記憶を失くした者 ―2―

 メモリアの忘却の魔法によって、旭は4つの記憶を失くした。忘却の魔法の影響は強く、4つの記憶に関連する記憶も、伝播するように徐々に枯れ落ちていく。旭が一時的に自分の名前を忘れていたのはその影響だった。

 旭が失くした1つ目の記憶は、モニカ・エストレイラに関するすべての記憶だ。モニカ・エストレイラの記憶を失くしてしまったという信じ難い現実に旭とレオノールは沈黙する。静まり返った部屋には旭の深いため息の声だけが聞こえる。



「……何も思い出せねぇ」



 顔と名前が一致しないどころか、思い浮かべることもできない。旭は、レオノールが必死で説明する『モニカ・エストレイラ』という人間が何者であるかを理解する事もできなかった。



「神精樹の古書館で助けただろ! だからお前は時間稼ぎのためにあの魔法使いと戦ったんじゃねぇか!」


「記憶にねぇな。あいつと戦ったのはトルリーンを助けるためだったろ」


「違う! そこにはエストレイラもいたはずだ!」



 レオノールの訴えも虚しく、旭がモニカのことを思い出すことはなかった。抜け落ちた他の記憶とは違い、すくい上げて思い出すことすらできない。まるで、そこには最初から何も無かったかのように、空白が広がっている。思い出そうとしても、そこに旭がモニカといた、という記憶はない。



「記憶から消えたってことはその程度の存在だったってことだろ。そのエストレイラってのが誰だから知らねぇが俺にとってそいつは――」



 旭がその先の言葉を口にしようとした瞬間、風の声が聞こえるほど静かだった部屋に破裂音が響く。バチンと肌を叩くような音は空いた窓から外にまで届いたらしく、この時間から学園に向かう生徒たちにも聞こえた。

 旭は赤くなった左頬に触れ、ギロリと鋭い目付きでレオノールを睨みつけた。旭の言葉に思わず体が動いてしまい、レオノールは反射的に旭を叩いていた。

 旭も見たことがないほど顔を歪ませて、レオノールは目に涙を浮かべて言った。



「……お前の口から聞いたんだぞ。エストレイラは良い奴なんじゃなかったのかよ。大事な人じゃなかったのかよ……!」


「知らねぇな。記憶にねぇって言ってんだろ」



 旭が悪態をついてレオノールから目を離した瞬間、今度は鈍い殴打音が鳴る。レオノールは痛みで顔を抑える旭をベッドに押し倒して言った。



「馬鹿なこと言ってんじゃねぇ! だったらなんであの時エストレイラを助けた! 見ただけでも敵わないって分かる相手になんで挑んだ!」


「そんなの……俺にだって分かんねぇよ! 覚えてないんだそんなこと!」



 レオノールの言葉に反論する旭に、再び拳が襲いかかる。押し倒されて身動きの取れない旭は避けることすらできず、レオノールの拳を受け入れた。



「実技試験の時だってそうだ。誰も気づかなかったのに、お前はエストレイラを助けただろうが!」



 レオノールに指摘される度、旭が思い出すのは何かが足りない記憶だった。大切な何かが抜け落ちている記憶。そこに何かがあったはずなのに、思い出せない。そのもどかしさで、旭の全身に力が込められる。



「なんで忘れるんだよ……エストレイラは、お前を変えてくれた大事な人だろ……!」



 旭に馬乗りになったまま、レオノールは旭の胸に倒れ込む。自分よりも泣いているレオノールを見て、旭が抱くのは疑問ばかりだった。

 モニカ・エストレイラなんて人間を旭は知らない。記憶にない。それなのに、レオノールの語るモニカ・エストレイラはまるで本物のようで、辛うじて思い出せる記憶の空白には、その人物が当てはまるのかもしれない。

 でも、旭には信じられないのだ。名前も、顔も、声も、姿も、髪も、瞳も。何もない。知らない。そんな人物が自分を変えたなんて言葉を易々と信じられはしなかった。



「……俺が忘れたのは、エストレイラってやつだけか?」



 じんじんと痛む左頬に手を当て、旭はぽつりと呟いた。旭は思い出せる限りのすべての記憶を思い出す。空白の記憶は多く、その空白を思い出すことはどうしてもできない。



「俺がエストレイラと会ったのはノーチェスに来てからだろ」


「……あぁ、そうだけど?」


「じゃあ、おかしいだろ」


「……? 何が?」



 神精樹の古書館での記憶。そこに空白はあった。旭にはトルリーンを助けた記憶があり、魔女マーリンと戦った記憶もある。

 八重との記憶。そこにも空白がある。八重の昔の話を聞いたことも覚えている。だが、すぐそばに居た『誰か』のことを思い出すことはできない。

 実技試験での記憶。空白はある。不可視の魔獣。見越し入道と戦った。国綱とレオノール、パーシーと協力して倒したはずだ。でも、そこにも何かが足りない。まだ、そこには誰かがいたはずだ。


 でも、空白の記憶はそれだけじゃなかった。日々の記憶の至る所に空白がある。そのすべてがモニカのものだったとしても、説明のつかない部分が一つだけあった。



「俺は……極東でエストレイラと会っている可能性がある」


「そんなわけ……」


「分かるんだよ。分からないってことが分かる」



 空白の記憶は、ノーチェスでの記憶だけではなかった。極東での記憶。旭たちがノーチェスに来る前の記憶にも、空白はあった。



「……じゃあ、エストレイラとお前は前にもあったことがあるってことか?」


「そうじゃないと説明がつかない。この記憶の空白は確かだ」


「でも、久しぶり、みたいな感じじゃなかった。あの時が初対面だったんじゃ?」


「それは俺にも分かんねぇよ。とにかく、確かめてみるしかない」



 旭は乗りかかっているレオノールを突き飛ばして身体を起こす。痛みで顔を歪ませて左頬をさすり、何かを決めたように立ち上がって言った。



「そのエストレイラってやつに会わせろ」


「なんだよいきなり」


「会えば思い出すかもしれないだろ。ほら、早く支度しろ」



 旭に言われるがまま、レオノールは学園に向かう準備をする。レオノールはささっと服を着替え、バッグに無造作に荷物を押し込んで支度を終えた。外ではそろそろ寮を出る生徒が多くなってきたらしく、先程よりも大勢の生徒の姿が見える。

 支度を終えて一息ついているレオノールは部屋を見回し、頭にハテナを浮かべて顔を傾けた。



「どうした?」


「……国綱は?」



 レオノールの目線の先には、一通りの準備が整った教科書などが入ったバッグがあった。思えば、今旭がいる部屋はレオノールと国綱の相部屋だというのに、先程から国綱の姿が見えない。荷物があることを考えると、先に寮を出たというわけでもなさそうだった。

 それに、国綱の荷物置き場には、本来ならなくてはならないものがなかったのだ。



「刀が無い」



 国綱が肌身離さず持ち歩いている愛刀が、そこにはなかった。

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