で邪魔をした。
その隙、一種の空白。柚葉の投げたそれが、次世代型装置、『ヒュプノス』の発動を――補佐し、匂いや音、光――それらを発動させて、礼愛の意識を、一瞬のうちに昏睡の中に引きずり込むことに成功した。
深く。
深く。
深く。
仮想の中へ。
虚構で構築された、もう一つの、限りなく現実に近い複製された世界へ。礼愛の意識は、柚葉もろともVRで創造された――人工の世界の内部へ、真っ逆さまに落ちていった。
――。
――。
柚葉は思う。
兄が羨ましかった。彼は理想だった。いつも前向きに行動して、苦難にもめげず、絶えず明日を向いて歩いていく大切な人。
昔は嫌な人だった自分をたしなめてくれた。導こうとしてくれた。二人きりになって、苦しいこともあったけど、諦めずに前だけを向いてひたすに邁進してくれた。
それは、中学の途中で不登校になってしまった柚葉とは真逆だった。
眩しくて、勇ましい。そして格好良い――自分の兄だ。けれど、負い目も抱いている。なぜなら兄の足を引っ張っているから。バイト先の上司に嫌がらせをされて、真夜中に帰って、妹と食事をする日々だったから。
辛いこともあるだろう、青春をもっと謳歌したいはずだ。兄は柚葉に優しくしてくれるけれど、それが犠牲の上に成り立っていることを知っている。
世界はもっと大きく広がっている。それこそバーベキューをして海に遊びに行き、夏祭りで花火を見て感動したりする人たちもいる。
あるいは家の中でネット上のコミュニケーションを取り、同じサブカルチャー趣味で語り合う、または文芸など創作活動に花を咲かせる人もいるだろう。
けれど、柚葉は兄からそれを奪ってしまった。他人の視線や意見が怖いから、いつまでも兄に頼ってしまう。それを自覚していて、でも、そこから一歩を踏み出すことも出来なくて。
そんな中、不意に訪れた礼愛との日々は、大きな転機になった。
ふっと見せる憂いの顔が、柚葉と同類なのだと感じさせた。
仲の良い姉妹と、海斗は冗談でいつか柚葉と礼愛をそう言った。
確かにそうかもしれない。なぜなら礼愛は柚葉と似ていて、家族を、養父に恩返しをしたいけれど出来ない人だったから。
「――こんな世界に引きずり込んで、どうする気です?」
仮想世界。精緻に創られたもうひとつの世界の中。
つい先ほどまで、遊んでいた夏祭りの公園。今は誰もいない、出店や太鼓や植物や噴水だけがある寂しい空間で、柚葉と礼愛は対峙していた。
「何もしません。ここで大人しくしてもらいます」
柚葉は告げる。いつもみたいに、震えそうな顔つきで。けれど逃げてはいけないと、自分に叱咤をしながら。
「VR世界に足止めですか。――図らずも、この兵器の強さの証明になりますね。確かにこれは厄介です。どんな人物でも、ここに来れば無力化される」
たとえ世界有数のハッカーでも、この世界からは出られない。そうする前に、現実で体が拘束され、何も出来ないようになる。礼愛は観念したかのように、肩をすくめて言った。
「まさか、あなたに邪魔されるとは思いませんでしたよ、柚葉さん。大手柄ですね」
「……大手柄、というのは大げさです」
柚葉は謙遜なく本音を言った。礼愛は皮肉げに笑う。
「ここへ連れ込まれた時点で、わたしはもう無力化です。柚葉さんの隣にいた医師は厄介ですね。現実では今頃、わたしを拘束して身動き出来なくしているでしょう。そうでなくとも、海斗さんがハッキング端末を取り上げればそれで終わりです」
それは、諦めと、安堵と、そして少しの不安の声。礼愛は自分の負けを悟っていた。
「わたし、リーパーとは違って訓練された兵士ではありませんから。所詮はハッキングだけが取り柄の小娘です。完敗ですね」
「……自首してください、礼愛さん。そうすれば罪は軽くなります」
礼愛は大きく嘆息をして、その場にうずくまった。そして呆れにも、怒りにも感じられる声音を発した。
「意味はないです。だって養父は捕まっていますから。わたしの異常は、もうすぐリーパーに感知されるはずでしょう。養父はすぐに危険にさらされる。――そんなのは嫌です。わたし自身も、裏切りのハッカーとして扱われますし」
「……それはないです。礼愛さん、外部との連絡を閉ざしたのでしょう? それを解いて外部にERUDENの人が連絡出来るなら、この施設だって応援を呼べます。それくらいは出来ると担当医が言っていました。――あちらは男性一人をどうにかする、こちらは救援部隊を呼ぶ。割に合いません。ERUDENは、すぐには養父さんに手は出せません」
「それは……っ」
礼愛は狼狽する。――事実だった。いくら奇襲されたとはいえ、もう襲撃からそれなりに経過している、緊急ラインの構築も進んでおり、隙があれば外部へ連絡は可能だ。
礼愛は、実質無力化されている。よってERUDEN側は事件の証拠抹消や、施設の妨害を優先させる。礼愛の養父は――現時点では優先度が低い。
「礼愛さん」
柚葉は静かに語りかけた。彼女の心に染み渡るように。楽な道へ諦めかける心に楔を打つために。
「ちょっと話はズレます。――あなたは、わたしが幸せに見えますか?」
「は?」
礼愛はおかしなものでも視るように柚葉を見た。すぐに吐き捨てた。
「まあ、幸せでは、ないですね。……時々幸せに笑いますが、心の底では罪悪感を抱いている。海斗さんにおんぶに抱っこ。それがずっと続いている生活……ある意味で倒錯的な関係。でもそんな環境に、少しだけ安心感も得ている。……歪んだ幸せ」
「ふふ、そうですね」
あまりに正確すぎて苦笑がもれてしまった。さすが、もうひとつの自分と見ていた少女の分析だ。
「確かにわたしは、兄さんに依存しています。もっと先まで続いてしまうかも。……でも礼愛さん。あなたは違います。あなたにはハッキングという、れっきとした技術があります。それこそ、こんな世界の技術を集めて作った研究所に侵入を許すほどの。あなたは凄い能力を持っているんです」
「……何が言いたいので?」
険を帯びた礼愛の視線に、柚葉は怖くなる。
でも退けない。兄のことを思い浮かべる。兄は、どんなときでも逃げなかった。それを思い出す。模倣する。出来るはずだ。なぜなら、ずっと兄のことを見つめてきたのだから。
「礼愛さん。あなたの技術は世界に誇れます。もう一度、ホワイトハッカーとして、望めば発揮できるのではないですか?」
礼愛は横に首を振った。
「無理です。わたしは政府に捕まる。各国が非難する。そんな甘い未来はありません」
柚葉の瞳は毅然としたまま訴える。
「じゃあ――『上書き』してしまいましょう。今からERUDENの人たちにハッキングを仕掛けるんです。――テロ集団への裏切りです。そうすれば礼愛さんは、土壇場で世界へ貢献した功労者として扱われます」
「……はあ?」
今度こそ、予想を遥かに斜め上に行った案に、礼愛は頓狂な声を出した。
「本気で言ってるんですか? あなた、馬鹿なんです?」
「いいえ。本気です。……礼愛さん、あなたにはこれまでの功績もあります。脅したのはERUDENで、きちんとした要人に経緯を説明し、弁護士を味方にすれば罪は軽くなるはずです。……国によっては称賛されるかもしれませんよ? 毒をもって毒を制す――色々な生き方があるじゃないですか。わたしより選択肢がある礼愛さんは、それを選ぶべきです」
「……はは」
礼愛は小さく笑って、それから力なくうなだれた。
「今さら、そんな都合の良い道は歩めませんよ。わたしは何度もひどいことをしてきました。今回の襲撃にも加担しました。それが帳消しになるなんてあり得ない」
「……帳消しにはなりません。でも今回のテロ防止は大きな貢献になると思います」
礼愛が悩むような仕草をする。細い体が、小さく揺れていく。
「……確かに。わたしのハッキングで救われる人はいるかもしれません。けれど養父は……許してくれないです。きっと怒ります。他人を不幸にしておいて、のうのうと生きる。それくらい悪いことをしたと叱ってくるはずです」
「それは謝りましょう。――わかってくれるはずです、残された家族なんですから」
「……」
反論しかけて、養父を想像して――彼の性格なら、もしやと思ってしまったのだろう。罪悪感はある。けれど最大の理解者は許してくれる。そんな考えが彼女を揺らす。
「……それに、わたしと兄さんも、新しく家族になります」
「はあ?」
これには、礼愛はもう何度目かわからない困惑の声を上げた。
「柚葉さんは本当の馬鹿なんですか?」
「養父さんが、大事な人だってこと、凄くわかります。わたしも、父や母をなくしました。でもだからこそ新しい、『家族』を増やすことだって無理ではないです」
「ちょっと、待ってください。本当に待って……」
急な提案に頭が追いつかない。頭を片手で押さえ、もう片方で静止の意志を示す礼愛に、柚葉は声に力を込める。
「わたしと兄さんも、叔父さんにお世話になっています。多忙で滅多に家に帰ってこないけど。たまになら電話で話せます。その程度の間柄だけど、新しい家族なんです。礼愛さん。家族は作れます。『大切な人』は増やせるんです。――犯罪の過去が許せないと言うなら、わたしたちと大切な人となって、共有しませんか?」
「……それは、どういう……」
「苦労を分かち合う家族になるんです。……家族が駄目なら、友人でも悪友でも構いません。とにかく『縁』を作ってください。ううん、違う。もう『縁』はあると思います。わたしと礼愛さんは。――兄さんも。夏祭り、家庭教師。たくさんあったじゃないですか。楽しかった瞬間が。それは、仮想の中の、短い時間かもしれないけれど。本物で大切な幸福です。礼愛さん、わたしや兄さんが、新しい『大切な人』になっては、駄目ですか?」
「なにを、言って」
礼愛の顔に、様々な葛藤、苦しみ、悲しみ、罪悪感が浮かんでいった。
一言では表しきれない、多彩な感情が見えては消えていく。それは、きっと言葉では表現できなくて、するとしても恐ろしく時間が掛かるものだ。けれど、その感情を、過去を飲み込んで、彼女は言葉を絞り出していく。
「……わたし、犯罪者ですよ? 面倒ごとに巻き込まれますよ?」
柚葉が苦笑を浮かべる。
「もうとっくに巻き込まれています」
「……海斗さんを、不幸にするかも」
苦笑いをしたまま、柚葉は小さく首を振る。
「それももうしています。……けれど、不幸は幸福に変えられます」
礼愛は、複雑な表情を浮かべた。頷きたい――でも葛藤が邪魔をする。揺れる心。掴みたい未来と、拒絶したい本音。板挟みの心境。
「……裏切ったわたしを、信用なんて出来るんですか?」
柚葉は、たくさんの感謝を込めて伝えた。
「あなたを信頼してます。だって夏祭り、連れて行ってくれたじゃないですか。わたしに『普通』を教えてくれました。あなたがいなければ、わたしも兄さんも、閉じた日常でした。でもあなたがいてくれたから、わたしたちは、少しだけ前へ踏み出せたんです」
自分の家で完結した世界。未来のない日常。歳を取り、時間だけが経過する。兄といつまでも二人で紡ぐ閉鎖的な人生。『普通』ではない生活だった。
それはある意味で、甘美な光景だろう。嫌なことは一つもない。二人だけの光景だ。
けれど家族だけで閉じてしまっている。それがもし続いたら、それは健全な形ではない。
「……わたしは」
礼愛は、深く、深く迷っていた。悩み、苦難を覚え、葛藤し、それでも考えていた。
やり直したくて出来なくて。いつも怖くてリーパーたちの言いなりになってきた。
それを終わらせることが出来るのか? そう、悩み、苦しんで――どれほどの時間が経っただろう、礼愛は初めて暗闇を前にした子供のように、弱った声で聞いた。
「……本当に、後悔しませんか?」
「何度でも言います。――平気です。わたしと兄さんなら」
怒られるのを恐れる子供のように、礼愛は視線を向けてくる。
柚葉は、笑顔をさらに柔らかくする。支えるのはいつも同じ人でなくともいい。
どちらかが寄りかかって、交代して。ときにはまた交代して。
それを三人で続けていこう。そうして苦難を分かち合えば、きっと前に進めると思うから。柚葉の言葉を噛みしめるように、礼愛は天を仰いでいた。
「――わかりました」
礼愛の瞳に、もはや不安はもう現れてはいなかった。
「わたしは、何をすればいいんです? もう最後まで付き合いますよ」
柚葉が笑みを浮かべる。
「やり返しましょう。ハッキングにはハッキングを。兄さんを襲う人たちに、倍返しを」
礼愛が口端を緩めた。それは楽しそうだ。――そうだ、やられたらやり返す。アナログではポンコツだが、デジタルでは礼愛は、無敵なのだ。
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