ふと、気になることがあった。人は、大切な記憶を無くして、いつまで正常でいられるのだろう。


 記憶を無くす前と、無くしたあとで、まったく同じ道を歩むことはできるだろうか。一切の乖離なく、無くした信念を、想いを取り戻すこともなく、人は大切だった誰かの手を取ることができるのか。もしそうであるなら、一体とは何なのだろう。果たしてそれは本当に必要なものなのか。


 心と体を繋ぐものは、どこにあるのだろうか。



「ねぇ、フィスはどう思う?」



 その声に応じて、フィスティシアはゆっくりと顔を上げる。徹夜続きだからだろうか。目の下にはうっすらとクマができていて、眠そうに目をとろんとしている。



「フィスなら、記憶を無くしても、私の手を取ってくれる?」


「……どうだろうな。実際にそうなってみないと分からないことだ。それでも――」


「それでも?」


「お前が手を伸ばすのなら、私はそれに応える。それだけだ」



 フィスティシアは前髪をかき上げ、より一層集中して書類を選別する。山になった書類はいつまで経っても底が見えない。穏やかだった新学期は終わり、慌ただしい時期になった。そろそろ1年生たちは恒例のを行うだろう。使用用途の分からない怪しい魔具の書類申請が何度もフィスティシアの目を通る。

 それどころか、最近ではバウディアムスの周りで魔獣による被害が多発している。怪我を負ったせいとや、原因不明の魔法にかかってしまった生徒も多数だ。おかげで、メモリアとフィスティシアはこうして残業を強いられる羽目になった。



「……またこれか」


「どれのこと?」


「生徒会で依頼を出した魔獣を討伐した生徒が記憶障害を訴えている。被害はここ最近に集中しているが……どうしたものか」


「……大変だね」


「またお前の仕事が増える。頼ってばかりでは申し訳ない」


「いいんだよ。私が好きでやってるんだから。それに、お返しは沢山もらってるしね」



 メモリアはフィスティシアにあざとく微笑みかける。それを見たフィスティシアはふいっと顔を逸らし、また山積みの書類に手を伸ばした。

 多くの生徒が訴える記憶障害。その誰もが、生徒会が依頼をした魔獣を倒した人物だった。関連性がないとは言えない。だが、依頼を出したはずのフィスティシアにはまったく心当たりはなかった。それに、魔獣の討伐依頼の作成は、している。



「そういえば……どこかで聞いた話だが、メインストリートのギルドに騎獅道旭が出入りをしているらしい」


「……へぇ。初めて知った」


「魔獣の討伐で稼ぎを得ているのなら、規則違反だ。手を出してないならいいのだが……今度見かけたら警告しておいてくれ」


「うん。了解」



 そう答えるメモリアの顔に笑みはなかった。机と向き合い、必死に書類を処理しているフィスティシアがその表情を見ることはない。

 メモリアは生徒情報がまとめられた書類に手を伸ばす。パラパラと迷いなくめくっていくと、やがてメモリアの手はある人物のページで止まった。



「ねぇフィス。最近生徒たちが訴えてる記憶障害。あれがもし、誰かによって仕組まれたものだったら……どう?」



 メモリアはフィスティシアに問いかける。忙しなく押印とペンを動かしていたフィスティシアの手はピタリと止まり、少し考えてから、また動き出した。



「……可能性としては0じゃない。あるとすれば、何者かによって飼い慣らされた魔獣の場合だ。死亡時に発動するような魔法が刻印されているなら、できない話じゃない」



 だが、魔法に発動条件を付け加えるのも、自分以外に魔法を刻印するのも、どちらもかなり高度な技術だ。それこそ、大魔法使いレベルの人物ではないと容易にはできない。魔獣を飼い慣らし、生徒に危害を加えるなどという稚拙なことをするような人物が、そんなことをできるはずはない。

 だが、もう1つ、可能性がある場合はあった。フィスティシアからすれば、考えたくはないことだ。フィスティシアはあえてそれを口には出さず、黙っていることにした。



(嫌なものだな……)



 考えてみれば、それが1番可能性が高いことにフィスティシアは気づいてしまった。否定する材料はいくらでもあった。まだ、フィスティシアが確信に至ることはない。そもそも、そんなことをするメリットが、その人物にはないはずだ。



(刻印……魔法の発動条件、魔獣は……。いや、何より……、か)



 フィスティシアは、どんどんと真実に近づいていく。否定する理由を探そうとしているはずなのに、得られる結果は正反対のものだった。



「……メモリア。また、を見せてくれないか」


「え? いきなりだね。最近はずっとなかったのに」



 戸惑いつつも、メモリアは躊躇うことなく服を脱ぎ始める。フィスティシアに背を向け、1枚、また1枚と布が取り払われる度に顕になるを、フィスティシアはじっと見つめる。


 赤く、呪いのようにメモリアの背中に刻まれているのは、とある魔法のだ。



「すまない、そんなものを背負わせてしまって……」


「謝らないでって、何回も言ってるでしょ。フィスティシアは悪くないよ」



 その魔法陣が表わすのは、ビアス家に伝わる『継承魔法』。現当主であるメモリア・ビアスが引き継いだ、ビアス家の象徴たる魔法。メモリアの背中には、おびただしく刻まれた傷とも呼べる刻印があった。


 その魔法の名は――



『記憶』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る